牧師室の窓から 2012年3月

★レントの初日の日、2月22日(水)の夕方、教会の近くで自転車で転倒し、救急車で徳洲会病院に運ばれ、右大腿骨転子部粉砕骨折と診断され、そのまま入院し、27日(月)3時間余の手術を受けました。このことで皆さんに多大なご心配をおかけし、本当に申し訳ない思いで一杯です。おかげさまで、皆さんのお祈りによる励まし、支えで少しずつ回復に向かっています。牧師になって40数年、ご病気の方々、入院している方々をできるだけおたずねし、病床にある方々に主の支えと励ましがあるようにと祈ってきましたが、この度の経験で、ご病気の方々の痛み、苦しみを充分に知っていなかったことを痛感させられています。  神学校の恩師であった熊沢義宣先生は学長に就任してまもなく心筋梗塞で救急車で入院され、数週間絶対安静を命じられたとき、十字架のイエスさまはベッドの下で私を支えて下さっている。わたしのどん底の一番下の所で受け止めて下さっている、そのことを示され、慰められ、励まされたとおっしゃっておられましたが、私も入院以来10日近く激痛が続く中で熊沢先生のおっしゃったことを思いおこし、一日一日過ごしていました。それとともにベッドの移動、パジャマの交換のときに覚える激痛のとき、十字架を前にしたイエス様が何度もなぐられ、鞭で打たれたことを思いおこしました。むち打たれ激しい痛みを覚えられたイエスさまゆえ、激しい痛みを覚えている私の痛みを共にしていて下さる。のた打つような私と共にイエスがおられる。インマヌエルの恵みを心深く思わされました。

★入院以来、役員の方々を中心に教会員お一人おひとりが牧師のために祈ってくださり、教会を守っていて下さることを感謝します。そして説教をお引き受け下さった岡崎晃先生、鈴木和男先生、横山厚志先生とともに礼拝に出席し、いつも祈っていてくださる原崎清先生に心よりお礼を申しあげます。

★3月11日(日)は東日本大震災からちょうど一年でした。礼拝後「3・11を覚える祈祷会」が開かれ、被災された方々、被災地にある教会を覚えて皆さんが祈って下さいました。私も病床で時を同じくして祈りました。  広島に赴任したのは被爆して50年目の年でした。戦後の週報や教会報を丁寧に読んで気がついたことは、「原爆」という文字がほとんどないことでした。後で分かりましたが、思い出すことも、口に出すこともできなかったのです。心の奥深くに封印してしまったのです。 大震災、大津波で大きな苦しみを、悲しみを覚えられた方々、とくに原発事故でフクシマの人々が受けた苦しみも同じだと思います。語りえないまま、心の奥深いところにそれを封印しておられる方々の苦しみ、悲しみを共に追い続けたいと願っています。

目次