申命記26:5~15
使徒言行録6:1~7
桜井重宣
新しい年を迎え、今日は二回目の日曜日です。今年も皆様とご一緒に御言葉に耳を傾け、御言葉に励まされつつ歩んで参りましょう。 さて、今朝は使徒言行録6章1節から7節を学びます。もう一度、1節を読んでみますと、こう記されています。
「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」
使徒言行録はペンテコステの時に誕生した教会はどういう共同体なのか、そしてその教会がどのように進展していったかということが記されている書です。そして、今日のこの箇所を見ますと、教会の大切な務めの一つに、やもめの食事の世話があったことが分かります。一家の大黒柱である夫が急に亡くなってしまう、子どもをかかえてこれからの生活はどうなるのか、そのことで不安を覚え、途方 に暮れるような思いをしているやもめたちへの励まし、そしてやもめたちに対する食事の世話が教会の大切な働きの一つだったのです。
実はこうしたやもめへの心くばりは、教会が誕生して始まった働きというより旧約時代からなされていたことです。
先程、もう一箇所、申命記26章をお読み頂いたわけですが、そこには、旧約の最も古い信仰告白が記されていました。
わたしたちの先祖は滅びゆく一アラム人であったがエジプトに下り、そして寄留したこと、そこで数が多くなりエジプト人から虐げられ、重労働を課せられたこと、そのとき神様に助けを求めると、エジプトから導き出され約束の地カナンに導き入れられたこと、そして今ここにカナンで与えられた初物をもってきたこと、それが最古の信仰告白です。そして、この告白に続いてレビ人、寄留者、孤児、寡婦への心くばりが命じられるのです。
すなわち、自分たちがエジプトで寄留していたとき大変だった、そのエジプトから神様が導き出してくださった、だから、今度は自分たちの周囲にいる寄留者、孤児、寡婦に優しくしようというのです。
この箇所の少し前、申命記24章には、畑で穀物を借り入れるとき一束を畑に忘れても取りに戻ってはならない、それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい、オリーブの実を打ち落とすとき、そしてぶどうの取入れをする時は、後で枝をくまなく捜したり、摘み尽してはならない、それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなければならない、あなたはエジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさいということが記されています。
おそらく皆さんも、ミレーの有名な絵、《落ち穂ひろい》を思い浮かべることが出来るかと思います。三人の婦人が落ち穂を拾っている絵です。貧しい寡婦、やもめが一生懸命落ち穂を拾っています。パリの郊外バルビゾンで日常的に見られた光景なのでしょうが、こうした光景は旧約時代から続いているのです。
このように旧約聖書には苦しんでいる人、貧しい生活を余儀なくされている人々への思いやりが勧められているのですが、その原点はあなたがたの先祖はかつてエジプトで苦しい状態にあったとき神様が助け出してくださったということなのです。
こうした聖書の教えに基づいて初代の教会は、教会の大事な務めの一つとしてやもめに対する日々の食事の世話を位置づけたのです。
けれども1節によりますと、このやもめへの日々の分配のことで、教会の中で不満がでてきたと言うのです。どういうことかと申しますと、ギリシャ語を話すユダヤ人たちからヘブライ語を話すユダヤ人に対してです。ギリシャ語を話すユダヤ人というのは、外国で生活をしていたユダヤ人です。ディアスポラと言われていた人たちです。それでギリシャ語を話すのです。けれども年を取って、故郷への愛着が断ち切りがたかったからでしょうか、肉親を亡くしたからでしょうか、エルサレムに戻ってきた人々です。そしてエルサレムでペトロたちの説教を聞いて教会の仲間に加わったのです。
ヘブライ語を話すユダヤ人というのは生粋のユダヤ人です。ユダヤで生まれ、ユダヤで生活してきた人々です。ペトロたちもそうです。最初の教会はヘブライ語を話すユダヤ人たちがそのメンバーでした。そこにギリシャ語を話すユダヤ人が加わったのです。それゆえやもめへの日々の分配はヘブライ語を話すユダヤ人がしていたのです。
けれども、教会の大事な務めとしていたこのやもめへの日々の配分のことでギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対し苦情が出たのです。ギリシャ語を話すユダヤ人からするならば、自分たちのやもめへの配分が少ないというのでしょうか。
これは、私たちの経験からも良く分かることです。誰が配るかで、配られる人が有利になったり不利になったりする、分配のときはいつもそのことが問題になります。おそらくどなたも経験がおありでしょうが、私の年代は子どもの頃本当に貧しい時代でした。おかずやおやつを親が分けるとき、公平に分けられているかどうかみんな目を凝らしてみていたものです。
教会は決して理想的なところではありません。けれども、わたしたちがここで心に留めたいことは、こうしていかにも人間的な不満なのですが、こうした不満が出たとき、教会は誠実に対応をしていることです。
2節から4節を読んでみましょう。 「そこで、十二人は弟子をすべて集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなた方の中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉に専念することにします。』
ここを見て分かりますように、十二人の使徒はギリシャ語を話すユダヤ人に対して、自分たちは公平に分配している、どうしてそういう苦情を申し立てるのかといって、その苦情をはねつけることをしなかったのです。どうしたかといいますと、やもめの日々の分配は教会の大切な務めだ、それに携わる人を選ぼう、しかも大事な務めなので霊と知恵に満ちた評判の良い人を選ぼうと提案したのです。そして、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念すると言ったのです。
私たちは、この提案に十二使徒そしてヘブライ語を話すユダヤ人たちの教会に対する思いあるいは信仰を見る思いです。
十二使徒からするならば、もちろん公平に日々の分配を行っていたと思っていました。行おうと努力していました。けれども不平、苦情が出てきたのです。何をばかなことを言うのかとはねつけてもよかったのです。
けれども初代の教会ではその苦情に誠実に答えようとしました。一人の人がこうした苦情を申し立てるとき、不平を言うとき、その言葉の背後にあるものをみようとしたのです。今日まで虐げられてきた歴史があることを知っていたからです。
故郷を離れて長年、外国で暮らさなければならなかった淋しさ、生活の困難さ、そして肉親を亡くし、ようやくの思いでふるさとに戻ってきた、けれどもなかなか新しい生活に慣れない、人々の輪の中に入ることができない、ようやくイエス様の教えに心動かされ教会に加わった、けれども、教会でもまた差別されているのではないか、けれども、こんなことを言ったら恥ずかしい、そういう思いも一方ではあったかも知れませんが、教会ならこうした苦情も聞いてもらえるに違いない、ギリシャ語を話すユダヤ人の教会に対する信頼もここにあります。
一方ヘブライ語を話すユダヤ人は、ギリシャ語を話すユダヤ人の不満の背後に、根底に、それまでたどってきた苦しみをみようとしたのです。
いうならば、先程の申命記の心です。かつてエジプトで苦しんでいた、だから今苦しんでいる人の苦しみを深いところで受けとめよう、そういう優しさが初代教会にありました。
ミレーの《落ち穂ひろい》は、あの3人の落ち穂を拾うやもめに対する優しさがあります。あの絵は1857年に描かれました。当時のミレーは7人の子どもをかかえ生活が苦しく、芸術家としても行き詰っていた時でした。自ら命を断とう、そうした思いすら抱いた時でした。落ち穂を拾う婦人への限りない優しさを描くことにより、自分に対する神様の優しさを覚え、生きる望みを与えられた作品なのです。
5節と6節をお読みします。
「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、バルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」
教会は7人を選び出しました。実はこの7人ともギリシャ語を話すユダヤ人です。もちろん、たまたま7人ともギリシャ語を話すユダヤ人であったのかもしれません。ヘブライ語を話すユダヤ人が一歩ゆずるかたちとなったのかもしれません。そんなに不満があるならおまえたちがやったらいいというのではありません。祈って選んだ結果がこの7人であり、たまたま7人ともギリシャ語を話すユダヤ人であったということなのですが、私たちは初代教会の見識を見ることができるように思うのです。不満が出てきたとき、こうしたことで対立があってはならない、心を一つにして歩んでいきたい、そういう願いが初代教会にあったのです。
その結果、7節です。
「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」
祭司は人々の罪を執り成す人です。初代教会の見識に心打たれ、教会に加わったのです。
実はこの7人ですが、最初に記されるステファノはこのあと登場します。来週、学びたいと願っていますが、8節に「さてステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と。そして7章でステファノの説教が記され、さらにステファノは石を投げつけられ殺されたことが記されます。初代教会の殉教者です。
8章には、ステファノのことでエルサレムの教会に対し迫害が起こり、フィリポがサマリア、さらにガザまで散らされて伝道する様子が記されます。
ほかの5人はどういう働きをしたのか、今私たちは分からないのですが、ステファノというフィリポは日々の配給で選ばれたのに、伝道が前面に出ています。
ここで使徒言行録の著者ルカが語ろうとしていることは、教会がやもめへの日々の分配に全力を込めて関わった、そのことを通して福音が前進したということではないでしょうか。やもめへの分配と伝道は切り離すことができないのです。
もう少しいうなら、一人の苦情にていねいに耳を傾けた、日々の分配に心を用いた、そのことが教会が大きく前進するきっかけとなっているのです。
今日は礼拝に引き続いて新年度に向けて懇談会を行います。教会はどんな意見にもていねいに耳を傾けなければなりません。そして、こんな小さいこと、つまらないと思われることでも教会を信じ、意見を述べて頂きたいと願うものです。教会はどんな提案にも耳を傾けるところだ、そうした信頼を持ち合わせたいと願うものです。どの人の提案にもその人の背後にある思いをていねいに聴く群れでありたいと願うものです。「教会を信じる」ということはそういうことなのです。
入門講座でマルコ福音書を学んでいます。先週は12年間長血を患っている婦人がイエス様の正面からはとても近づくことができず、後ろからイエス様にそうっと近づき、直りたい一心でイエス様の衣に触れた箇所を学びました。イエス様は後ろからしか近づくことができない人には背中でそのことを受けとめてくださる方なのです。イエス様は背中でも人を招く方です。
こうしたイエス様の優しさを証しする教会をと願っています。