2021年2月14日 礼拝説教「どうして今は目が見えるのか」

牧師 田村 博

「どうして今は目が見えるのか」   イザヤ65:17~20  ヨハネによる福音書9:13~23

 「どうして今は目が見えるのか」という意味の問いかけが、この聖書箇所には、繰り返し記されています。最初は生まれつき目が見えなかった本人に対して(15節)、後半では彼の両親に対して(19節)です。

 彼に何が起きたのかについては、9章1節以下に記されています。弟子たちと共に歩いておられた主イエスに、弟子たちが尋ねました。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)

 それに対して主イエスは、お答えになりました。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)

 それは、彼がそれまで聞いたことのないような言葉でした。「神の業が…現れる」という言葉が彼の心にとどまりました。

 主イエスは、続けられました。

 「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」(4節)

 その「わたしたち」という言葉のうちに、主イエス、弟子たちが含まれていることは間違いないことでした。それにとどまらず、その「わたしたち」に、自分も含まれているのではないか、彼の心の中に、そんな気持ちが生まれたのではないでしょうか。彼をも包み込むような言葉として、彼の心に届けられたのです。

 さらに主イエスは、おっしゃいました。

 「わたしは、世にいる間、世の光である。」(5節)

 その言葉の中に、彼は、まことの光の到来を予感したに違いありません。

 主イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、「シロアムに行って洗いなさい」とおっしゃいました。彼は主イエスの御言葉に従いました。「シロアム」とは「遣わされた者」という意味であると、福音書記者ヨハネは書き添えていますが、まことに神に遣わされたお方である主イエスに従って、シロアムの池で目を洗い、見えるようになったのです。主イエスは、池まで彼に付き添って行かれたわけではありません。しかし、男は主イエスに向かって歩くかのごとく、平安を与えられ、不安を取り除かれてシロアムの池にたどり着き、御業にあずかったのです。

 旧約聖書イザヤ書65章17節以下を司会者に朗読していただきましたが、まさに、彼の気持ちは、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。」という言葉のごとく、喜びにあふれていたに違いありません。見えるということはこういうことなのだ、と生まれて初めて知った、神の創造の御業をかみしめていたことでしょう。

 わたしたちもうれしい出来事と遭遇することがあります。人生のいろいろな節目に、家族のこと、友人のことを自分のことのように喜ぶことがあるでしょう。その喜びを一時的なこととしてではなく、永続的なことのように喜ぶ秘訣が、実はこのイザヤ書65章20節にあります。

「そこには、もはや若死にする者も

 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。

 百歳で死ぬ者は若者とされ

 百歳に達しない者は呪われた者とされる。」

 ちょっと見ると、不思議な言葉です。

 教会員のK姉(礼拝では実名)が先月2日100歳になられました。皆が100歳以上に? でも現実には100歳を迎えることなく主の御許に召される方々がいます。むしろその方々の方が多いでしょう。では、聖書はでたらめを記しているのでしょうか? そうではありません。この「100歳」という言葉には、特別な意味が込められているように思います。

 1月24日の主日礼拝で創世記のアブラハムのことを「主の山に備えあれ」という御言葉と共に心に刻みました。その息子イサクの誕生が予告・約束されたのが、アブラハムが99歳の時でした(創世記17:1、24に繰り返し記述)。そして、その約束が成就したのが100歳だったのです(創世記21:5)。

 神が約束をしてくださるお方であり、またその約束を成就してくださるお方であることを、知ることにまさる喜びはあるでしょうか。ここにこそ、本当の喜び、決して色褪せたりしない喜びがあります。

 生まれつき目が見えなかったこの人にも、神の約束が届けられ、その成就がなされました。自分の願いが成就したのではないのです。ここに「神の業が現れ」たのです。

 そのようなすばらしい出来事を前にして、人々は、なぜ、「どうして今は目が見えるのか」としつこく問わなければならなかったのでしょうか。わからなかったので、教えてもらおうと純粋な気持ちで尋ねたのではないことはすぐにわかります。

 人々の心は、あきらかに一つの「先入観」にとらわれていました。主イエスがメシア=救い主であるはずがない、自らをメシアだと語る偽物にちがいない、という先入観です。このユダヤ人たちが主イエスに抱いていた先入観にも、何らかの理由があったことでしょう。何年か前に、「われこそメシアなり」と世を騒がせるものがいて、人々は大変な思いをしたといった出来事があったのかもしれません。

 「先入観」というものが、すべて悪いわけではありません。

 「先入観」とは、広辞苑によると、「初めに知ったことによって作り上げられた固定的な観念や見解」と説明されています。

 視点を少し変えてみると、「先入観」は、わたしたちが生きるために必要なものとして与えられている神様からの賜物であるとも言えます。わかりやすくするために野生動物で考えてみましょう。ライオンが目をギラギラ光らせながら、シマウマのところに近づいていたとします。もし、シマウマが、それが敵か味方か、逃げるべきか否か、考えてから行動するとしたら、何秒後かには命はないでしょう。動物が動物として生存するために「先入観」は必要なのです。危険を危険として察知する感覚、感性です。それは人間社会においても同じだといえましょう。それゆえ、「先入観」=不要、悪ではありません。

 しかし、主イエスは、しばしば、「先入観」を放棄させるような言葉をもって人々に迫られました。ある時、主イエスは、幼子を人々の前に立たせて、「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。」とおっしゃいました。善行を重ね、律法を守り、人々から信頼されることを通して、神様にも受け入れられるに違いないと考えていた弟子たち、またユダヤ人たちにとっては、まさに青天の霹靂のような言葉でした。

「大人は〇〇、子どもは〇〇」という先入観を完全に放棄させるような主イエスの言葉でした。

(男は〇〇、女は〇〇が問題となって世間を騒がせていますが…)

 わたしたちも無意識のうちに心に持っている「先入観」です。主イエスは、時としてそれを放棄させるような御言葉を語られているのです。

 大きなチャレンジです。しかし、さらに大きなチャレンジがあります。

 主イエスが、わたしたちに迫った最大の「先入観の放棄」とは、…「十字架と復活」です。

 十字架、それは死刑の道具でした。極悪非道の犯罪者に課せられる最も厳しい刑罰でした。しかし、主イエスは、自分は十字架にかけられると弟子たちに語られました。それのみならず、自分は復活するということも、秘密のようにして隠していたのではなく、弟子たちに、まわりの人々にはっきりと伝えているのです。それは、人々の「メシアとはこういう存在だ」といった人々の先入観に収まるものではありませんでした。十字架と復活は、人々の先入観を放棄させる最大の出来事なのです。

 代々の教会は、「十字架と復活」という人間にとっての最大の「先入観の放棄」を、すべての中心に据えて歩み始めました。今週の水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれている、特別な水曜日です。そして、この日から、教会暦は受難節(レント)に入ります。なぜ、「灰の」というかというと、実際に、「灰」をもって、額に十字架のしるしをつけてもらう日だったからです。その「灰」は、一年前の復活日の一週間前の棕梠の主日に教会で飾られた棕梠の木を燃やして灰にしたものを用いました。主イエスがエルサレムに入場されるとき、人々は大歓迎し、手に棕櫚をもって、歓喜の声をあげました。しかし、その数日後には、主イエスを十字架にかけよ、と人々は叫んだのです。そのことを覚えるため、灰の水曜日があるのです。

 人々の気持ちと、主イエスの御心との最大のギャップがここにあります。

 代々の教会は、人々の先入観に収まり切れなかったこの出来事(十字架と復活)を、教会の暦の中心に据え続けてきたのです。それが、わたしたちが今週迎えようとしているレントの期間です。クリスマスより前に、イースターがありました。洗礼式といえば、クリスマスにと思いがちですが(私も受洗したのはクリスマスでした)、代々の教会が洗礼式を施したのは、イースターの日です(今も多くの教会でイースターに洗礼式が行われています)。

 自分にとっての、最大の「先入観の放棄」が、新しい自分の出発なのです。それは、神様の最大のご計画(約束)とその成就なのです。

 わたしたちは、このような「先入観の放棄」がもたらす喜びに与かるようにと招かれています。

 それでもなお、「どうして今は目が見えるのか」と問い続けるべきでしょうか。

 そこに何が待っているかについて聖書は伝えています。一言でいえば「分裂」です。ユダヤ人の間でも「意見が分かれた」(16節)と記されています。意見を一致させて主イエスに反対したのではなく「分裂」がここにあります。そして後半には、両親が自分の息子がどうして目が見えるようになったのかわかりません、と答えている様子が記されています。両親も息子から何が起きたのか事細かに聞いたに違いありません。喜びを分かち合ったに違いありません。しかし、「分かりません」という言葉を生じさせているのです。親子の間の分裂です。「どうして今は目が見えるのか」と問い続けるところに、「分裂」が生まれてしまうのです。

 わたしたちは、自分の心の中から「どうして今は目が見えるのか」といったような言葉を全部取り除くことはできない存在かもしれません。だからこそ、このレントの期間があるのです。約束を与え、成就しようとしてくださっているお方が、わたしたちに本当の喜びをくださろうとしているのです。心の中に疑問やいろいろなものが浮かんできて掻きまわすようなことがあるかもしれません。しかし、その中で、いかなる先入観をも取り払ってしまうような「約束と成就」がなされようとしているのです。わたしたちが実際にレントの中を歩むことを通して、わたしたち一人ひとりに成就しようとしているのです。

 もう一度、イザヤ書65章17~20節を読んで終わりにしたいと思います。

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。」

 神様の創造の御業が、わたしたち一人ひとりの人生の歩みにおいてもなされることを信じて、レントに入ってゆきたいと思います。

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