2020年11月15日 礼拝説教「残されたふたり」

コヘレトの言葉4:9~11
ヨハネによる福音書7:53~8:11

田村博

2週先の11月29日は降誕前第4主日で、いよいよ待降節第1主日(アドベント第1主日)を迎えます。待降節には、特別に主を待ち望むことをおぼえての聖書箇所を礼拝のために示されていますので、ヨハネによる福音書の講解説教は、年内はこれが最後であり、再開は1月に入ってからということになります。1か月少々の中断を前にして、まことにふさわしい聖書の箇所が与えられました。

本日の聖書箇所は、すっぽりと特別な“かっこ”に囲まれて、前後から独立しているように見えます。詳しい事情につきましては、また別の機会に説明させていただきますが、ここに記されている内容は、紀元後2世紀頃(西暦100年代)には人々の間で語り継がれていたことがわかっています。ただし、ヨハネによる福音書のこの箇所に収まったのは、少々後のことだと推測されています。つまり、“かっこ”に囲まれているからといって、決して前後に比べて価値が劣るという意味ではありません。その時代の人々の手紙にもしっかりと引用されている、とても大切な箇所なのです。

主イエスがエルサレムの神殿で人々に教えておられたときのことです。姦通の現場で捕らえらえた、つまり不貞行為に及んでいた一人の女性が主イエスのところに連れてこられました。連れてきたのは律法学者たちとファリサイ派の人々で、主イエスを訴える口実を探していたのです。その人々は主イエスに尋ねます。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

もし、主イエスが、「律法通り石で打ち殺せ」と答えたなら、彼らはローマ総督のところに訴え出ようとしていました。なぜなら、当時、イスラエルの民はローマ帝国の実質的な支配下にあり、犯罪者を死刑にする権利を与えられていなかったのです。つまり、越権行為となり、ローマ帝国に逆らうことになるのです。

もし、主イエスが、「石で打ち殺してはならない」と答えたなら、モーセの律法を破ってもよいと言ったことになります。律法を軽んじたという罪状を添えて彼らの最高法院に訴える口実にしようとしたのです。

主イエスは、どうお答えになったかというと…。6節にあるように「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」のでした。人々はいらいらして、返事をするように何度も促しました。そこで、主イエスは身を起こして言われました。7節「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられたのです。これを聞いた者はどうしたかというと、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、とうとう、主イエスと、その女性だけが残りました。主イエスは、身を起こして言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女性が、「主よ、だれも」と言うと、主イエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 この箇所から、3つの御言葉に心を留めてみたいと思います。

1)「イエスはオリーブ山に行かれた」

 第一は、8章1節にある「イエスはオリーブ山に行かれた」という御言葉です。その直前の7章53節には、「人々はおのおの家へ帰って行った。」とあります。人々は家へ、しかし主イエスはオリーブ山へという二つのベクトルの交錯がここにあります。これは、人々は休むために家へ帰って行き、主イエスもその寝床であるオリーブ山へ行かれたという単なる行動を伝えているのではありません。ルカによる福音書21章37、38節には次のような御言葉があります。

 「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」

 実は、ある写本では、このルカによる福音書21章38節の後に、本日のヨハネ福音書の聖書箇所をそのまま収めているというものもあるのです。

ルカによる福音書21章36節には、主イエスの「いつも目を覚まして祈りなさい。」という御言葉があります。

 「オリーブ山」は主イエスと弟子たちにとって休む場所であったと同時に祈りの場でした。人々は家へ帰って行ったのですが、主イエスはオリーブ山に行かれたのです。人々が休んでいる時も、主イエスは、人々のために祈っておられるのです。決して眠らなかったというのではありません。しかし主イエスは祈り続けてくださっているのです。その主イエスの祈りに支えられて、8章3節以下の出来事があると言っても差し支えないと思います。

2)「年長者から始まって」

二つ目は、9節にあります「年長者から始まって」という御言葉です。姦通の現場で捕らえられた女性を連れてきた人々の人数が何人だったのかは明記されていません。その事実を間違いないことだと証言する証人が二人以上いたことでしょう。また女性が逃げないように腕をつかみ続ける人々もいたでしょう。それを見張る者たちもいたでしょう。そしてそれを利用しようとした律法学者たちやファリサイ派の人々。その傍らには朝早くから主イエスのもとに集まった人々がいました。2節には「座って」とあります。主イエスは、すれ違いざまにちょっと立ち話をするようにして会話をなさったのではなく、じっくりと座って教えておられたのです。そこにどかどかと人々が割り込むかたちでした。多くの人々が事の成り行きを注目していました。その視線の真ん中で、主イエスは地面に何か書き始められたのです。

 主イエスが何を書いていらしたかという疑問について、聖書学者たちがいろいろと論じています。①ローマの裁判では罪状を記録してから刑の執行をするのが慣習だった。その慣習にならったのではなかろうか? という人々がいます。しかし主イエスがその女性の罪状をあらためて書き留める意図がわかりません。 ②聖書の言葉をひたすら書いていたのでは? という人々がいます。可能性としてはありえるでしょう。しかしもしそうであればその聖句を発端に何らかの会話が始まっても不思議ではないのですが、ここにはその兆候がありません。「しつこく問い続けるので」からするとそこに何か答えがあったとも思えません。 ③無関心を表明されたのでは? という人々がいます。主イエスが人々の問いかけに対して応答をしようとされなかったことを、結果的に人々は主イエスの無関心として受けとめたかもしれません。④まわりの人々の名前とそれぞれの罪を書いていたのでは? という人々がいます。訴え出ていた人々は自分の名前とその罪を見て恥ずかしくなりその場を去って行ったのではないかというのです。主イエスはすべてをご存知でしたので不可能ではないでしょう。しかし、9節には「これを聞いていた者は、年長者から始まって…」とあります。

 主イエスはおっしゃいました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 この主イエスの御言葉が、彼らの心に届けられたのです。自分は、「罪をおかしたことのない者」なのか、姦通の罪こそ犯してはいなかったかもしれませんが、心の中に、それにつながる「罪」はないだろうか、と一人ひとりが問いかけられたのです。その結果、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去った」のです。

 わたしたちは“年齢を重ねる”ことにしばしば否定的なイメージばかり重ねてしまいます。しかし「年長者」であることの恵みがあるのです。“自分の弱さを知っている、そしてそれを認めることができる”という恵みです。そして、それを行動を通して証しする使命を与えられているのです。

3)「残った」

 9節後半には「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」とあります。三番目に注目したい御言葉は、この「残った」という言葉です。

レビ記20章10節には、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」と記されています。「男も女も共に」であるにもかかわらず、捕えられ主イエスの前に引っぱり出されたのは女性だけでした。男性は逃げてしまったのかもしれません。彼女を捕え、引きずるようにして訴えていた人々が、次々に立ち去ってしまい、とうとう女性と主イエスだけが残りました。女性には逃げることもできました。相手の男性が要領よく逃げ去ったように。足がすくんでしまって動かなかったのでしょうか。それとも自分の傍らにいて地面に何かを書いている主イエスに何かを感じたのでしょうか。わかりません。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と主イエスに尋ねられた彼女の応答の言葉は「主よ、だれも」でした。かろうじて語った短い二つの言葉です。その場の緊迫した空気を感じさせます。

ところで、この9節の「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」のところは別の訳でみると次のようになっています。

 ・新改訳「真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

 ・元訳「ただイエス一人のこる 女は集まりの中に立てり」

 榊原康夫師は、「残った」あるいは「残された」と訳されている言葉について、「ただ物理的にひとりになったという簡単な表現ではない。非常に強い意味の言葉。見捨てられたというような。」と説明しています。

 この女性は、自分の人生の終わり=「死」をここで意識したに違いありません。しかし、その傍らには、自身の過ち、自身の罪でもないのに、自分と共に「残って」くださったお方、主イエスがいたのです。裁く側ではなく、共に傍らにいてくださるお方・主イエスは、彼女に語りかけました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

ここにこの女性の新しい歩みが始まりました。人目を避けて逃げ回る人生ではありません。男性と会ってすべてを清算したかもしれません。家族の前にて心からの深い悔い改めの言葉を伝えたかもしれません。共に「残って」くださるお方・主イエスは、彼女に新しい人生をくださいました。

主イエスは、わたしたち一人ひとりにも新しい人生をくださいます。そのために祈り続けてくださるお方なのです。

目次
閉じる