哀歌3:28~30
ヨハネによる福音書16:25~33
櫻井重宣
本日は、皆さんとご一緒にイエス様のよみがえりを祝って、イースター礼拝をささげることができ、心から感謝しています。
レントの期間の日曜日、わたしたちはヨハネ福音書14章から16章に記されているイエス様の告別の説教を学んできました。イエス様が捕まって殺されるのではないかと不安を覚え、心を騒がせている弟子たちにイエス様が語った説教です。
不安を覚え、心を騒がせている弟子たちに、この告別の説教でイエス様が語られたことはこういうことでした。
先ず、父の家、神様のところには住む所がたくさんある。わたしが十字架の道を歩むのは、あなたがたのために場所を用意しに行くのだ、用意したら戻ってきてあなたがたを迎える、というのです。本当に慰めに満ちた言葉です。
また、三年間、イエス様と生活そして歩みをともにしてきた弟子たちは、イエス様が十字架に架けられて殺されるのではないかという不安を覚えています。その弟子たちに、どんなことがあっても、あなたがたをみなしごにしない、一人ぼっちにしない、神様はパラクレートス、弁護者、聖霊をあなたがたに送ってくださる。パラクレートスはどんなときにもあなたがたのそばにいて、あなたがたを慰めると、励まされました。
また、わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝だ、枝がかってに自分はぶどうの木につながる、自分は柿の木につながるということができないように、私たちがイエス様につながるのではなく、ぶどうの木であるイエス様がわたしたちをしっかりつなぎとめていて、実を豊かに結ぶものとしてくださる。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのだ。弟子たちはきっと迫害に遇うに違いないが、パラクレートスとして一緒にいる、と。
そして、先週学んだ16章16~24では、イエス様が十字架に架けられると、弟子たちは大きな悲しみ、苦しみに直面するが、それはほんの短い時間だ、すぐ復活のイエス様にお会いでき、大きな喜びがある、とおっしゃいました。
何回かに分けてこの告別の説教を学んできて、いつも思わされたことは、イエス様は残していく弟子たちに本当に良く心配りをされていることです。それもイエス様は、自分は大丈夫だが、あなたがたが心配だというのではなく、イエス様ご自身、心を騒がしながら、心騒がしている弟子たちへの心配りをされておられるのです。
さて、今日の箇所は、告別説教のしめくくりです。もう一度25節から26節を読んでみましょう。
≪「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。≫
たとえや比喩ではなく、はっきりと父について知らせる時が来る、その日には「あなたがたはわたしの名によって願う」というのです。イエス様の名によって願うというのは、祈ることです。イエス様が十字架の道を歩まれ、弟子たちは残されるのですが、イエス様は弟子たちに「祈り」をプレゼントします。
茅ヶ崎で最後の時を迎えた、八木重吉さんの詩にこういう詩があります。
おんちち うえさま
おんちち うえさまと
とのうるなり
また、こういう詩もあります。
さて あかんぼうは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか
ほんとに うるせいよ あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさかないよ うるさかないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな あんなに しつっこくよびな
宗教改革者のルターは、あまりの苦しみに直面して、アバ、父よとうめきしか言葉を発することができなかったとき、そのうめきは天上で雷鳴の音にも勝って鳴り響いている、と言っています。
不安を覚えている弟子たちに、イエス様は祈りをプレゼントされます。神様に祈っていいのだ、八木重吉のように身近に神様を覚えて祈っていいのだ、その祈りは、天上で雷鳴の音にも勝っている、神様に届くというのです。イエス様は、わたしは十字架の道を歩むが、そのことで神様とあなたたちが本当に近くなる、とおっしゃるのです。
それがさらにはっきりするのは27節から28節です。
≪父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」≫
この箇所の「愛する」は、ギリシャ語では二つとも〈フィレオー〉です。友だちが愛し合うときの愛が〈フィレオー〉です。神様と私たちが親しい間柄になるというのです。
ギリシャ語では、「愛する」という言葉はいくつかあります。ひとつは、〈エロース〉です。人間の素朴な愛、男女、親子の愛です。それから〈フィレオー〉 は友を愛する時の愛です。もう一つは〈アガペー〉です。神様の愛です。その人のあるがままを愛する愛、包み込む愛です。
ヨハネ福音書の最後のところに、よみがえられたイエス様とペトロの対話が記されています。
よみがえられたイエス様が、ティベリアス湖畔で、ペトロと一対一で向かい合います。そして、イエス様はペトロに、あなたはわたしをアガペーの愛で愛するかと問います。ペトロは「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」と答えますが、この愛はフィレオーです。ペトロはイエス様が大好きですが、イエス様が裁判にかけられていたとき、この人を知らない、あの人の弟子ではないと三度も言ってしまったので、アガペーの愛で愛するとは言えませんでした。二回目もイエス様はアガペーの愛で愛するかと問うのですが、ペトロはフィレオーの愛で愛するというのです。三回目、イエス様はフィレオーの愛で愛するか、とペトロに問うのです。ペトロは、イエス様がフィレオーの愛でしか愛せない、そのことを受け入れて下さったことを感謝し、フィレオーの愛で愛しますと答えるのです。イエス様がペトロに合わせています。
この27節もフィレオーです。神様が弟子たちを愛する愛も、弟子たちがイエス様を愛する愛もフィレオーです。神様と弟子たち、そして私たちが親しい間柄になるというのです。神様がわたしたちに合わせておられます。イエス様が父のもとから来て、世に来た、そして今、世を去って父のもとに行くに際して、神様と弟子たち、そして私たちとの親しさを残して行かれるのです。
29節と30節をお読みします。
≪弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしは信じます。」≫ これは、弟子たちの信仰の告白です。
イエス様はこの弟子たちの告白に対し、31節と32節でこう語ります。
≪イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、
あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。≫
最近は見に行く機会を持てないでおりますが、東京駅の八重洲口にあるブリジストン美術館に、ルオーの「郊外のキリスト」があります。時は夕暮れで、場所は郊外です。迷子になったのでしょうか、小さな子二人にイエス様は声をかけている絵です。身を低くしておられるイエス様が描かれています。イエス様はそういう方だ、というルオーの信仰告白です。私自身、心を動かされるイエス様の姿です。
けれども、ここでは弟子たちが自分の家に帰ってしまい、イエス様がひとりきりにされるというのです。神様が一緒なので、ひとりではないと言いますが、イエス様はそうした孤独を経験されています。
迫害の激しい時代に書き記されたヘブライ人への手紙に、「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司として民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできなるのです」(2:18)と記されますが、イエス様は本当にそういう方です。
その孤独を経験されたイエス様が33節でこうおっしゃいます。
≪これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。≫
イエス様がよみがえられた時、弟子たちや婦人たちに繰り返し「平和があるように」と語りました。「平和があるように」というのは、おはよう、今日は、今晩は、という日常の挨拶の言葉です。ヘブライ語で〈シャローム〉です。イエス様は、逃げ出したり、否んだ弟子を咎めずに、「平和があるように」と挨拶されます。弱さや破れをさらけ出した弟子たちをありのまま包み込んでおられます
「苦難」はパウロがロマの信徒への手紙で、患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を産み出し、希望は失望に終わらないという、患難と同じ語です。
けれども、イエス様は高みの見物をしておられるのではありません。先週、受難週祈祷会で心に留めましたように、この告別の説教のあと、イエス様は逮捕され、裁判に架けられ、十字架に架けられるのですが、その際、幾たびも平手で打たれ、鞭打たれ,唾をかけられ、嘲笑されます。そうした苦難を味わわれたのです。
弟子たちも迫害に直面し、苦しみに遭うに違いない。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」は、文語訳では「然れど雄々しかれ、我すでに世に勝てり」です
「勇気を出しなさい」、というのは慰めに満ちた励ましの言葉です。弟子たちが、ガリラヤ湖で嵐に直面し、右往左往していたとき、イエス様が来られて、私は一緒にいる、安心していい、大丈夫だ、というのと、「勇気を出しなさい」は同じ言葉です。ルターは「慰めを受けよ」と訳しています。「わたしはすでに世に勝った」というのも、イエス様が最後の最後まで苦しみを味わわれたことを意味しています。
毎年イースターを迎えるとき、思い起こす言葉があります。今から110年前のイースター礼拝でブルームハルト牧師が語った言葉です。
「もし、私が一人の人間を放棄せざるをえないならば、もし私がある領域もしくは地上について希望を放棄せざるをえないならば、イエスは私のために甦られなかったのだ。もし、私がどこかで希望を放棄せざるをえないことがあるならば、あなたは世の光でありたまわないのだ。」
神様はだれに対しても、どんな時にも、どんな所でも希望を持ち続ける方だ、神様がイエス様をよみがえらせたということはそういうことだというのです。そして、その望みは、哀歌の詩人が語るように、塵に口をつけたとき、見いだした望みなのです。