2021年1月3日 礼拝説教「わたしは世の光である」

ヨハネ8:12~20
出エジプト記13:17~22

田村博

2021年という新しい年の初めに、主を礼拝できることはすばらしいことです。しかし、世の中に目を転じますと、コロナ禍の拡大という現実を背負っていると言っても過言ではないでしょう。今日、明日、あるいは明後日にも、緊急事態宣言が出されようかという中にあって、わたしたちを本当に支えてくれるものは何なのかということが、ますます大切になってきます。そのことをしっかりと心に刻ませてくれるような主の日であってほしいと願っています。このような困難の中にあるわたしたちですが、その現実を前に、目を閉じてしまうのではなく、暗闇の中にあってもまことの光があり、わたしたちを支えてくれるのだという事実を、今日の御言葉はわたしたちに教えてくれます。2021年を歩み出そうとしているわたしたちに、主なる神が語ってくださっている特別な御言葉です。

 この御言葉がこのたび与えられたのは、決して偶然ではありません。主なる神が、わたしたちにどうしても必要な御言葉として用意してくださいました。昨年4月よりヨハネによる福音書の講解説教を続けておりましたが、待降節(アドベント)の期間、中断していました。そして再開後のこの2021年の新年礼拝に与えられたのが、この8章12節以下の御言葉です。

 8章12節にはこうあります。

「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」

主イエスは、「わたしは世の光である。」と語りかけられました。大胆な力強い御言葉です。しかし、それを聞いていたファリサイ派の人々は、「はい、そうですか」と納得したわけではなく、13節をみると、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と反発したことがわかります。「自分が世の光であるとは、何事だ! 神を冒瀆するまでには至らないけれども傲慢なことだ!」と感じたのです。もし主イエスが、「神様は、一人ひとりを照らすまことの光であられる」と語ったのであれば、ファリサイ派の人々は一つも違和感を持たなかったことでしょう。異議を挟むこともなかったと思います。つまり、もし主イエスが、客観的に、「神様というお方はね…」と語ったのであれば、誰も言い返しはしなかったのです。しかし、主イエスはあえて、“(神様について)説明をされた”のではなく、“わたし-あなた”という関係をもって、一人ひとりに語りかけているのです。

「あなたに向かい合っているこのわたしは、あなたに対して、まことの光なのだ。わたしに従う者は、命の光を持つのだ。」と、マン・ツー・マンで(1対1で)、語りかけてくださったのです。このことは、わたしたちにとってとても大事なことを教えています。わたしたちも「神様というお方は、こういうお方でね…」と、誰かに伝えるような機会があるかもしれません。もちろんそのような説明が大事なこともありますが、それ以上に大切なことは、わたしたちを通して、マン・ツー・マンの交わりの中で、神様というお方はどのような御方かということが届けられるということです。わたしたちが生かされているのはそのためなのです。そのために主イエスは、あえてこのようにおっしゃったのではないでしょうか。

さらに主イエスはファリサイ派の人々にお答えになりました。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」(14節) 

わたしたちはどうでしょうか。自分が「どこから来てどこへ行くのか」と意識したことがあるでしょうか。「どこから来て」とありますが、両親のもとでオギャと生まれて、気づいた時には両親に育てられていたわたしたち一人一人です。誕生の記憶など正確に覚えていないでしょう。また「どこへ行くのか」とありますが、誰もが100%、この地上での生涯を終える時を迎えます。その後、どこへ行くのでしょうか? 何となく「天国に」と答えることができるかもしれません。では、その天国とはどのようなところなのかと問われたら、どのように答えることができるでしょうか。漠然としか答えることができないわたしたちです。しかし、主イエスは、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、知っている」とお答えになったのです。そのように答えることのできる唯一のお方なのです。

わたしたちは、限界を持っており、主イエスと同じようになろうと思ってもなることのできない者でありますが、主イエスは、そのことを責めようとしておられるのではありません。言い訳などする必要もありません。ただ、わたしたちが‟自らの限界”に気づくことが大切だとおっしゃっているのです。

15、16節に「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」とあります。ある聖書翻訳は、「あなたたちは肉に従って裁く。」のところで区切った上で「あなたたちは人間の基準で裁く。」と訳しています。わたしたちは人間ですから「人間の基準」で物事を判断し、裁きます。その通りです。しかし、こう続きます。「しかし、わたしはだれをも裁かない。」 つまり主イエスは、人間を仕分けするために来られたのではないというのです。でも、もし主イエスが裁くとするならば、その裁きは「真実=決して間違いない」というのです。なぜならば主イエスは、「ひとりではなく、わたし(主イエス)をお遣わしになった父(神様)と共にいるから」だというのです。主イエスは、人間の基準で「あなたはこう、あなたはこう」と判断をするためにいらっしゃるのではなく、すべてをご存知である「父なる神」が一緒におられるという事実をもって、一人ひとりに向かって「あなたはこうです」「あなたに必要なことはこれですよ」「あなたが気づくべきことはこのことだ」と、迫ることのおできになるお方なのです。

そして、律法に「二人が行う証しは真実である」と記されていますことを取りあげて、父なる神様と子なるキリスト(ご自身)が共に行うことは真実だとおっしゃいました。ご自身とぴったりと一致されるお方として、父なる神様がご自分を遣わしてくださっているのだとおっしゃったのです。キョトンとしてその言葉を聞いていたファリサイ派の人々は、「父とは誰のことを指しているのだろう」と思いました。その彼らに対して、主イエスは、「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」(19節)とおっしゃいました。主イエスに向かい合って、「イエスさま!」と、自分自身をさらけ出してその関係に生きようとするときに、「父なる神様」をも知ることになるとおっしゃったのです。主イエスは、ご自身と、父なる神様をまったく一致した存在として語られました。「わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」には、そのような大切な意味が込められています。ここで一連の会話は区切りを迎えていますが、20節に著者ヨハネは、一つのことを書き添えています。

「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」(20節)

「宝物殿」とは、神殿の中の祭具などを保管する場所のことを指しているという説もあります。しかし、この「宝物殿」という言葉は、マルコによる福音書12章41、43節では「賽銭箱」と訳されています。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」

「賽銭箱」は、神殿の中の「婦人の庭」と呼ばれる場所に置かれていました。「婦人の庭」は「異邦人の庭」より一段奥にあり、イスラエルの民の男女が入ることができる場所で、異邦人は出入りできないところでした。そこにかなりの数の「賽銭箱(献金のための箱)」が並べられていたそうです。そこは男性だけが入ることのできる聖所に向かう部屋へとつながっていました。20節の「宝物殿の近くでこれらのことを話された。」は、主イエスが「婦人の庭」でファリサイ派の人々に語られたのだということを伝えようとしたととることもできます。つまり、誰もが自由に出入りできるような場所ではないので、もしファリサイ派の人々が主イエスを捕えようと思えば捕えることができたのです。出口を塞ぐことは簡単な場所だったにもかかわらず、人々はそうしなかったのだというのです。

「宝物殿の近くでこれらのことを話された。」には、もう一つ別の意味があるように思いました。

主イエスが、一人の貧しいやもめが「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」とおっしゃったとき、「さあ、みなそのようにしなさい!」と行為そのものを真似るように勧めたのではありません。主イエスは、ご自分の命を含めてすべてをささげようとしている、十字架の上にささげようとしている、その自分と、その貧しいやもめの行為を重ね合わせて語られたのです。

主イエスは、わたしたち一人ひとりに、コロナ禍の報道を見るたびに闇の中にいるように感じているわたしたち一人ひとりに、光をもたらすことのおできになるお方です。その光を、ご自身の命と引き換えに、一人ひとりに届けようとされるお方なのです。

命と引き換えに一人ひとりに届けられようとしているその光を、わたしたちは、それぞれの歩みの中で、「ああ、まことの光があるのだな!」と意識するべきことを、気がつくべきことを、この聖書の箇所はわたしたちに教えているのです。

本日、同時に与えられている旧約聖書箇所の最後の節にはこう記されています。

「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」(出エジプト記13:21、22)

炎天下でも弱ってしまわないように雲の柱をもって彼らを覆い導き、急激に気温が下がる荒れ野の夜にも凍え死んだりしないように守り、また闇の中で怯えて心が崩れ落ちてしまわないように火の柱をもってイスラエルの民を照らし続けてくださったのです。

主イエスが、「わたしは世の光である」とおっしゃったのは、民の先頭を離れることはなかった雲の柱、火の柱のようにして、一人ひとりを導こうとされているのだということを伝えたかったからなのです。そして、主イエスは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とおっしゃっています。その主イエスに心を開き、「自分の人生のこんなところに光をあててくださるのですね!」とお答えしたいと思います。時には、「ああ、そこは自分自身でもあまり見たくなかったところです…」というような部分が光によって照らされ浮かび上がるようなことがあるかもしれません。そうであったとしても、目を閉ざしてしまうのではなくて、先立って、一緒に歩んでくださる主イエスが「世の光」であるというのですから、信じて、目を開けて、ご一緒に従ってゆきたい、そのような2021年でありたいと思います。

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