イザヤ書55:8~13
ルカによる福音書24:36~53
櫻井重宣
本日はこうして十字架の死を遂げたイエスさまがよみがえられた恵みを心深く覚えつつ、皆さんとご一緒にイースター礼拝をささげることができ感謝しています。
新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書がありますが、どの福音書にもイエスさまの最後の一週間のこと、 そしてよみがえりのできごとをていねいに書き記されています。今年はルカによる福音書を通してイエスさまの十字架の死とよみがえりの出来事に思いを深めています。
ろばの子に乗って日曜日にエルサレムに入城されたイエスさまはその週の木曜日には弟子たちと最後の晩餐をされ、その日の夜中に逮捕され、裁判で十字架刑を宣告され、 金曜日の午前9時に十字架に架けられました。そして、午後3時に息を引き取られました。金曜日の日没から安息日が始まりますので、 アリマタヤのヨセフがイエスさまの遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘ったお墓に納めました。 また、イエスさまと一緒にガリラヤからやってきた婦人たちは、ヨセフの後について行き、お墓とイエスさまの遺体が納められている有様を見届け、 安息日が終わったらすぐイエスさまの遺体にかける香料と遺体に塗る香油を準備しました。
安息日が終わり、週の初めの日、日曜日の早朝、明け方早くに準備しておいた香料と香油を持ってお墓に行ったところ、 墓の入り口に置いてあった大きな石がわきに転がしてあり、お墓の中にはイエスさまの遺体が見当たりませんでした。婦人たちが途方に暮れていると、 二人の天使が婦人たちに語りかけました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
墓から戻った婦人たちは弟子たちに一部始終を知らせたのですが、彼らは信じませんでした。ただ一人、ペトロがお墓まで走って行き、 墓の中にはイエスさまの遺体を包んだ亜麻布しかなかったので、驚きながら戻りました。
こうしたことがルカによる福音書24章12節までに記されていたのですが、13節以下には日曜日の午後、イエスさまの二人の弟子、 すなわちクレオパともう一人の弟子がイエスさまが十字架に架けられ殺されたエルサレムを後にし、エマオという町へ向かっていたときのことが記されています。 エルサレムからエマオまで60スタディオンおよそ11キロです。ちょうど、茅ヶ崎から大磯あたりの距離です。二人はここ数日の出来事を話し合いながらエマオへと急いでいました。 そのとき、一人の人、それはよみがえられたイエスさまですが、二人に近づき、一緒に歩き始めました。けれども二人の目は遮られてイエスさまだとは分かりませんでした。 イエスさまは、二人に「歩きながら、やりとりしているその話は何のことか」と尋ねますと、二人は暗い顔をして立ち止まり、こう言いました。「ナザレのイエスのことです。 この方を祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。 しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、 『イエスは生きておられる』と告げたというのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」、と。
クレオパがここまで話しますと、同行していたイエスさまはおっしゃいました。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃり、聖書全体にわたって、御自分について書かれていることを説明されました。
イエスさまと二人の弟子たちはこのように話しているうちにエマオへ近づきましたが、イエスさまはなおも先へ行こうとされる様子だったので、 二人が「一緒にお泊まりください。主よ、共に宿りませ。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き留めたので、 イエスさまは共に泊まるために家に入られました。
家に入り、食事の席に着いたとき、イエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。そうしますと、二人の目が開け、 イエスさまだと分かったのですが、その姿は見えなくなりました。二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、二人は時を移さずエマオを出発してエルサレムに戻りました。11キロは歩くとおよそ3時間かかります。 午後3時から6時まで歩いたとしますと、また8時から歩きだしたとしてもエルサレムに着いたのは11時過ぎです。そこには、十一人の弟子たちとその仲間が集まっていて、 本当に主はよみがえって、シモン、すなわちペトロに現れたと言っていました。エマオから戻った二人も道で起こったこと、パンを裂いてくださったときに、 イエスさまだと分かったことを話しました。
いずれにしろ、お墓で二人の天使が婦人たちに語ったこと、そしてエマオへの途上でイエスさまが二人の弟子に語ったことは、キリストは苦しみを受けて、 三日目によみがえるということでした。そしてよみがえられたイエスさまにお会いした弟子たちは身の危険も顧みずまたエルサレムに戻ってきたのです。
二千年前の最初のイースターは早朝、婦人たちがお墓に急ぐことから始まり、夜おそくエマオから二人の弟子が戻ってきたときまでの長い一日になるわけですが、まだ、 最初のイースターの日は続きます。
先程お読み頂いた24章36節から43節までもう一度読みます。
「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。 亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らは喜びのあまりまだ信じられず、 不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」
ここには、よみがえられたイエスさまが弟子たちの真ん中にお立ちになって、
「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったこと、うろたえている弟子たちに、十字架の釘跡がある手と足をお見せになったこと、 焼いた魚一切れを食べられたことが記されています。
平和があるように、というのは日常の挨拶の言葉です。ですから、ここでは「今晩は」です。うろたえている弟子たちの姿をありのまま受けとめておられます。 弟子たち、そしてわたしたち一人一人を抱え込むイエスさまの手と足には十字架の釘跡があります。
小説家の椎名麟三さんは、唯物論者でしたが、人生の半ばでキリスト者になった方です。椎名さんは最初、聖書を読んでもなかなか理解できなかったというのですが、 ドストエフスキーの作品のところどころから射してくる本当の光、自由がドストエフスキーの信仰から来ることを覚え、洗礼を受けました。
けれども、イエスさまがよみがえられたことはなかなか信じることができませんでした。その椎名さんが、洗礼を受けて一年くらいしたとき、 今お読みしたこの箇所を読んでいたとき、壁が音をたてて崩れ落ち、世の中が違った光で見え、わたしの生き方を変えてしまったと書きしるしています。
イエスさまはいろいろな問題がうごめくこの世界の問題、罪をご自分の身体で担い十字架の死を遂げられました。そのイエスさまを神さまは三日目によみがえらされました。 よみがえられたイエスさまの手や足に十字架の釘跡があり、魚を食べられました。どんなに破れを持っているわたしたちであっても、 そのありのまま抱え込んでくださるのが十字架のイエスさまであり、よみがえられたイエスさまである、 椎名さんは今日の箇所24章36節から43節を読んでそのことを示されたというのです。
椎名さんは、洗礼を受けるとき、自分はキリスト者になっても立派な歩み出来ないに違いない、つらいときわめくに違いない。けれどもイエスさまは、 わたしがわめくとき、一緒にわめいてくださる、悲しいとき一緒に涙してくださる、そういう方だと信頼して洗礼を受けたのですが、復活の記事を通して、 イエスさまは本当にそういう方だ、と心深く覚えたというのです。こうしたイエスさまを信じた椎名さんは、あるとき、「言葉の命は愛である」と色紙に書き記しました。
椎名さんは小説家で、文を書く人です。言葉や文章を大切にする人ですが、イエスさまにお会いして、「言葉の命」が「愛」であることを思わされたからです。
最近、わたしたちは衝撃的な事件に直面しています。いったいどうしてという出来事があまりにも多くあります。イエスさまはわたしたちの抱える問題の根底にある人間の罪を負い、 十字架の死を遂げられ、わたしたちの苦しみをご自身の苦しみとされ、わたしたちのうめきを共に呻いておられます。イエスさまは病気の人と共に枕を並べて寝て、 病人のうめきを共にしておられる方なのです。問題がうごめく今日の時代ですが、十字架のイエスさま、 復活のイエスさまがこの時代の根底で支えてくださっていることに思いを深めたいと願うものです。
預言者イザヤは、53章で苦難の僕の歌を歌い上げたあと、わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる、わたしの道はあなたたちの道とは異なると語りました。 本当にそうです。わたしたちのメシアは栄光の道ではなく、苦難の道を歩む方です。この世界の罪をご自分がどんなに苦しんでも放り出しません。そういうメシアなのです。