2015年6月21日 礼拝説教「命の重み」

創世記21:9~21
ヨハネの手紙 一 1:1~4

櫻井重宣

 本日は、伝道礼拝としてこうして皆さんとご一緒に礼拝をささげることができ、心より感謝しています。  今年は戦後70年、とりわけ明後日6月23日は沖縄の慰霊の日ということで、あらためて戦争の悲惨さ、愚かしさ、そして戦争のため多くの人の命が奪われたことに思いを深めさせられています。それだけでなく、最近、青少年の間に友人を死に追いやったり、大人の間でも他人の命を簡単に奪う事件が相次いでいます。数日前には、アメリカの教会で、黒人をねらって銃が乱射され、9人が亡くなるという痛ましい事件がおきました。世界各地で、平和が脅かされ、深刻な事件が相次いでいます。

   皆さんの中にもお読みになった方がおられるかと思いますが、数日前の新聞に絵本作家で現在89歳の加古里子(かこさとし)さんが、こういうことを書いておられました。
 「自分は若い頃に視力が落ちてしまい、目指していた航空士官になれなかった。軍人を望み、特攻に行った仲間はみんな死んでしまったが、自分を含め、当時の人々は社会や国際的な動きを学べていなかった。これからの時代を担う子どもたちや若い人に同じような間違いをしてほしくない、そうした気持ちで絵本作家になった。そして、物事の裏側にあることこそ伝えなければならないと思い、手間をかけている。自分が好きな部分だけを見ていればいい時代は過ぎた。歴史を学び、1ミリでもいいから、今より良い方向へ行く、そのことを考えている」、と。
  加古さんは1ミリでも良い方向へ、とおっしゃっています。加古さんに励まされ、私たちも、1ミリでも2ミリでも、命が大切にされる世界を祈り求めたいと願っています。

 ところで、本日は、「命の重み」ということを、聖書から学びたいと願っていますが、最初に創世記に記されるハガルとイシュマエルという親子のことを心に留めたいと思います。実は、聖書を初めて読む人にとって、この記事には、男女関係のことなどで、つまずきとなりかねない出来事が記されています。三千年以上の前の出来事だということと、聖書にはこうした人間の弱さも隠さずに記されていることとしてご理解頂きたいと思います。
 先程は21章をお読み頂いたのですが、その少し前からハガルとイシュマエルのことが記されていますので、先ずそのことを御紹介します。
 イスラエルの人々の先祖のアブラハムは、ある夜、神さまから、今、あなたは空一面に輝いている星空の星のように、あなたの子孫を数多くすると言われました。けれども、アブラハムと妻サラの間には、子どもが与えられず、二人とも高齢になっていました。サラは夫のアブラハムに、自分の女奴隷ハガルを側女として与えるので、あなたがハガルと交わり、ハガルが子どもを産んだら、その子どもを自分たちの子どもにしようと提案しました。アブラハムは了解しハガルと交わり、ハガルは妊娠しました。
 ハガルが妊娠しますと、このことを提案したサラの心が穏やかでなくなり、ハガルにつらく当たるようになりました。ハガルは耐え難くなり、サラのもとを逃げ出してしまいました。ハガルが荒れ野の泉のほとりにいたとき、天使がやってきて、女主人のもとに帰りなさい、とハガルをさとしました。そして、天使は、ハガルに、あなたは男の子を産む、その子にイシュマエルと名付けなさいと言いました。ハガルの胎内に育まれている新しい命を神さまは大切にされたのです。ハガルは、絶望的な苦しみのときにも、神さまは見てくださっている、耳を傾けていてくださる、顧みていてくださる、そのことを示され、新しい命の誕生を待つことができました。
 そして、先程お読み頂いた創世記21章になるわけですが、数年して、サラはみごもり、男の子イサクを産みました。サラは、イサクが生まれると、ハガルとイシュマエルの存在がうとましくなり、アブラハムにハガルとイシュマエルを家から追い出すように求めました。このサラの申し出はアブラハムを苦しめたのですが、神さまはアブラハムにサラの言うことを聞き入れなさいとおっしゃいました。神さまは、サラの苦しみをも受けとめる方でした。
  アブラハムは、次の朝早く、パンと水の革袋を取って、ハガルに与え、背中に負わせ、ハガルとイシュマエルを家から送り出しました。ハガルは、荒れ野を子どもとともにさまよいました。革袋の水が無くなると、彼女は子どもを木の下に寝かせ、「わたしは子どもが死ぬのを見るのは忍びない」といって、矢の届くほど離れたところに、子どもの方を向いて座り込みました。彼女が子どもの方を向いて座ると、子どもは声をあげて泣きました。神さまは子どもの泣き声を聞かれ、天使はハガルに声をかけました。
  「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子どもの泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。」
  神さまは、幼い子の泣き声に耳を傾け、ハガルに、立って行って、あの子を抱き上げ、あなたの腕で抱き締めなさいとおっしゃったのです。
 ハガルが子どもを抱き締めたとき、目が開かれ、水のある井戸を見つけ、革袋に水を満たし、子どもに飲ませました。神さまはその子と共におられ、その子は成長しました。 

   キュックリッヒというドイツ人の宣教師がいました。関東大震災の前の年に日本にこられ、50年以上幼児教育のため力を尽くした宣教師です。キュックリッヒ先生は幼児教育を志す人にいつも幼児教育の原点は、天使がハガルに語った言葉、すなわち、「子どもが泣いている。あなたは立って行って、幼児を抱き上げ、抱き締めてやりなさい」だ、とおっしゃっておられたそうです。

 わたしは、このハガルとイシュマエルのことで、二つのことを思い起こします。 
 一つは、いのちの電話の初代の理事長、菊池吉弥先生がおっしゃっていたことです。「いのちの電話」が創設されて40年余になりますが、最初の理事長をされた菊池吉弥牧師は、当時上野駅の近くの下谷教会の牧師でしたが、先生御自身も月に一度か二度、夜10時から翌朝の8時までの担当をされました。夜中の電話には深刻な電話が多く、自殺願望の電話もほとんど真夜中だそうです。
  ある朝、電話の担当を終え、家に帰る前に、一緒に仕事をした婦人がこういうことを菊池先生に語ったというのです。
  「昨夜、自殺願望の電話があった。その人は、自分は孤独だ、だれも信じられない、友人もいない、孤独に耐えられないので、死ぬほかないと訴え続けた。話を聞き、いろいろと話したが、自分は孤独だ、ひとりだと言って、そこから一歩も出ようとしない。どんなに話しても、わたしは孤独だと言うその人の言葉にわたしは悲しくなって、とうとう大きな声で、『わたしがここにいるじゃぁありませんか』と言ってしまった。その時、わたしは泣いていた。すると相手は、びっくりしたように沈黙した。しばらくそのままだった。話し始めたとき、その人は、もう、わたしは孤独だ、と言わなかった。自殺は思いとどまったようだった。」

   もう一つは、犬養道子さんが『人間の大地』という著書で、タイの難民キャンプに行ったときに体験したことを書いておられることです。難民キャンプといっても7万人もいるキャンプです。
 病室のテントに、ひとりの四つか五つの男の子がいた。彼はひとりぼっちだった。親は死んだか、はぐれたか、殺されたか分からない。兄弟がいたのか、死んだのかもわからない。ひとことも話さない。衰弱し、いろいろな病に罹っていた。国際赤十字の医師や看護士たちは、一生懸命にその子を助けようとしたが、その子は何も食べようとせず、薬も飲もうとしない。幼な心にこれ以上生きていて何になるという絶望感を持っているようだった。医者や看護士たちは、打つ手がなく途方に暮れていた。
 ピーターというアメリカ人のヴォランティアの青年が、見るに見かねて、医者たちがさじを投げたときから、その子を抱いて座った。特別の許可を得て、ピーター君は夜も抱き続けた。その子の頬を撫で、耳元で子守歌を歌い続けた。夜中も一晩中抱き続けた。朝になってもその子が食べようとしないので、ピーター君も食べることができない。用をたすときも大急ぎで行き、戻って来るとまた抱く。全身蚊にさされながら抱き続けた。二日目も変化はなかった。二日目の夜もピーター君は一睡もしないで抱き続けた。三日目の朝を迎えたとき、その子はピーター君の眼をじっと見て、ニコッとした。三日間、この青年は自分を抱き続けてくれた、自分を大事に思ってくれる人がいた、自分はだれにとってもどうでもいい存在ではなかった、三日間、夜も眠らないで、食事もしないで抱っこし続けてくれた、そのことがその子の心の扉を開けた。
 その子がニコッと笑ったとき、ピーター君は泣いてしまいました。泣きながらその子にスープを差し出すとその子はゴクンと飲み。薬も飲みました。
 その子の命を救ったのは、ピーター君が三日間の抱っこし続けたことです
 難民キャンプの主任は、その場に居合わせた犬養さんに、「愛こそは、最上の薬だ。この子たちが求めるのは、お金ではない、愛だ」と語ったというのです。

 このように、ハガルがイシュマエルを抱き締めたこと、電話相談員が「わたしがここにいるではありませんか」と泣きながら語った一言、ピーター君がその子を三日間抱き続けたことが、「命」を救ったのです。ただ言葉ではなく、抱き締め続けた人のぬくもりが、自分の命はどうでもいい命ではない、自分の命にはそれほどの重みがあることを肌で知って、もう一度生きようとしたのです。

 このことは聖書が語る本当に大切なことです。神さまという方は、わたしたち一人一人をかけがえのない者として愛してくださる方、抱き締めてくださる方です。そのことが、具体的に示されたのが、この世界に神さまがひとり子イエスさまを贈ってくださったことです。
 先程、耳を傾けたヨハネの手紙にこういう一節があります。
 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」  
 神さまが、イエスさまをお遣わしになったのは、イエスさまによって生きるためです。だれもが、です。神は愛である、神は愛なり、とヨハネの手紙の著者は繰り返すのですが、神さまの愛は、神さまが独り子イエスさまをこの世界に贈ってくださり、わたしたちを生きるようにしてくださったことに最もよく示されているのです。
 言い方を変えるなら、神さまはわたしたちにイエスさまをくださる、イエスさまは十字架の死を遂げる、その事実に、わたしたち一人一人の命がどれほど重いかということが示されているのです。

 ところで、ヨハネの手紙を書き記したヨハネはこのイエスさまのことをこう記しています。 
 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。― 」
 ヨハネは、イエスさまは命の言だというのです。その命の言は、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたものだというのです。
 すなわち、ヨハネは、イエスさまは命そのものだと語るとともに、イエスさまのことを伝えようとするとき、自分たちの聞いたこと、見たこと、手で触れたこと、すなわちイエスさまのぬくもりを伝えようとしています。頭で理解したこと、観念的なことを伝えようとしているのではありません。
 あのピーター君に抱かれた男の子は、生涯、ピーター君のぬくもりを忘れることはできないと思います。イエスさまにお会いした人もそうです。 
 イエスさまは、その病の人に触れると、触れた人も汚れたものとなる、そのことを承知の上で、はらわたを揺り動かすほど、病の人の苦しみを体の深いところで共にされ、手を差し伸べ、その患部に手を触れ、癒されました。癒された人はイエスさまの感触を、手のぬくもりを忘れることはできません。また、夫に先立たれ、愛する息子と暮らしていた人が、最愛の息子が死んでしまい呆然としていたとき、イエスさまはご自分の体の最も深いはらわたでその婦人の悲しみ、痛みを受けとめられ、彼女の息子の棺に手を触れ、婦人に「もう泣かなくてもよい」と言われました。その婦人もイエスさまのぬくもりを忘れることができません。
 手だけではありません。足もそうです。最後の晩餐のとき、弟子たちはイエスさまに汚れた足を洗って頂きました。イエスさまとペトロのやり取りで、イエスさまがわたしたちとどこで関わるかというと、きれいな部分ではなく、汚れた部分、歩けば汚れる足を洗うということでわたしたちに関わってくださることを知ったとき、弟子たちはかたじけないという思いとと共にそれほどまでして愛してくださったという感動が心に焼き付きました。
 ヨハネは、わたしたちは命そのものであるイエスさまに触れて頂いたぬくもりを今でも覚えている、思い起こすと心が熱くなる、そのぬくもりを伝えようとしたのです。

 初めて聖書を日本語に翻訳したのはオランダのギュッツラフという宣教師です。1837年シンガポールで出版されました。最初に出版されたのはヨハネによる福音書とヨハネの手紙です。
 今、読んだヨハネの手紙一の1章の冒頭はこうです。 
 「ハジマリニオルコト ワシドモキイタ ヂシンメデ 三テナガメタ
 ヂシンノテデオサエルコト 井ノチノコトバユエ 井ノチヲアラワシテ ワシドモ三テ シルシアラワシテ オマエタチニ アランカギリノ井ノチヲ ツゲル」
 わたしがこの翻訳で思いを深くするのは、「いのちのことばゆえ いのちあらわして わしどもみて しるしあらわして おまえたちにあらんかぎり いのちをつげる」と訳していることです。
 ヨハネは、あらんかぎりの思いでキリストの命を伝えようとしました。ギュッツラフもキリストの命を、イエスさまのぬくもりを日本の人に伝えようとして、あらんかぎりの思いで翻訳したのです。

 今から20年前、ノンフィクション作家の柳田邦男さんがいのちの電話の全国研修会でこういうことをお話しされました。
 人の死には、一人称の死、二人称の死、三人称の死があると。一人称の死は、自分の死です。二人称の死はあなたの死です。家族の人や本当に親しい間柄の死です。三人称の死は、彼らの死です。ご近所、会社の人、災害や戦争で亡くなった人の死です。その人たちの死に涙し、心を痛めるのですが、そのことで学校を休んだり、会社を休むことはありません。
 柳田邦男さんは、とくに医療従事者を念頭にして話されたのですが、医療従事者にとって患者さんの死はたしかに第三人称の死であるかもしれない。しかし、それがゆえに見えなくなっているものがあるのではないか、と。すなわち、死を前にした人の心の揺れとか、その人が歩んできた人生、その人を取り巻く家族のことに思い至らないことがありはしないか、というのです。医療従事者にとって、三人称の死であるけれども、第二人称の死という視点を持つことなくして、その人に残されたいのちの共有ができないのではないかとおっしゃったのです。
 聖書が語る大切なことは、柳田さんの表現でいうなら、神さまという方は、わたしたちに、我と汝、わたしとあなたという形で、関わってくださる方だということです。生きる時も死ぬ時もそうです。命を共有してくださいます。あの人とか、彼、彼女という呼び方ではなく、どんなときにも名前を呼んで、「あなた」と呼びかけ、心を込めて関わってくださる方なのです。神さまはそれほどまでにわたしたちの命を大切にしておられる、重みのあるもとしてくださっておられるのです。わたしたち一人一人にかけがえのないものとして関わってくださる方なのです。
 マザー・テレサは、インドのカルカッタで路上で死にそうな人をホームにお連れして看病、介護されましたが、真っ先に聞いたのはその人の名前でした。三人称でなく、二人称で関わりました。

   数日前、93歳の瀬戸内寂聴さんが京都から秘書に車いすを押してもらいながら上京し、永田町の国会前に安全保障法制に反対のため集まっていた人々にこうおっしゃいました。
 「1922年生まれのわたしは、いかに戦争がひどくて大変か身に染みて感じた。戦争にいい戦争はない。すべて人殺しです。自分は空襲で祖父と母を失った。今のままでは子どもや孫が戦争に引っ張り出されてしまう。」
  瀬戸内寂聴さんにとって、戦争で死んだ人は二人称です。お祖父さんであり、お母さんです。戦争で、多くの人が亡くなったという三人称では、命の重みが見えなくなります。 

 わたしは被爆50年の年からから12年間、広島の教会で奉仕しました。原爆投下当時の牧師は四竃一郎先生でした。四竃家で、その日広島にいたのは、四竃一郎先生と奥さんのわくりさん、16歳の長女の佑子さんと14歳の長男の揚さんの四人でした。原爆が投下されたとき、それぞれが別の場所にいたので、その日は、互いにみんながどこにいるのか、死んだのか分かりませんでした。翌日、四竃先生と奥さん、長男は会うことができましたが、佑子さんは分かりませんでした。三日目、四日目と必死に捜しましたが分かりません。五日目、ようやく在学していた広島女学院跡に張り出された重傷者の氏名に、佑子さんの名前を見つけました。中心部から4キロ位離れている矢賀の診療所にいるというので、わくりさんと揚さんがかけつけましたが、佑子さんはいませんでした。途方に暮れたとき、わくりさんは、矢賀に佑子さんの友人がいることを思い起こし、その家を探し当てました。その家に立ち寄って、「ごめんください、ごめんください」と声をかけたとき、「お母ちゃん」と泣きながら、頭に包帯をぐるぐる巻いた佑子さんが起き上がって玄関に出てきて、お母さんに抱きつきました。重傷のため瀕死の状態にあった佑子さんが、「ごめんください」というお母さんの声で起き上がって、お母さんに抱きついたのです。
 佑子さんとわくりさんだけでなく、わたしたちの人間関係は二人称です。それを包み込むように、神さまはわたしたちに、わたしとあなたという関わりで関わってくださるのです。わたしとあなたという二人称の関係ゆえ、あるときは抱き締め、最後的にはイエスさまが十字架の死を遂げ、わたしたちには命を与えてくださるのです。それほどまで、わたしたち一人一人の命には重みがあるのです。

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