☆兼重幸枝さんが6月1日に召されました。93歳10ヶ月のご生涯でした。80歳を過ぎても、松浪の自宅から自転車で日曜日の礼拝、水曜日の朝と夜の祈祷会、金曜日の教会清掃においでになっていました。自転車で片道40分も50分もかかっていたのではないでしょうか。前夜式のときに紹介しましたが、兼重さんが70代後半にこういう文章を書いておられました。
「今、私はただ教会に来ることが一日でも長く出来るようにとの願いで、悪くなった腰と足をきたえなくてはとの思いからプールに通って、少し泳ぎ、歩き、体操をしています。でも強くなるというより、維持することがやっとかなと思いますが・・・・・。友人達は、『自転車はやめて。夜の自転車なんてとんでもない』と言いますが、まだ今はやめられません。でも車もやめられたように、自転車もやめる時が来ることでしょう。その時までに私は足をきたえて、教会に歩きで来ることができるようにと、それが今一番の願いです。」
兼重さんの思いが凝縮されている文章です。自転車をやめる時がくるに違いない、そのため、プールに行って、腰と足を鍛え、教会に歩いて行くことができるように、との兼重さんの教会への思いを大切に受け継ぎたいと願っています。
☆今日の時代、政治家が「真実」をないがしろにする現実に心が痛み、アブラハムや預言者エレミヤの苦悩を思わずにいられません。
アブラハムは、神さまがソドムの町を滅ぼす、と決断されたとき、神さまに「正しい者が五十人いても滅ぼすのですか」(創世記18:24)と問いただします。神さまは「その五十人」のために赦す、とおっしゃいます。しかし、五十人を見いだすことができません。そのため四十五人なら、四十人なら、三十人なら、二十人なら、最後に十人なら、と値切るのですが、神さまが「その十人のため滅ぼさない」とおっしゃってくださいました。けれどもアブラハムは足を棒のようにして探したのですが、10人を見いだすことができませんでした。
エレミヤは、神さまから「エルサレムの通りを巡り よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか 正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」(5:1)と言われ、「通りを巡り」「広場」で、「正義を行い、真実を求める者」を探し回るのですが、一人も見いだすことができませんでした。十字架の死を遂げてまで「真実」であったイエス・キリストを証しする使命と責任が教会にあることを強く思わされています。