牧師室の窓から 2010年9月

★20日(月)は恒例の教会修養会でした。出席者は50名を超えました。求道者、客員の方々 も参加され、うれしい修養会となりました。プログラムは開会→主題講演→証し→記念写真 →昼食→分団による話し合い→全体会でした。
 主題講演では、ワッツの『希望』を最初に紹 介し、「望み得ないのに、なお望みつつ信じた」ワッツの信仰に思いを深めました。講演の前 半は「希望」をかたった預言者イザヤの信仰を学びました。後半は、茅ケ崎教会創立以前の 茅ケ崎の地におけるキリスト者の働き・歩み、とくに高田畊安、高橋誠一、小山房全、小山 喜代野、中村重之助、小川禮一、八木重吉、林止、留岡幸助が地の塩として歩み、困難な課 題を担っている人々とくに子どもたちに励ましを、希望を与える働きをなしていたことを心 に留めました。
 1927年10月30日に創立した茅ケ崎教会は、こうした先人の祈りを受け継 いでいることを思わされます。講演後の高橋章子姉の証しは、出席した多くの人に深い感銘 を与えました。

★過日、久しぶりに広島を訪れました。何人かの方の見舞いが主たる目的でしたが、帰りの 時間を気にしながら、平和記念公園の資料館に行きました。
 昨年、四竃揚先生が『平和を実 現する力』の出版に合わせて、揚先生のお姉さん、四竃佑子さんが被爆して二日目に弟さん たちに宛てて書いたはがきを資料館に寄贈したことを聞いたので、そのはがきの実物をどう しても見たかったからです。資料館の受付で聞いたら、すぐ分かりました。地下の展示室4 にありました。  上記の本で、はがきのコピーを見ていましたが、実物を見て非常に心を動かされました。 佑子さんは、「あの日」、はがきを持参していたのでしょうか。友人の家族にもらったのでし ょうか。瀕死の重傷の身であっても両親や弟、揚さんの消息が分からないので、疎開先にい る二人の弟たちのため自分がしっかりしなくては、という使命感から書いたはがきです。誰 が投函したのか、ポストのはがきを集配する郵便局の人は被爆しながらも職務を果たしたの か、県内といっても百キロ以上離れた弟さんたちの疎開先にそのはがきはどのようにして配 達されたのか、いろいろ思い巡らしました。郵便局員だけでなく、電車の運転手も、鉄道員 もプロ意識を持っていたのでしょう。何よりも佑子さんの家族への思いがひしひしと伝わり、涙を抑えることができませんでした。
 佑子さんは五日目に家族と再会し、弟さんたちの疎開地で家族全員が一緒に過ごし、被爆 して28日目、9月4日召されました。16歳でした。

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