名前名前24年11月17日 礼拝説教「”命の書”にある名前」

牧師 田村 博

2024.11.17

「“命の書”にある名前」

旧約:イザヤ書4:2~6

新約:ヨハネの黙示録 20:7~15

 「ヨハネの黙示録」の最後が近づいた20章には、先週に引き続き「新しい天と新しい地」の到来の前の最後の様子が記されています。わたしたちが今生活しているこの世界は、このままのかたちで永遠に存続すると聖書は伝えていません。主イエス・キリストが再び来られる再臨の時、この世の完成の時が、やがて来るとはっきりと伝えています。20章前半には、その完成の時に向けて、わたしたちが心しておくべきいつくかの大切なことが語られていました。

 20章4節後半には次のように記されています。

「わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。」

 主イエス・キリストと出会い、神の子救い主であると信じ、その御言葉によって生きる幸いにあずかり、そのことゆえに迫害され、挙句の果てには命を奪われた大勢の人々がいます。「あの獣」とは、力を持っているかのように振舞い、巧妙に近づいて来て、飴と鞭を用いて心の隙間から入り込んで、その支配下に自らを委ねるように導こうとする存在です(ヨハネ黙示11:7、13:1~18、14:9~11、16:2、10、17:3~17)。

 特に「刻印」「獣」の関わりが13章には記されていました。

「そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。」(13:17)

 経済活動において便利さを餌に人々の心を誘導し、気がついた時には、その「刻印」なしには「物を買うことも、売ることもできないように」、社会全体を意図的に支配しするのが「獣」の特徴の一つでした。そして、その莫大な「富」が「地上の権力」と結びつく時、人々は惑わされてしまいます。

 18章23、24節にその状態が記されています。

「ともし火の明かりも、もはや決してお前のうちには輝かない。花婿や花嫁の声も、もはや決してお前のうちには聞かれない。なぜなら、お前の商人たちが地上の権力者となったからであり、また、お前の魔術によってすべての国の民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである。」

 その直前には「獣」「像」との関係も明らかにされていました。

「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」(13:15)

 本来、「像」はものを言わない「物質」に属するものです。その「言葉」には、「魂」がありません。主なる神「言葉」は生きており、人と人との間に信頼を築き上げてゆくものです。人と人との間に喜びを増し加えてゆくものです。しかし、「像」が発する言葉は、人と人との間に不安と不信をもたらします。

 今、「生成AI」なるものが市民権を得て、わたしたちの生活にもじわりと浸透してきています。「獣の像がものを言うことさえできるようにし」という言葉と重なり合う部分があるかもしれません。礼拝説教においても、「ヨハネの黙示録20章」「会衆が感動する説教」「30分前後で」と入力すれば、ものの数秒で完成する時代がすぐそこにあるのです。しかも、その説教の方が明らかにいい、と人々が評価し、用いるとしたら…。そこでの「感動」を忘れられず、それ以外は聞こうとしなくなったら…。「獣」「像」は、そのようにして人々の心を虜にしてゆくのです。「感動」を味わい、心地よい気分になればそれでよいではないか…と思われるかもしれません。しかし、神さまの御言葉は、いつもわたしたちを心地よくしてくれるためにあるのでしょうか。旧約聖書に登場する預言者たちは、イスラエルの民に対して、しばしば厳しい預言を届けています。そのために迫害され、命を落とした者たちも少なくありません。

 世の終わりの時、世の完成の時には、そのような内実を伴わない、人の感情のみに働きかけて人を惑わすような「獣の像がものを言う」活動が、世界中に広がるというのです。

 そのような流れの中で、ヨハネの黙示録21章の「新しい天と新しい地」が到来する直前の、最後の裁きとして、20章があります。

 20章4節には次のように記されていました。

「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。」

 千年の間のキリストと共なる統治です。しかし、7節には再び次のように記されています。

「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、」

 3節にすでに

「その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。」

とありましたが、波状攻撃のようにしてサタンの抵抗がなされることが伝えられているのです。その波状攻撃も必ず最後を迎えます。それが、8節にあるように「ゴグとマゴグ」という聞きなれない言葉と共に示されています。

 「ゴグとマゴグ」については、エゼキエル書38~39章に記されています。「ゴグ」は、マゴグの王の名前で、イスラエルに襲いかかる最後の敵として出てきますが、主の干渉によって敗北するとエゼキエルが預言しています。「マゴグ」は、ヤフェトの子孫として創世記10章2節に登場します。ある時代に黒海付近に住んでいた人々と考えられます(エゼ38:2,15)。このエゼキエルの預言する、敵の大敗北が世の終り、世の完成の時に成就するのです。世の終わり、世の完成、すなわち主イエス・キリストが再び来られるその時については、旧約聖書にすでに記されているのです。「その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。」(8~9節)と記されている敵の大集合に対して、「すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」(9~10節)、「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」(13~14節)とある通り、完全な勝利が、まことに厳しい言葉をもって記されています。

 なぜこのような敵の襲来と戦いと勝利が伝えられているのでしょうか。それは、世の終わりの時、完成の時にもたらされる勝利が、完全なものであることを伝えているのです。隠れてそのまま残されるようなものは何一つないのです。わたしたちは誰もが不完全な存在です。言葉と行動によって神様が喜ばれないようなことを語ったりしたりしてしまうことがあります。同時に、語ったりしたりというところには至らないことが多々あります。心にフト湧き起こってきた思いや感情として、言葉や行動としてあらわれる寸前にグッと呑み込んでしまうということがあります。後から考えてあの時に感情にまかせて言葉を発したり行動していたりしたら大変なことになっていた…などという経験が誰にでもあるはずです。それは、本人以外、誰も気づきません。誰も責めたり咎めたりはしません。わたしたちの感覚では、それは「なかったこと」に等しいこととしてやがて忘れてしまうでしょう。しかし、神様の目からご覧になったとき、それは「なかったこと」ではなく「確かにあったこと」なのです。そして、その「確かにあったこと」をわたしたちの心の奥底にしまい込んだままにはなさらないのです。世の終わりの時、完成の時、気づいていることも気づいていないことも、すべて明らかにされるのです。それが、「その数は海の砂のように多い」(8節)という言葉が示している意味です。「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、」(13節)の「海」は、わたしたちを呑み込んでしまおうと迫って来る混沌・無秩序です。「死と陰府」もまるで深い闇のような存在です。「海」「死と陰府」に呑み込まれてしまえばもう何が何だかわからなくなってしまうと思いがちです。しかしそうではなく、そこさえも隠れる場所とはならないのです。すべてについて、神様は明らかにした上で、本当の勝利がもたらされます。

 12節には「幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。」と、さらに15節には「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」と記されています。神様は、「命の書」に名前を記してくださいます。

 11月3日の召天者記念礼拝において、先に召された教会員の兄姉の名前が一人ひとり読み上げられました。それは、単にわたしたちが思い出すためだけに読み上げられたのではありません。主なる神様が覚えていてくださり、その名を「命の書」に記してくださるお方なのだということをしっかりと心に刻むためのものなのです。その一人ひとりのために主イエス・キリストは十字架におかかりになられたのです。

 聖餐式のたびに礼拝において告白している「日本基督教団信仰告白」には、こう記されています。

 「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまう。御子は我ら罪人のために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、我らの贖いとなりたまえり。」

 わたしたちが気づいていることも気づいていないことも、すべて代価を払って、十字架の死という代価を払って、わたしたちを買い戻してくださった、贖ってくださったのです。そして、その事実をふまえて「命の書」に名前を書いてくださるのです。

 この大きな恵みを信じて、まいりましょう。「第二の死」に向かって身をゆだねるようなことはやめよう。祈ります。

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