イザヤ書41:8~10
マタイによる福音書1:18~25
櫻井重宣
先週の日曜日から、マタイによる福音書を学び始めました。本日は、ただ今お読み頂いたマタイによる福音書1章18節以下を学びます。この箇所は、クリスマスのときによく読まれる箇所です。
さて、マタイ福音書の冒頭に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありましたが、今日学ぶ18節の冒頭の「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と記されています。実は1節の「系図」と18節の「誕生」は同じ語です。
パウロは、フィリピの教会に宛てて書き記した手紙で「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と記していますが、このマタイの冒頭に記されていることはまさにそのことです。
イエスさまは、アブラハムから始まる系図に名前が記されている一人一人と同じ者になられた、系図に記されている一人一人の痛み、苦しみ、悲しみを共にされた、そういう思いで、福音書記者マタイはイエスさまの誕生の出来事を記そうとするのです。
ところで、イエスさまの誕生の出来事を記しているのは、マタイとルカです。ルカがどちらかというと、マリアに焦点をあててイエスさまの誕生の出来事を記すのですが、マタイはヨセフに焦点をあてます。
18節の2行目から19節にこう記されています。
《母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。》
ユダヤ社会では、婚約することは、結婚とほとんど同一視され、婚約期間中に男性が死亡するようなことがあれば、女性はやもめとみなされました。その婚約期間中に、マリアは身重になったのです。婚約期間中なので、25節に記されていますように二人の間に夫婦の交わりはありませんでした。ここには「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と記されていますが、そのことを知っているのはマリアだけです。マリアはどんなに語ってもヨセフに理解してもらえないからでしょうか、沈黙しています。ヨセフはヨセフで、苦しみのどん底に落とされてしまいました。愛しているマリアが、信頼しているマリアが身ごもったからです。
ヨセフは「正しい人」であった、とマタイは記します。「正しい人」というのは、「律法に良心的に忠実に従おうとする人」と言ってもよいかと思います。
マリアへの愛とヨハネの正しさがヨセフを苦しめます。ヨセフが、マリアは身ごもったことを表ざたにすれば、マリアは、姦淫したということで人々の前で石打ちの刑に処せられます。そのため、ヨセフはこのことを、表ざたにするのを望みませんでした。「さらしものにしたくなかった」のです。マリアをどうしてもさらしものにすることの出来ないヨセフは、ひそかにマリアとの婚約を破棄しようとしました。婚約の破棄は、法廷に持ち込むことなく、二人の証人の立ち合いのもとに相手に離縁状を渡し、いくばくかの手切れ金を渡せばよかったようです。ヨセフの精一杯の「正しさ」です。
けれども、ヨハネの正しさは守られますが、マリアはどうなるでしょうか。生涯、あの人は婚約中に他の男性と交わったと言われ続けるでしょう。さらに、生まれてくる子どもはどうなるのでしょうか。父のいない子どもとして生きていかなければなりません。
先週の水曜日、最高裁判所の大法廷で、結婚していない男女間に生まれた子どもと結婚した男女間の子どもの相続で平等でなければならないという判決が出ました。子どもは親を選ぶことはできません。どんな立場で生まれようと、すべての子どもは平等ということを最高裁の判決は示したのですが、ヨセフとマリアは二千年前のユダヤ社会の人です。ヨセフの苦悩は深まる一方です。
20節と21節にこう記されます。
《このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。》
マリアを死に追いやることになるのではないか、生まれてくる子どもに一生大きな苦しみを負わせるのではないか、そのことで苦しむ正しいヨセフに、夢で主の天使がヨセフに「恐れるな」と語りました。そして、天使は、ヨセフもマリアも共に生きることができる正しさを示そうとされます。
妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったというのです。そして、マリアが産む男の子にイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うというのです。
さらに23節にこう記されます。
《このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。》
預言者イザヤの言葉が実現するためであったというのです。この預言は、イエスさまのお生まれになる700年前です。当時、アッシリアが力を持っていました。北王国イスラエルはアラムと同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしました。南王国ユダの王アハズは、自分の国が生き残るためにアッシリアに組することにしました。アハズがアッシリアに組しようと決断したこととヨセフがひそかに離縁しようとしたこと通じるものがあります。人間の計算からの正しさです。自分で、自分を、自分の国を守ろうとしたのです。
現代のシリア問題もそうです。オバマ大統領は、化学兵器を使用することを認めてはならない、と主張し、シリアを攻撃しようとします。自分の正しさの主張です。けれども、アメリカが攻撃すれば、多くの人が犠牲になります。
天使は、妻マリアを迎え入れなさい、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである、イザヤのインマヌエル預言の実現だ、というのです。だれかが正しい、だれかが間違っているというのではなく、大きな苦悩のただ中にいるマリアもヨセフも共に生きることができる道を示す、それが、マリアが産む男の子の使命だ、と天使は語るのです。
《ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。》
「眠りから覚めると」は、眠りから立ち上がって、という意味です。眠りから立ち上がってすぐヨセフは決断し、行動しました。マリアを妻として迎え入れたのです。
今から百年前、第一次世界大戦が起こりました。1914年~1918年です。この戦争で初めて毒ガスが用いられました。19世紀は人間のすばらしさ、可能性が謳歌された時代でした。けれども、その人間が、戦争で毒ガスを使用し、無差別に人を殺害したのです。大量に、無差別に殺す人間って何だろうということを深刻に考えさせられ、多くの人々が深い絶望を覚えました。
カール・バルトという神学者が『ローマ書』を出版したのはこうした時代でした。この書はキリスト教の世界だけにとどまらず、大きな反響がありました。それは、バルトが神さまの光の中で人間を見つめようとしたからです。
最近、わたしが尊敬する牧師が、御自分の心の旅を記した本を出版されました。その本の中に、バルトの『ローマ書』との出会いが記されていました。その牧師は、神学校に入学してしばらくして、病気になり休学を余儀なくされました。回復して神学校に戻ったとき、スランプに陥りました。そうしたときに、バルトの『ローマ書』の原書を手に入れ、神学校の寮に戻って読み始めました。
真っ先に心を動かされたのは、バルトが「信仰」を神の真実と訳していたことでした。自分はガタガタ動揺する。分からなくなってしまう。また、世界全体では人間は無差別に殺し合う。けれども、バルトは、神がこうした世界にイエスさまを贈ってくださった、人間は神さまの信頼にお応えできないのですが、神さまはこの世界を愛してくださる、自分のような小さな人間をかけがえのない人間として愛し、信じてくださる。こうした神の真実に信頼すること、それが信仰だ、ということに大きな驚きを覚え、立ち直ったというのです。
ヨセフが天使に示されたことはそのことです。自分の正しさを主張すればマリアを死においやり、生れてくる子どもに大きな重荷を負わせてしまいます。
ヨセフの正しさが挫折したとき、主の天使は「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言いました。天使は、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである、マリアは男の子を産む、この子は自分の民を罪から救う、イザヤが語ったインマヌエル預言が実現するためであった、というのです。インマヌエルは、神は我々と共におられる、という意味です。
神は我々と共におられる、というのはいつも心に留めることですが、我々が神と共に、ではありません。神が我々と共に、です。小さな子どもが母親と手をつないで散歩するとき、子どもが母親の手を握っているとき、石か何かに躓くと転びます。子どもがお母さんの手を離してしまうからです。けれども、お母さんが子どもの手をしっかりと握っていれば、子どもがつまずいても子どもは転びません。
神が我々と共にというのは、神さまはどんなことがあってもわたしたちの手を握り続けてくださる、一緒にいてくださる、どんなときにも信頼し、愛してくださる、ということです。
聖霊によって身ごもったマリアを恐れず迎え入れなさい、と天使に言われて、ヨセフが迎え入れたマリアから生まれたイエスさまはどういう歩みをされたかを考えると思いが深まります。
イエスさまは、あの人を抱き抱えたら、抱き抱えた人も汚れるとされた病の人を抱き抱えました。「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と言われたのですが、イエスさまは徴税人、罪人と食事を共にしました。ヘブライ人への手紙に「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とありますが、どんなに弱さをもっている人、挫折した人であっても、わたしの兄弟だ、姉妹だ、とおっしゃり、恥ずかしいなんて思いませんでした。
イエスさまは、最後に十字架に架けられました。あの日ゴルゴタの丘に三本の十字架が立ち、その真ん中にイエスさま、両側に大きな過ちを犯した人が架けられました。こうしたかたちでこの地上の歩みを終えることをイエスさまはちっとも恥ずかしいと思われませんでした。わたしたちの「正しさ」は人をはねつけてしまいますが、イエスさまの正しさは人をはねつけません。
第二次大戦下、ヒットラーが率いるナチスに多くの作品を破壊されたバルラッハの作品に「聖家族」があります。マリアとあかちゃんのイエスさまをヨセフがマントを大きく広げて被っている作品です。ヨセフは精一杯マントを広げています。
先週、幼子の祝福式のときルツ記の「イスラエルの神、主が御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」というみ言葉を読みました。
アニメの宮崎監督は、この世界は生きるに価することを描こうとしたとおっしゃっていましたが、聖書が語ることはまさにそのことです。イエスさまがこの世界に誕生したということは、この世界は神さまが御翼を広げ被っている世界だということです。神さまが御翼をひろげて、私たちをどんなときにも、どんなところでも守ってくださるということなのです。