エレミヤ書1;4~8
マタイによる福音書10:1~4
櫻井重宣
本日は、ただ今お読み頂いたマタイによる福音書10章1節から4節に耳を傾けます。ここにはイエスさまが十二人の使徒を選ばれたことが記されています。
実は9章の最後、35~38節にこういうことが記されていました。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」
とくに36節に、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と記されています。
群衆に羊飼いがいないというのは、病める人、傷ついた人がいても癒す人がいない、失われた人がいても探し求める人がいない状態です。そうした現実に、イエスさまは深く憐れまれた、はらわたを揺り動かされたというのです。
わたしたちの時代もそうです。先週、ネパールでは大きな地震が発生し、沢山の方々が犠牲になりました。わたしたちの国でも、いったいどうしてという出来事が繰り返されています。子どもさんが虐待されています。青年たちが友人に暴力をふるい、命を奪っています。嘘、偽りでお金をだまし取る人が後を絶ちません。今日は憲法記念日です。政治家は、強い国、豊かな国を目指すことを、声を大にして語っていますが、苦しんでいる人の苦しみ、悲しんでいる人の悲しみに向き合う政治が行われていません。飼い主のいない現実です。
こうしたわたしたちの今日の現状をごらんになって、イエスさまがはらわたを揺り動かしておられる、ということはわたしたちにとって大きな慰めです。
イエスさまが12人の弟子をお選びになったのは、人々が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている現状を憐れまれたからです。
今日の箇所の冒頭10章の1節にこう記されています。
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」
この箇所を読むと、弟子たちの使命と同時に今日の教会の使命と責任を深く思わされます。
このことはあとからもう少し深く考えたいと思っていますが、2節から4節に選ばれた12人の名前が記されます。
「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」
実は、この福音書を書き記したマタイは、ここで「使徒」という言葉を用いています。使徒というのは、遣わされた人という意味です。飼う者がいない、羊飼いがいないため、弱り果て、打ちひしがれている人々のところに派遣するために選ばれたのがこの12人なのです。
12人はこういう人々です。最初は、ペトロと呼ばれるシモンです。ペトロは、「岩」という意味です。漁師でしたが、イエスさまに招かれ弟子になりました。岩という意味の名前を持つシモンで、しかも筆頭弟子のような存在でしたが、何度も弱さをさらけだしました。一番決定的であったのは、イエスさまが逮捕され、裁判にかけられている時、ペトロはイエスさまを三回も、あの人を知らない、あの人と関わりがないと言ってしまったことです。
二番目に記されるのは、シモンの兄弟アンデレです。ヨハネ福音書によりますと、アンデレが最初にイエスさまに従い、アンデレがペトロをイエスさまのところに連れていったとあります。アンデレも漁師でした。
三番目と四番目に記されるのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネです。この二人も漁師でした。イエスさまがまもなくエルサレムに赴こうとされていた時、二人はイエスさまが栄光の座につくとき、自分たちをその両側に、すなわち右と左に座らせて下さい、と願い出ました。けれども、二人は十字架の苦しみをされ復活されたイエスさまにお会いしたとき、二人は何を願わなければならないかということに目を覚まされ、ヤコブは12人の弟子の中で最初の殉教者となりました。
五番目はフィリポです。大勢の群衆を前にして、この人たちに食べさせるためにどこでパンを買えばよいだろうか、とイエスさまから声をかけられたのはこのフィリポです。
六番目はバルトロマイです。この人がどういう人であったか、わたしたちにはわかりません。
七番目はトマスです。トマスはイエスさまがよみがえられたことをすぐ受けとめることができず、イエスさまの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ信じられないと言った人です。でも一週間後、イエスさまはそのトマスにあなたの指をこの釘跡に入れていいと語り、トマスを招かれました。
八番目は徴税人のマタイです。ローマの手下のような働きをする徴税人をユダヤ人は忌み嫌っていました。その徴税人のマタイがイエスさまの弟子として招かれたのです。
九番目のアルファイの子ヤコブと十番目のタダイは、どういう人か分かりません。
十一番目は熱心党のシモンです。力で、武力でローマに立ち向かったのが熱心党です。武力でローマに相対していたシモンをもイエスさまは招かれたのです。
十二番目はイスカリオテのユダです。ここには「イエスを裏切った」と翻訳されていますが、もともと、「引き渡す」という意味の語です。イエスさまをお金と引き換えに引き渡したことが結果として裏切ることになったので、裏切ると訳されるようになったわけです。しかし、イエスさまの弟子はみな、イエスさまが十字架に架けられたとき、逃げたり、三回も知らないと言ってしまいました。ユダだけが裏切った、と言えません。もちろん、お金と引き換えにイエスさまを引き渡してしまうという弱さを持っていたことは事実です。
このように選ばれた12人一人一人に思いを深めてきましたが、この12人はだれもが選ばれて当然という人はいません。選ばれたのですが、その人がどういう人なのか、どういう働きしたのかまったくわからない人が三人もいます。またその人の弱さ、破れがうきぼりになっている人もいます。三回もイエスさまを知らないと言ったペトロ、12人の中でいちばん偉くなりたいと思っていたヤコブとヨハネ、イエスさまのよみがえりを信じることができなかったトマス、そしてイエスさまを引き渡してしまったイスカリオテのユダもいます。肩書きが記されている人が二人いますが、その肩書きは徴税人と熱心党です。一方はローマの手下、一方は武力でローマに相対していました。ふだん反目している二人をイエスさまは抱え込まれました。
わたしはここにイエスさまがどういう人を弟子として選ばれ、その人たちを通してどのように福音を証ししていこうとされているかが明確になっているように思います。
ここに名前が記されている12人は、先程のマタイ福音書の表現でいうなら、飼い主のいない羊のような一人一人です。パウロは、コリントの教会に宛てた手紙で「神は、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」と書き記していますが、まさに、無きに等しい者です。
エレミヤは預言者として召された時、「若者にすぎませんから」と固辞しましたが、神さまから「若者にすぎないと言ってはならない」と言われました。弟子たちもそうです。無きに等しい者ですが、それを理由にして拒んではならないのです。無きに等しい者をあえて選ぶ、そこに神さまの御心があるのです。
ペトロは、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう、しかし、「わたしはあなたのために、あなたの信仰が無くならないように祈った。だからあなたは立ち直ったらあなたの兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。あなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈った、あなたが立ち直ったら、あなたの兄弟たちを力づけてやりなさい、とあなたを繰り返します。
すなわち、飼い主のいないため弱り果て、打ちひしがれている羊のような人たちをイエスさまは弟子として選ばれ、その人々がイエスさまによって励まされた励まし、慰められた慰めをもって、弱り果て、うちひしがれている人々のところに赴き、励まし、慰めるようにということなのです。イエスさまが苦しんでいる人、病を抱える人、悲しみのただ中にいる人に、はらわたを揺り動かしてまで憐れんでくださったように、弱さがあるがゆえに、破れを持つがゆえに同じような苦しみ、弱さを持つ人に心を動かし、その人たちを励まして欲しい、その人たちの重荷を担って欲しい、そのことを願ってイエスさまは12人を選び、派遣されたのです。
わたしは、前任地の広島教会では百二十年史の編纂に、その前の秋田楢山教会では百年史の編纂に携わることを許されました。広島では原爆によって戦前の教会のすべての資料がなくなっていました。秋田はその反対に1888年、明治21年に伝道が開始されてからの資料がすべて残っていました。資料がない教会と資料が膨大にある教会、この二つの教会で教会の歴史を編纂するという作業に従事させて頂いたことは、わたしにとって本当に感謝な事でした。この作業のため、多くの祈りを、エネルギーを必要としましたが、その作業を通して、神さまの御計画ということを学ぶことができました。宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』という書で、神さまはご自身の業を、ご自身でなしえたし、天使を用いても果たし得たにもかかわらず、人間を通してこのことをなそうとしたのは、人間を尊んでおられ、人と人とを結び合わせ、教会を生じさせるためであった、と書き記しています。すなわち、神さまは、一挙に神の国を実現することをなさらず、破れ多く、弱さのある「土の器」に過ぎないわたしたちを用いてみわざをすすめておられるのです。
二つの教会で、教会の歴史の編纂に携わることを通して、カルヴァンの語っていることを本当にそうだ、と思うことができました。この12人が、無きに等しい者であったがゆえに、弱さを、破れを持つ人たちへ優しさを持ち、その人たちに励まされた人たちが同じような弱さを持つ人たちへ関わる、そうした一人から一人というかたちで、二千年かかって、わたしたちに福音がもたらされたのです。
毎月、広島の福山市にある松永教会の吉武真理牧師から一ヶ月分の週報と一ヶ月の様子を記した手紙が送られてきます。吉武牧師は神学生時代、夏の短い期間でしたが、この茅ケ崎教会で実習し、そのあとも一度説教にきて頂きました。広島教会出身の伝道者で、今年の8月、わたしは松永教会で奉仕させて頂く予定です。
咋年の4月に赴任したときは、礼拝出席が10名にいくかどうかでしたが、最近、中国の方やアフリカのケニアからおいでになっている若いご一家が出席するようになり、礼拝出席も増えている様子です。
ケニアというと4月のイースターの直前、クリスチャンの学生が148名過激派の人によって殺されたことを思い起こします。わたし自身、あの出来事は大きなショックで、イースター礼拝の説教でそのことを語りました。松永教会のイースター礼拝で、そのケニアからのご一家を前にして吉武牧師は語る言葉見いだすことに困難を覚えたそうですが、礼拝後、ケニアから来られたその方がこうおっしゃったそうです。
「ケニアの人は皆悲しんでいる。でも彼らが銃を持ってやって来ても、自分たちの武器は銃ではなく、祈りだ。自分たちは祈るしかない。彼らが何をしてきても、自分たちからは愛しか引き出せない。自分たちは祈る。彼らのことを祈って、愛で返すんだ。殺された人たちのことを思うと悲しい。けれども自分たちには天国が与えられている。だから最終的には自分たちには喜びが与えられている」と目に涙を浮かべながら話されたというのです。
その言葉を聞いた吉武牧師も教会の方々も涙があふれ出たそうですが、よみがえられたイエスさまがここにおられることを思わされ、心から感謝したというのです。
12弟子の一人シモンは力でもってローマを打ち破ろうとして熱心党に入ったのですが、イエスさまにお会いし、力ではない、武器ではない、大切なのは愛だ、そのことを示され、イエスさまのお手伝いをしました。シモンの働きが、今こうしてケニアの人々を励ましているのです。
12人の弟子が無きに等しい者であるがゆえに、無きに等しい一人一人を励ましました。そして二千年かけて、無きに等しいわたしたちに福音が伝えられたのです。わたしたちも励まされた励ましを、慰められた慰めを証しする歩みをなして参りましょう。