コヘレトの言葉3:11
ヨハネによる福音書12:20~26
櫻井重宣
本日は召天者記念礼拝として、わたしたちの教会がこの地に伝道を開始してから84年の歴史の中で、神さまのみもとに召された方々のお名前を呼び、その方々を偲び、とくにその信仰を思い起こしつつ礼拝をささげています。
私たちの教会では今年、長い年月信仰生活、教会生活をおくってこられたお二人の方を神様のもとにおくり大きな悲しみを覚えています。また、本日の礼拝には、この一年の間に、愛する家族を亡くし、大きな悲しみの中におられる方もいらっしゃいます。また、他の教会からこの地に転じてこられた方の中には、今まで連なっていた教会の本日の召天者記念礼拝で、召された親の、夫の、妻の、子どもの名前が呼ばれていることを覚えて、今日ここで礼拝をささげておられる方もいらっしゃいます。
召されたお一人お一人の生涯と死を通して神さまがわたしたちに語りかけようとしておられることに心静かに耳を傾けたいと願っています。
ただ今、司会者にヨハネによる福音書12章20節~26節を読んで頂きました。イエスさまが十字架に架けられる数日前の出来事です。イエスさまが十字架に架けられたのは金曜日です。その週の初めの日曜日にイエスさまはロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。イエスさまが入城されたとき、多くの人々が、なつめやしの枝を持って、ホサナ、ホサナと言って迎えました。
その日曜日か次の日かはっきりしませんが、過越の祭りのためエルサレムに上ってきていた何人かのギリシャ人が、イエスさまにお目にかかりたいと願って、12弟子の一人でガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのところに来ました。フィリポはやはり12弟子の一人のアンデレに話し、二人でイエスさまのところに行って、ギリシャの人たちがイエスさまにお会いしたいと言っていますが、いかがしましょうかと尋ねしました。
当時、ユダヤ人とギリシャ人の仲は良くありませんでした。あるいはパウロが語るようにギリシャ人は知恵を求めました。また、ギリシャ人はミロのヴィーナスに代表されるように均斉、調和のとれた美しさを求めました。そうしたギリシャ人が数人であっても、イエスさまにお目にかかりたいと言ってやってきたことにイエスさまはただならぬ思いをされ、こうおっしゃいました。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
「人の子」というのは、イエスさまが御自分のことをおっしゃるときの表現です。「栄光を受ける時」というのは、イエスさまが人々の上に君臨する時とか、イエスさまがあがめられる時ではなく、イエスさまのイエスさまらしさが現れるときです。
クリスマスのとき、天使たちが羊飼いたちに救い主がお生まれになったことを告げたとき、天使たちは、「いと高きところに栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。神さまが独り子イエスさまを「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」として、すなわち神様が私たちを、この世界を救おうとして、独り子イエスさまを最も貧しい姿で私たちの世界におくってくださった、そこに神さまの栄光、神さまの神さまらしさがあるので、「いと高きところに栄光、神にあれ」と天使たちは賛美したのです。そして、イエスさまが十字架に架かり、御自分の命をさしだしてまで私たちに命を与えようとされる、そこにイエスさまのイエスさまらしさ、イエスさまの栄光があるのです。
旧約の時代、イスラエルの歴史は苦難の連続でした。いくたびも戦争に敗れ、多くの人が戦争で亡くなりました。子どもが犠牲になりました。国土は荒れ果て、多くの人が捕虜として連れて行かれました。そうした苦しみを受けるたびに、預言者は私たちのこの世界に神さまはきっとメシア、救い主を送ってくださる、だから希望を持とうと励まし続けました。
預言者のイザヤは、こうしたわたしたちの世界に神さまが送ってくださるメシア、救い主はどういうメシアかということで、「苦難の僕の歌」を歌いました。
メシアは傷ついた葦に象徴される弱い人、子ども、お年寄りを抱え込む、だれかの重荷を抱え込むことによって罵倒されることがあっても、その重荷を負うことを放棄しない、病気の人がいると、その人のかわりに病気になって、病気の人を癒す、私たちの世界においでになるメシアはそうした苦難の僕だ、と歌ったのです。
イエスさまは、苦難の僕として歩もうとされました。けれども、弟子たちにすら理解してもらえません。そうしたときに知恵を求め、均斉、調和のとれた美を求めていたギリシャ人が、イエスさまの歩み、語ることに関心をもって、訪ねてきたのです。イエスさまは大きな驚きを覚えました。
そして、何よりもここで私たちが心に深く思わされることは、イエスさまが御自分の死を一粒の麦の死として受けとめておられることです。イエスさまは御自分の死は、歴史上の出来事としては、一粒の麦が地に落ちる程の静かな出来事だというのです。そして死ななければ一粒のままですが、その死によって多くの実を結ぶというのです。
イエスさまは、自分はこの世では小さい存在だ、自分が死んでも大騒ぎなったり、ニュースになったりしないだろう。しかし、一粒の麦が死ぬことによって多くの実を結ぶように、わたしが十字架にかかって死んで、三日目によみがえることによって多くの実を結ぶ、神さまの御心はそういうところにある、とおっしゃったのです。
たしかにイエスさまが十字架の死を遂げたのは二千年前、ユダヤの国でしたが、今は、世界中にイエスさまの福音が宣べ伝えられ、イエスさまが蒔かれた種は多くの実を結んでいます。
イエスさまは御自分の死を一粒の麦の死として受けとめ、十字架の死を遂げ、そして復活されました。そして聖書が繰り返し語ることは、イエスさまをよみがえらせた神さまはわたしたちをもよみがえらせる、ということです。そうしますと、神さまはこの地上の生涯を終えた一人一人の死を一粒の麦の死として受けとめてくださり、一人一人の死を空しくすることなく多くの実を結ぶものとしてくださるのです。
わたしは、こうして毎年、召天者記念礼拝のときに召天者のお名前を読み上げられますが、召されたお一人お一人を今も実を結ぶ存在として位置付け、その実を数え上げているだろうか、と自らに問うています。過去の人、忘れていい人としてしまってはならないのです。しかも、地上の生涯が長い人も短い人も、神さまは多くの実を結ぶ存在として位置付け、召されたお一人お一人が今も咲かせている花を、結んでいる実に関心を向けようとおっしゃるのです。
わたしたちは本年大きな苦しみを経験しました。3月11日の東日本大震災です。毎日、新聞にこの震災で亡くなった人は何人、行方不明の人は何人と記されています。一万九千人を超える犠牲者です。わたしはおよそ二万人の犠牲になったお一人お一人の死を、一粒の麦の死として受けとめなければならないことを強く思わされます。
ヘンリー・ナウウエンというカトリックの司祭がいました。プロテスタントの神学校でも長く教えていました。ナウウエンは1995年からの一年間、特別休暇を与えられました。彼はこの一年、何をするかということを考えたとき、一日も休まずに日記を書こうと決断し、一年間、日記を書き続けました。休暇を終え三週間後、ナウウエンは心臓発作で突然死してしまいました。この一年間の日記は文字通り「最後の日記」となりました。
ある日の日記にこういうことを記しています。友人のジョナスから本を出版するので序文をと、依頼されました。ジョナスは3年前、早産で生まれた娘レベッカを亡くしました。レベッカは3時間44分生きて、彼の腕の中で死んでしまいました。大きな悲しみを経験したジョナスにナウウエンはレベッカの生涯と死を通して神さまが語ろうとすることを書き記すよう促したのです。
ナウウエンは依頼された序文にこう書き記しました。
「この本は、わたしたちの故郷は天国だという神秘の証明として読める。―
レベッカは、たった三時間四十四分しか生きていなかった。あまりにもか弱く、目を開けることすらできなかった。しかし、レベッカの両親は、生命の価値は、
生きた時間や日数や年月、また知り得た人々の数や人類の歴史に与えた影響などでは決して測れるものではないことを理解した。彼らは、生命の価値は生命そのものにあることを見抜いた」、と。そして、レベッカの生涯はベートーベンやシャガールと等しい価値があると記しました。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば」という聖書の言葉が多くの人の心に刻まれた背景の一つに賀川豊彦先生が昭和4年~5年にかけて書いた小説「一粒の麦」を挙げることができます。賀川豊彦先生は、戦前から戦後にかけて大きな働きをしました。賀川先生は牧師です。農協、生協の創立者です。貧民街のセツルメントで働きました。私たちの身近なことでいうなら、平和学園の創立者の一人です。
賀川先生は文才のある方で、「死線を越えて」はベストセラーになりました。 「一粒の麦」も多くの人に読まれました。賀川先生は、「一粒の麦として生きる」とよくおっしゃいました。
当教会出身牧師の岡崎晃先生から先日、先生のお父さんの記念誌『闘いの火をかかげ続けて― 岡崎一夫のメッセージ』を頂きました。岡崎一夫さんは、共産主義者でした。その岡崎一夫さんが晩年、息子の晃先生に新潟刑務所時代、高い所にある窓から「松の木のてっぺんしか見えなかった」という孤独な房の中で慰め、励まされていたのは、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、そのままにてありなん。死なば、多くの実を結ぶべし」という聖書の言葉であったと語り、この聖句を英語で正確に覚えておられたそうです。そして、日記に「一粒は、踏まれ、蹴られ、命を捧げても、後に続く何十倍もの活動家に育って行く」と、記してあったというのです。
先程、お読み頂いた召天者の中に「岡崎史子1942、2、9」とありましたが、この方は岡崎一夫さんの妻で、晃先生、木村燿子さんの母親です。1940年12月に茅ケ崎教会で洗礼を受けた方です。受洗したのは岡崎一夫という共産主義者と結婚してから十年近くたってからです。けれども、史子さんは中耳炎をこじらせてあっというまに亡くなりました。木下芳次先生が召集され、高田彰先生が赴任してすぐのお葬式でした。
実は史子さんの母上が羽仁もと子さんに傾倒し、キリスト者でした。史子さんはクリスチャンの娘でありながら、共産主義者と結婚し、結婚後十年して自らも洗礼を受けたのです。「一粒の麦」という聖句に心惹かれる方であったので、妻の洗礼の願いを承認したのでしょうか。岡崎史子さんも一粒の麦として生き、死んだ方です。
召天者のお一人お一人の信仰が今日の茅ケ崎教会に受け継がれ、実を結んでいることに思いを深めましょう。