2017年6月18日 礼拝説教「神への道を教えてください」

詩編23:1~6
ヨハネによる福音書14:1~6

櫻井重宣

本日はこうして、伝道礼拝として、はじめての方やふだんの礼拝になかなかおいでになれない方々とご一緒に礼拝をささげることができ、心より感謝しています。

ただ今耳を傾けたヨハネによる福音書14章は、イエスさまがまもなく殺されるのではないか、と不安を覚えている弟子たちに語った説教です。告別の説教とも言われ、14章から16章に記されています。イエスさまの切々とした思いが伝わり、聞くひとりひとりがえりをただされる説教です。

説教の冒頭、イエスさまはこうおっしゃいました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

イエスさまは、わたしたちにもったいないまでの関わりをされる方だ、とおっしゃっている方がいますが、本当にそうです。もったいないほど、わたしたち一人一人に誠実に関わってくださる方です。そのイエスさまが殺されるのではないか、わたしたちの手の届かないところに行ってしまわれるのではないか、と弟子たちは不安な思いで一杯になりました。

こうした不安を覚える弟子たちに、イエスさまは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」とおっしゃり、父の家にあなたがたを迎える場所を用意するために十字架の道を歩むのだ、わたしが十字架の道を歩むことを通して、いつまでもあなたがたと一緒にいることになる、とおっしゃったのです。

わたしたちの教会のメンバーは現在およそ70人ですが、実は、昨年の4月から今年の6月まで、15ヶ月の間に7名の方が相次いで亡くなり、大きな衝撃を受けています。一割近い方が亡くなったことになります。

わたしは牧師として、死を前にした人をお訪ねし、その方と祈りを共にすることを大切にしていますが、死を前にした方の不安の一つはどんなに愛し合い、支え合って歩んできた家族がいても一緒に死んでもらうことができない、死ぬときはひとりだ、という孤独感です。孤独を覚えるのは死んでいく人だけではありません。今愛する家族が召されようとしているとき、長年歩みを共にしてきた家族は、召されようとしている人の苦悩を共にできません。

けれども、わたしたち人間にはだれもできないのですが、先程お読みした詩編23にこういう言葉がありました。どういう言葉かと申しますと、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いをおそれない。あなたがわたしと共におられる」という言葉です。詩人は、まことの羊飼いであるイエスさまは、手を引いて、一緒に神さまのところへ導いてくださるというのです。わたしは、死を前にしている人を訪れたとき、羊飼いであるイエスさまが、この方がどうしても死の陰の谷を歩まなければならないのであれば、この方の手を引いて神さまの御国へ導いてください、ひとりぼっちにしないでください、と祈ります。

死を前にした人のもう一つの不安は、自分のようなものは神さまの国へ招かれるのだろうか、ということです。そのとき、今お読みしたこの箇所を語ります。イエスさまは十字架の死を遂げ、よみがえられた、わたしたちのために場所を用意してくださった、お利口さんだけではない、イエスさまは十字架に架かってくださったので、だれもが神さまの所に住む場所が用意されている、だから大丈夫!イエスさまを信頼しましょう、と語ります。

この告別の説教を読み進みますと、イエスさまは、自分がいなくなることで不安を覚える弟子たちに、神さまは、目には見えないけれどもパラクレートスを送ってくださるとイエスさまは弟子たちに語ります。パラクレートスは、どんなときにも、どんなところでも、その人のそばにいて励まし、慰める方、聖霊です。弁護者、助け主、慰め主と訳されます。

ですから、この告別の説教で、心を騒がせている弟子たちに、イエスさまは、神さまにパラクレートスを送ってくださるようお願いするとともに、この地上の生涯を終えた後も、神さまの国で一緒にいるために、十字架の道を歩む、とおっしゃるのです。

けれども3年の間、歩みを共にした弟子たちにはなかなかイエスさまの思いが伝わりません。イエスさまが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃったとき、真っ先に声を出したのは十二弟子の一人トマスでした。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」、と言いました。

そのとき、イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃったのです。

 トマスは双子で、「ディディモ」双子と呼ばれていました。トマスについてヨハネ福音書には非常に印象的なエピソードが記されています。今日の箇所の少し前ですが、イエスさまがしばしば訪れていたベタニアという村にマルタ、マリア、ラザロという三人姉弟がいました。その三人姉弟のラザロが死んだとき、ベタニアはエルサレムの近くの町ですので、ベタニヤに行ったらイエスさまは逮捕されて殺されるのではないか、と弟子たちは心配したのですが、イエスさまは行こうとおっしゃいました。そのとき、トマスは仲間の弟子たちに「わたしたちもイエスさまと一緒に行って、一緒に死のう」と言ったのです。イエスさまがひとりで殺されることがあってはならない。一緒に死のうとトマスは言ったのです。

トマスのエピソードで最も有名なのは、十字架の死を遂げたイエスさまがよみがえられた日の夜のことです。弟子たちがユダヤ人をおそれて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとき、イエスさまがおいでになって彼らの真ん中に立って、「こんばんは。あなたがたに平和があるように」とおっしゃり、十字架の傷跡があるご自分の手とわき腹をお見せになりました。弟子たちは、よみがえられたイエスさまにお会いして喜んだのですが、そのとき、トマスはその場にいませんでした。このことを仲間の弟子たちがトマスに伝えますと、トマスは、「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。

一週間後、日曜日の夕方、同じように弟子たちが集まりました。こんどはトマスもいました。戸には一週間前と同じように、鍵がかけてあったのですが、イエスさまが家の中に入ってこられ、彼らの真ん中にたって、「こんばんは、あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。そしてイエスさまは、トマスにあなたの指をこの釘跡に入れていいですよ、あなたの手を十字架の傷跡のあるわき腹に入れていいですよ、とおっしゃいました。トマスは、イエスさまの傷跡にさわってみなければ信じないという自分の弱さを抱え込んでくださるイエスさまの優しさをその釘跡に見て、「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。

14章で、イエスさまがどこへ行かれるのか分かりませんとトマスが言ったのは、自分で確かめられなかったからなのでしょうか。そのトマスに、イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃったのです。トマスがイエスさまと一緒に行くのではなく、イエスさまがトマスのために十字架の苦しみをされ、イエスさまはトマスを見放しません、あなたのために道になろう、この道を通っていけば、神さまのところに行くことができる、というのです。

今回の伝道礼拝で、チラシにも記しましたが、世界中の教会で親しまれている讃美歌『主われを愛す』に思いを深めたいと思いました。先程、わたしたちの教会では、この1年3ヶ月の間に7人の方が亡くなり葬儀を行ったと申しましたが、そのうち何人かの方々と最後まで歌った讃美歌が『主われを愛す』でした。7人とも長い間、信仰生活を送った方々でした。その病床で、○○さん、あなたは長い間、イエスさまを愛し、教会生活に励んでこられ、それをイエスさまはとても喜んでおられると思いますよ。しかし同時に、この讃美歌にあるように、イエスさまがあなたを愛しておられたのです。あなたはだんだんと弱ってくると思いますが、イエスさまはどんなときにも愛してくださいます。言葉を発することができなくなっても、昏睡状態になっても神さまは愛してくださいます。そして、そのあなたを神さまが、「みくにのかどを開いて」、○○さん、おいでなさいと、お呼びになり、招かれたときには、ハイと返事して、勇んで御国へ昇ってください、そのときひとりぼっちではありませんよ、イエスさまが一緒ですよ、と語り、亡くなる直前までこの讃美歌を共に歌い続けたのです。

あらためてこの『主われを愛す』という讃美歌ですが、いまから158年前、アメリカのアンナ・ウォーナーという女性が作った讃美歌です。

アンナには8歳上のスーザンというお姉さんがいましたが、アンナが2歳のときお母さんが亡くなってしまいました。そのためお父さんの妹さんが二人を育ててくれました。けれどもお父さんがいろいろな事業に失敗し、経済的には困窮した生活を余儀なくされました。そうした中でお姉さんのスーザンもアンナも小説を書くようになりました。アンナは小説だけでなく讃美歌を作るようになりました。最初に作った讃美歌は『主イエスに会いたい』でした。この讃美歌は6節まであり、先程受付でお渡ししましたが、1節と2節と4節を紹介します。

私たちは主イエスに会いたい   

1 私たちは主イエスに会いたい。私たちの人生には 

暗い影が長くたなびいている

私たちは主イエスに会いたい。人生の決定的な辛い戦いに向けて

私たちの弱い信仰を強めていただくために。   

2 私たちは主イエスに会いたい。主のみ恵みによって

 私たちの足が置かれている岩のようなよりどころよ。

 主のみ顔を拝するとき、生も死もいかなる動揺も

 私たちを主から離すことはできない。

4 私たちは主イエスに会いたい。しかし長年愛した物に

  私たちは執着し

  俗世界は私たちを捕えて離そうとしない。

あなたを愛しているのに、この世への愛は弱くならない。

 経済的に厳しい歩みの中からアンナは繰り返し主イエスにお会いしたいと願い続けたのです。そうしたアンナにあるとき、小さい、美しい貝殻が送られてきました。そのとき、アンナは、神さまはこの小さい貝殻のために、このように美しい住みかを与えておられる、だから、神さまは、このわたしをどんなときにも守ってくださっている、愛してくださっていることを強く思わされました。そしてできたのが『主われを愛す』でした。

『主イエスに会いたい』から7年後、『主われを愛す』ができました。

 アンナが作った原詞はこうです。先にお渡ししたアンナの讃美歌の右の方に記されています。

「主われを愛す」     

1 イエスは私を愛しておられる!

  聖書はそのように私に告げている。

  子どもたちは主のものです。

  彼らは弱くても、主は強い。

  折り返し

    ほんとうにイエスは私を愛しておられる。

    ほんとうにイエスは私を愛しておられる。

    ほんとうにイエスは私を愛しておられる。

    聖書がそのように私に告げている。

2 イエスは私を愛しておられる! 主は命を捨てて、

  天国の門を広く開けてくださった。

  主は私の罪を洗い流される。

  主の子どもはみそばに来なさい。

3 イエスは私を愛しておられる! いつも。

  私はとても弱く、病んでいるけれど。

  主は天の輝く玉座から、私が寝ている所にこられ、

  私を見守ってくださる。

4 イエスは私を愛しておられる!

  主はいつも私のすぐそばに寄り添ってくださる。

  私が主を愛すると、私が死ぬとき、

  主は私を天のふるさとに、つれていってくださる。

主が愛してくださるので、わたしが病気のとき、天からわたしの寝ているところにきて見守ってくださる、わたしが死ぬとき、わたしを天のふるさとに連れて行ってくださる、というのです。そしてほんとうにイエスさまはわたしを愛しておられる、とくりかえし歌うのです。

 最初の『主イエスに会いたい』の主語は、わたしたちです。『主われを愛す』の主語は、主イエスです。これはわたしたちの信仰生活でとても大切なことです。わたしたちがイエスさまにお会いしたいことも大切ですが、主イエスがわたしたちを愛してくださっている、そのことを知るときに神さまが本当に身近になります。

 イエスさまと一緒に死のうとまで思ったトマスにはなかなか神さまへの道は見えませんでした。けれども、トマスがイエスさまの手に、わき腹に十字架の釘跡を見たとき、ここまでしてわたしを愛し、神さまの御国へ導いてくださることに心打たれ、感謝せざるをえませんでした。もったいないと思いました。

 カール・バルトという20世紀最大の神学者といわれる牧師がいます。膨大な著作がありますが、アメリカの教会や神学校を訪ねたとき、ある人から、先生、あなたにはたくさんの著作がありますが、何を一番に語ろうとしているのですか、と質問されたとき、バルト先生は、あなたたちが大好きな讃美歌の一節ですよ、と言って、YES、JESUS LOVES  ME! だ、「ほんとうにイエスは私を愛しておられる」、わたしたちの讃美歌の言葉でいえば、「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」だ、と答えました。         

 バルト先生はドイツで同じ質問されたときは、神さまはわたしたちにどんなときにもダメだとおっしゃる方ではない、大丈夫だ!とおっしゃる方だ、だめだというのは、ドイツ語でナイン、大丈夫だというのは、ヤーです。神さまはわたしたちに、ナイン、だめだとおっしゃる方ではない、どんなときにも、ヤー、大丈夫だと言って下さる方だ、そのことをわたしは伝えたいのだと語りました。

最後に、「道」ということで紹介したい詩があります。      

もう50年以上前ですが、わたしが神学校で学んでいるとき、旧約聖書を教えて頂いた松田明三郎先生は詩人でした。松田先生に『まわり道』というわずか7行の短い詩があります。

「君―、

こちらへくればまわり道ではないかね。」

「わかっているよ。

しかし、君と少しでも長く 

しゃべっていられるからね。」

交友にゆとりのあった時代の 

かたりぐさである。

いかがでしょうか。松田先生は、イエスさまという方は、わたしたちがよこみちにそれたときにも、まわり道するときにも、一緒に歩んでくださる方であることを、この詩で語っているのではないでしょうか。わたしたちがよこみちにそれたときも、まわり道をしてもイエスさまはわたしたちを見放しません。人はおろかに思うかもしれませんが、イエスさまは、わたしたちを見放しません。

イエスさまはどんなことがあってもわたしを愛しておられます。そのイエスさまが道となって、わたしたちを神さまのところに導いてくださるのです。

目次