牧師 田村 博
2024.9.1
「修養会に向けて①-教会-」
旧約:イザヤ書41:4
新約:コリントの信徒への手紙一 12:27~28
茅ヶ崎教会では、9月23日(月・振替休日)に第73回教会修養会を迎えようとしています。「第1回」はいつであったかというと、それは1951年でした。茅ヶ崎教会の創立記念日は、1927年10月30日で、創立百周年を3年後に迎えようとしていますが、教会が生み出された1927年からしばらくの時を経て迎えた1951年は、茅ヶ崎教会にとってとても大切な年として教会の歴史の中に刻まれています。この1951年とは、会堂を失い、場所を借りて礼拝を開始した年です。1951年5月の総会では、一会員から土地(現在教会のあるこの場所)がささげられ、会堂建築委員会が組織されました。財政的な力が乏しい中、教会は教会員の労働奉仕によりコンクリートブロックを祈りつつ積み上げて教会堂を建て上げるという決断をしました。1951年は、そのような一歩を踏み出した年なのです。「目に見える教会建築」を進めるにあたって、同時に「目に見えない教会形成」をしっかりと意識することを目指して、それを「教会修養会」というかたちで心に刻み始めたのです。ただし、献堂式が行なわれた1964年には修養会は行なわなかったので、今年2024年は第73回目にあたるわけです。
「第73回」という数字は、歴史の長さ、回数の多さを教えてくれるのみならず、1951年という「時」に私たちを立ち返らせ、そこから一年一年積み上げられているのだということを教え続けてくれています。もちろん私自身もその1951年にはここにいなかった、その後に新たに加えられた一人です。しかし、最初からいた人にとっても、わたくしのようにその後から加えられた人にとっても、さらにはこれから加えられようとしている人にとっても、教会を建て上げる一歩一歩が、「教会修養会」として積み上げ続けられているということは、とても意味のあることです。
さて、今回の修養会の主題は、「茅ヶ崎教会の百年の歩みの中で -教会って何だろう-」です。今回は、外部より佐藤司郎先生という講師を迎えて開催となりました(略歴は修養会案内参照)。先生は、日本基督教団大洲教会(愛媛)、信濃町教会(東京)での伝道牧会を経て、東北学院大学(仙台市にあるキリスト教主義の大学)教授をなさり、現在は尚絅学院大学(宮城県名取市にあるキリスト教主義の大学)の学園長・理事長です。先週、私の休暇中ということで日本聖書神学校2年生の宋度榮神学生に礼拝説教の御用をしていただきましたが、宋神学生の母教会は信濃町教会です。信濃町教会は、今年教会創立百周年を迎えたのですが、1987年9月から1998年3月まで10年以上にわたって信濃町教会の牧師をされた佐藤司郎先生は、3月に記念講演をされたそうです。宋神学生は、その佐藤司郎先生の名前が茅ヶ崎教会の週報にあるのを見て驚いていたということでした。
大学の学園長・理事長というと、なんだか難しいお話しをされるのではと誤解されるかもしれませんが、東北学院大学で長らく教鞭をとられたということから、大学生にわかりやすく御言葉を伝えてきた経験をお持ちです。宋神学生によると、信濃町教会の講演会でも、とてもわかりやすいお話しをなさったとのことでした。
このたびの修養会では、一方的に講演を伺って終わりではなく、私たち一人ひとりが参加することを大切にしたいとの願いから、昨年に引き続いて「ワールドカフェ方式」を修養会に取り入れて行います。「ワールドカフェ方式」とは、「キーワード」から思い浮かんだ言葉を「ポストイット」に各自がメモし、それを共有してゆく作業を通して、それぞれの「思い浮かんだ言葉」の間にあるつながりに気づくための工夫です。バラバラのように見えるところに思ってもみなかったようなつながりがあることを発見してゆくのです。修養会委員会が選んだ今回の「キーワード」は、「教会」「奉仕」「御言葉」「祈り」です。選考の過程で、「証し」「伝道」という言葉も候補としてあげられました。これらも教会の本質とつながる大切な言葉です。今回選ばれた4つの「キーワード」のみが限定的な意味を持っているというわけではなく、私たちが「教会」について考える時に、そこには豊かな広がりがあることを覚えておきたいと思います。
教会修養会前の4回の主日礼拝では、「教会」「奉仕」「御言葉」「祈り」という4つのキーワードを取り上げて聖書に耳を傾けてまいります。この4つのキーワードを取り上げるといっても、それぞれの模範解答をお示しするつもりは全くありません。ワールドカフェ方式の話し合いの場面では、今日を思い出して何かを書くというのではなく、それぞれが自由に、ワールドカフェ方式の話し合いに臨んでいただきたいと思います。ただ、その枠組みと豊かさを修養会に先立って心に留め、主が修養会を通して私たちに届けようとしてくださっている恵みを覚え、期待をちょっぴり膨らませたいものです。
さて、本日は、その第1回「教会」です。「教会」=日本語では「教える会」と漢字で表記します。それゆえ「学ぶ」場所であるというイメージを知らないうちに抱いている人もいるかもしれません。しかし、日本語で「教会」と訳されている言葉は「学ぶ」場所という意味を持っていません。「教会」は「学校」とまったく異なり、私たちの「知的満足」を満たすためにあるのではないのです。「教会」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語では「エクレシア」という言葉です。その意味は、「召しだす、呼び集める」です。
イザヤ書41章4節以下には次のように記されています。
「この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの。」
教会に連なる私たち一人ひとりは、すべてのものの創造主なる神によってこの世から「呼び出され、呼び集められた」存在なのです。それでは何のために呼び集められたのでしょうか。その答えを得るために聖書のいくつもの箇所を開くことができますが、今日は、「日本基督教団信仰告白」にて確認してみましょう。
「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集いなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む。」
私たちが呼び集められたのは、「強制的な召集令状によって」ではありません。「恵みによりて」呼び集められているのです。そして、それに先立ってここには、教会が「キリストの体」であると明記されています。集められて無秩序にバラバラに存在するのではなくて、「イエス・キリストの体」として存在するのです。
コリントの信徒への手紙一 12章27節には、こう記されています。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
神様は、「使徒」「預言者」「教師」「奇跡を行う者」「病気をいやす賜物を持つ者」「援助する者」「管理する者」「異言を語る者」などを「部分」としてお用いくださり、教会を立て上げてくださっているのです。そのキリストの体なる教会が何をしているのか、先の「日本基督教団信仰告白」の教会に関する箇所の後半にて告白されています。
第一には「公の礼拝を守り」。だから私たちも今、礼拝をささげています。私的な、自分がよしと決めた礼拝ではなく「公の」礼拝です。
第二は「福音を正しく宣べ伝え」。礼拝をささげた自分たちだけで満足して終わるということはないのです。多くの人々と分かち合う横のつながりがここにあります。
第三は「バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い」。会堂の会衆席に座って前を向いたとき、洗礼盤と聖餐卓が常に私たちの目に入ることには大切な意味があります。
第四は「愛のわざに励みつつ」。主イエスは私たちを愛してくださっています。使徒言行録20章28節には次のような一節があります。
「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」
神が御子イエス・キリストの血を流すほどに愛してくださり、その結果としてキリストの体なる教会を建て上げられたのです。キリストの体は、その愛によってつながっているのです。私たちの体も、小さな傷を負っても血が流れ出ます。それは、心臓から全身に血液が送られ続けているからです。キリストの体なる教会についても、主イエスがご自身の血潮をもって贖い取ってくださったがゆえに、ご自身の血潮が流れ続けているのです。それゆえに私たちも「愛のわざに励む」ことができるのです。
第五は「主の再び来たりたまふを待ち望む」。教会は、特別なその「時」、主の再臨の「時」を待ち望む存在です。
教会は、このような告白を続ける者の群れです。コリントの信徒への手紙一の12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と記されています。キリストの体を満たしている「聖霊なるお方」が、働き続けておられ、告白させ続けてくださいます。主イエスの時代、それは本当に小さな群れでした。人数が多くなったのでそろそろ教会を作ろうか、と神様は教会を生み出したのではありません。大きさは関係ありません。その告白が真実なものであり、聖霊によってなされたものであるか否かこそ大切なのです。
このたびの教会修養会に向けて備えようとしている私たちに、佐藤司郎先生は一つの御言葉をお届けくださいました。
それはルカによる福音書12章32節です。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
キリストの体なる教会を、神の国を、ここに建て上げさせてくださろうとしているのです。日々備えてまいりましょう。