牧師室の窓から 2013年6月

★この欄に毎月、訃報を載せていますが、今月もそうです。前任の盛谷祐三牧師の夫人聖子 さんが6月4日逝去されました。6日、広島観音町教会で行われた葬儀に当教会から6名が 参列し、その死を悼みました。6月21日が聖子さんの70歳のお誕生日でした。式次第に略 歴が記されていました。1945年8月6日、広島市南段原にて被爆。2007年10月、次姉、 間質性肺炎にて召天。2009年10月、(聖子さん)間質性肺炎と診断される。2010年7月、 長姉、間質性肺炎にて召天。2013年6月4日、間質性肺炎にて召天、と。68年前の8月6日、お父さんが亡くなっていたので、お母さんが長姉と次姉の手を引き、2歳の聖子さんをおん ぶして逃げたそうです。あの日、同じ方向から放射能を浴びた三姉妹は、被爆後、62年目、 65年目、68年目に相次いで原爆症で亡くなったのです。こんなにむごいことがあっていい のでしょうか。三姉妹とも、教会学校で最後まで子どもたちに、福音を、とりわけ平和の大 切さを語り続けておられたことをうかがい、厳粛な思いになりました。 福島の子どもたちがこうした不安、苦しみを抱えつつ、これから何十年も生きていかなけれ ばならないことを考えると本当につらくなります。盛谷先生とご家族、そして広島観音町教 会の皆さんに主の慰めと平安を祈ります。


★6月13日、広島教会員のMさんが亡くなりました。原爆投下の時の広島教会の牧師は四竃 一郎先生でした。四竃先生は原爆投下後、教会員の消息をなかなか把握できず、原爆で亡く なった三十数名の教会員の葬儀を誰一人司ることができませんでした。葬儀に参列できたの はご自分の長女佑子さんの葬儀だけです。四竃先生は、羊飼いとして委ねられた羊に申し訳 なかったという思いを生涯持ち続けておられました。Mさんはこうした牧師の苦悩、悲しみ を心深く覚え、原爆で亡くなったお一人お一人がどこで、何時亡くなったのか、お墓はどこ にあるか、遺族はどこにおられるかを、数年かけて調べあげ、四竃先生にお渡ししました。 表にすると一枚の紙ですが、そのリストを見ると、牧師の悲しみに少しでも応えたいという Mさんの思いと、原爆で亡くなったお一人お一人の信仰と存在の重みを後々まで受け継ぎた いという当時の教会の姿勢が伝わり、涙が溢れます。前任地の会員の葬儀には基本的には参 列しないのですが、四竃先生のMさんへの感謝の思いを携えて参列させて頂きました。


★悲しみが相次いだ6月でしたが、9日の花の日礼拝・子どもと大人の合同礼拝、16日の春 の伝道礼拝、いずれも恵まれた礼拝でした。

目次