申命記26:5~15
マタイによる福音書22:34~46
櫻井重宣
今朝はただ今お読み頂いたマタイによる福音書22章34節から46節を通して,十字架の死を前にしてイエスさまが語ろうとしておられることに耳を傾けたいと願っています。
今日の箇所もそうですが、ユダヤ社会の指導者たちはイエスさまを何とかして陥れ、できたら死においやろうとしています。
先回学んだ所には、復活はないといっているサドカイ派の人々がイエスさまに論争を挑み、イエスさまに言い込められました。そのことを聞いたファリサイ派の人々が集まってきました。サドカイ派の人々とファリサイ派の人々はいずれもユダヤ社会のリーダー的存在ですが、復活のことやローマにどう関わるかということでまったく立場を異にしていました。サドカイ派の人々は復活を信じないのですが、ファリサイ派の人々は復活を信じています。ローマに対してはサドカイ派の人々は受け入れるのですが、ファリサイ派の人々は受け入れません。そうした立場の違いがあるのですが、イエスさまをやっつけようとすることでは意気投合したのです。今お読み頂いた箇所の冒頭の34節に、《ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった》と記されています。一緒に集まることなどは考えられないのに、このときはファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が一緒に集まったのです。
35節、36節をお読みします。
《そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」》
ファリサイ派の人々は,掟や律法を守ることに少し大袈裟な言い方をすれば命をかけていた人たちです。当時、何々しなさいという掟が248、何々してはならないという掟が365、合計613の掟があったと言われます。ファリサイ派の人々はそれをすべて守ろうとしていたので、日常生活はがんじがらめです。ですから600もある掟のうちどの掟が最も重要か、という質問は,ファリサイ派の人々にとって大切な、まじめな問であるわけですが、その大切な、まじめな問を、イエスさまを試そうとしてイエスさまに投げかけたのです。
37節から40節にイエスさまの答えが記されています。
《イエスは言われた。「『心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」》
第一の掟は申命記6章にあります。こう記されています。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 そして続けてこうあります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め,子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、 これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
この掟の冒頭に「聞け、シェマー 我らの神、主は唯一の主である。」とあります。
第二の掟はレビ記19章です。そこにはこうあります。
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
わたしたちは第一と第二の掟が記されている申命記とレビ記に「主は唯一の神である」「わたしは主である」とあることに思いを深めなければならないと思います。
これは十戒の学びのときにも繰り返し心に留めていることですが、神さまは、エジプトにいるイスラエルの人々の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き,痛みを知って、天から降り、その苦しみを共にして下さいました。具体的にはモーセを遣わしてエジプトから脱出させ、40年に及ぶ荒れ野の旅を導いてくださったのです。すなわち、神さまはどんなときにも共にいてくださる、というのが、わたしは主であるという告白に込められています。
神さまがそれほどまでわたしたちを愛し、共にいてくださる方なので、神さまを、心を尽くして愛しなさい、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい、というのです。
申命記を読み進みますと、7章には「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」と記されています。数が多かったからではない、力が強かったからではない、とりえがあったからではない、無力なイスラエルの民に神さまが心引かれ、愛して下さった、というのです。
そしてこうしたことが集約されているのが申命記26章です。先程日本基督教団信仰告白を告白しましたが、ここには最も古い信仰告白が記されています。5節から10節です。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで,強くて数の多い、大いなる国民になりました。 エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めと、主はわたしたちの声を聞き、 わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、 この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
そして信仰告白に続け、12節と13節に二度にわたって、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に献げ物を施すことが記されています。
すなわち、旧約の最も古い信仰告白には、神さまが最も困難なとき、苦しい時、愛してくださった、だから神さまを愛そう、 自分を愛するように今苦しんでいる隣人を愛するそうと記されているのです。
山本周五郎の小説に、赤ひげ先生と言われている新出去定という医者が貧しい人に献身的に治療に励む姿を描いた小説があります。その小説の中で、新出去定が自分はかつて大きな罪を犯した、その罪が赦された、それが隣人への優しさの根底にあることを語っている一節をいつも感銘深く思い起こします。
今日ご一緒に耳を傾けているマタイによる福音書では、イエスさまが第一の掟はこれで、第二の掟はこれだと語っていますが、ルカによる福音書10章では、 律法の専門家が第一の掟と第二の掟を答えています。そして、その律法の専門家が、「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねたとき、イエスさまが話されたたとえ話が 「よきサマリア人のたとえ」です。こういうたとえです。
「あるユダヤ人が、エルサレムからエリコに下る途中に追いはぎに襲われ、 半殺しにされました。最初に通りかかったのは祭司でしたが、 その人を見ると道の向こう側を通って行ってしまいました。次にやって来たのはレビ人でしたが、 この人も道の向こう側を通って行ってしました。次にやって来たのは、 ユダヤ人が交際することを拒んでいたサマリア人でした。彼は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い,近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ,包帯をして,自分のろばに乗せ、 宿屋に連れて行って介抱し、翌日になるとデナリオン銀貨二枚取り出し、宿屋の主人に渡して,この人を介抱してください。費用がもっとかかったら帰りがけに払います」 と言いました。
イエスさまは、「あなたはこの三人の中で、だれがおいはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とおっしゃいました。追いはぎに襲われた人の立場に自分を置くと、 隣人になったのはサマリア人であること、サマリア人の行為がいかに優しく、愛に溢れた振る舞いであることがよく分かります。 イエスさまは、神さまとわたしのかかわりを考えるとき、自分を追いはぎに襲われた人であることを見つめるとき、神さまがどれほど愛してくださるかが分かり、 自分を愛するように隣人を愛する歩みへと導かれる、とおっしゃるのです。
41節以下には、ファリサイ派の人々にイエスさまが、メシアはだれの子かとお尋ねになったこと、彼らが、「ダビデの子です」と答えたこと、そしてイエスさまは、 詩編の言葉を引用して、ダビデがメシアを主と呼んでいる、どうしてメシアがダビデの子かとおっしゃったことが記されていました。
イエスさまがここでおっしゃろうとすることは、十字架の道を歩み、肉を裂き、血を流される、そのことによって主と呼ばれるということです。サマリア人は、 夜を徹して看病し、朝、デナリオン銀貨二枚を差し出しました。イエスさまは、肉を裂き、血を流してまで、わたしたちに命を与えてくださったのです。
今の時代は本当にいろいろな問題がうごめいています。どの国の為政者も自分たちの幸せ、自分たちの国のことだけを考え、壁を造ろうとします。
10年前に亡くなった分子生物学者の渡辺格先生が、「人間の終焉」という書でこういうことをおっしゃっています。渡辺先生は、遺伝子の専門家で,世界的に有名な学者です。渡辺先生がおっしゃろうとしていることはこういうことです。
「科学が人間の生命までも支配するときが来る。そのとき、現在の社会でたまたま成功し、力を持った人々、優れた者と自認する人たちが劣った人、役にたたないと思う人たちを淘汰し、優れた社会を目指すことも可能である。それが第一の道である。第二の道は、高齢者、障がいを抱える人々、マイナスを背負う人々と共に生きて,共に死ぬことを覚悟する道である。いずれどちらを進むか選択を迫られる。優れた人だけ生き残る第一の道を選択することは、恥多き生存の道である。第二の道は、人類の尊厳な滅亡の道である。」
渡辺先生は、たとえ人類が滅亡することがあっても,第二の道を歩もう、それは人類にとって尊厳な道だというのです。
イエスさまが、十字架の道を歩まれたことは、第二の道に、御自分のすべてを注がれたことです。それが神さまの御心であったのです。