手造りの教会堂から2つの教会を生み出した
茅ヶ崎教会の歩み

[創立からの24年間]
 茅ヶ崎教会は、日本基督(キリスト)教団に所属する教会です。  茅ヶ崎教会が創立されたのは、1927年(昭和2年)で、メソジスト教会の一分派である、日本美普(みふ)教会の茅ヶ崎講義所として、10月30日に、茅ヶ崎町茅ヶ崎11984番地(現在の共恵2丁目7番)に建てられた教会堂で、最初の礼拝をささげました。
  そこに至るまでの間、平塚美普教会(現在の日本基督教団平塚教会)の水野重吉牧師等による、茅ヶ崎における出張伝道、献身的な信徒の協力などが、教会創立の原動力となりました。
  翌年、日本美普教会茅ヶ崎美普教会として組織されましたが、専任の牧師が得られず、日本美普教会日之出町教会(現在の日本基督教団蒔田教会)の小泉要太郎牧師が、1940年3月まで兼任牧師として在任し、その間、近隣教会の牧師の応援や、積極的な信徒の活動で教会の歩みが進められました。
 1940年4月から1年間、酒井長吉牧師が在任されたのち、青山学院神学部を卒業した新進気鋭の木下芳次牧師が、1941年(昭和16年)4月に着任されました。
 1941年6月、日本のプロテスタント諸教派の合同教会として、日本基督教団が設立され、茅ヶ崎美普教会は、日本基督教団茅ヶ崎教会となりました。
 同年12月には、日本は、米英に対して宣戦布告を行い、木下牧師は、着任されて1年にも満たない翌年2月、召集を受けて茅ヶ崎教会を辞任し、入営されました。後任には、青山学院神学部で親交のあった高田彰牧師が着任し、戦争の激化によるさまざまな困難の中で、教会を守り続けてくださいました。
 警報発令による中断などはありましたが、主日礼拝、祈祷会等は、休むことなく、続けられました。
 1945年(昭和20年)8月、第二次世界大戦が終結、翌年5月に木下牧師が中国より復員され、7月に茅ヶ崎教会の牧師にあらためて就任し、高田牧師は、辞任されて銀座教会に転任されました。
 木下牧師は、茅ヶ崎教会の従来の歩みを再点検し、宣教、礼拝、説教と聖礼典を中心に据えた教会となることを目標に、教会員の育成、訓練を重視し、特に、青年部、少年少女部などの組織を、信仰的に強化して行きました。
 当時の教会堂と敷地は、法的には教会員である一個人の所有であり、教会創立以来、教会が無償で使用するという契約が交わされていました。
 1951年(昭和26年)、その所有者である教会員が、他の教会に転会したうえで、その土地と建物の返還を要求するという事態が起こりました。教会は、2回にわたる臨時総会を経て、自発的に使用契約を廃棄することを決断し、4月15日の礼拝を最後に、土地も礼拝堂も持たない教会として歩み始めました。
 しかし、この4月15日という日は、茅ケ崎教会が創立以来24年目にして初めて生み出した神学生、岡崎晃(卒業後、平塚教会、大船教会、神奈川教区巡回教師を経て、2004年3月に隠退)が、東京神学大学に入学した喜ばしい日でもありました。

[会堂を失った教会の再出発から献堂式までの13年間]
  日曜日には使われていない施設を借りての礼拝が始まった直後の、5月の総会で、一教会員から土地約50坪(後に20坪の追加で約70坪、現在の中海岸4丁目2番18号)が寄付され、会堂建設委員会が組織されました。
 財政的な力が乏しかったことも幸いし、資金は教会員の献金のみに依存し、教会員の労働奉仕で、一つ、一つ、祈りながらコンクリートブロックを積み上げるという、一見無謀な、しかし、身分相応な信仰の結実をささげて、宣教の足場となる会堂を建設するという、建築期間も定めない、教会員の信仰が問われる計画が立てられました。
 その一方で、建築関連の仕事に携わっていた教会員が、1級建築士の免許を取得し、無料で設計・施工に当たるという、条件にも恵まれました。
 1952年4月、寄付された南向けの緩斜面の松林の松を伐採し、根を掘り出すという整地作業から始まり、全くの素人集団が、鉄筋を曲げ、鉄板の上でコンクリートを練り、仮枠を組んで、基礎コンクリートを打ち上げました。
 1952年10月、ブロック積みを開始してから16か月、数か所の教会員の家を借りて礼拝が続けられると共に、礼拝以外の集会はすべて中断し、主日の午後と休日に作業が続けられました。1954年2月、約3千3百個のブロックを積み上げた、一部2階建ての内外壁が完成し、専門業者による棟上げ、瓦屋根葺き、フローリング張りを終えるまで、教会員による作業は、125回、延べ1214名という記録が残されています。
 1954年(昭和29年)4月18日、イースターに、新会堂での最初の礼拝がささげられました。しかし、その時点では、教団と教会員等からの借入金が残っていたために、献堂式を行いませんでした。借入金を返しながら、内外装工事、電灯工事等を進め、借入金の返済を終え、工事も一区切り付けて、献堂式を行ったのは、10年後の1964年11月1日でした。献堂式に配布された経過報告には、そこまでの総工費は、159万円と記されています。

[教会が1つ目の教会を生み出すまでの14年間]
  1965年4月、二人目の神学生として、宮崎徹が東京神学大学に入学、木下牧師は、7月から約1年間、ドイツの福音合同教会の招きで留学し、その間は、畑中岩雄牧師が代務者としてご奉仕くださいました。  木下牧師がドイツ留学を終えて帰国、復職した翌1967年、伝道活動の具体策として、茅ヶ崎教会は、資金積立を含む開拓伝道計画を総会で決議しました。当初の計画は、市の西部、浜見平団地を含む南湖・柳島地区とし、4年間、教会員の家で月2回の集会を行うと共に、伝道所用地の打診等も行いました。その間、1970年には、白戸清が東京神学大学3年に編入学し、農村伝道神学校に在学中の大森清一(卒業後、吉胡伝道所、宇佐美教会、藤崎教会、大島元村教会を経て、2008年3月隠退)が転入会する一方、学士課程を終えた宮崎徹は、米国に留学(帰国後、下浜教会、二宮教会、船越教会等を歴任)しました。
  1971年4月、南湖・柳島地区での開拓伝道の総括を行ったうえで、中断を決議、次なる展開を目指して、開拓伝道促進委員会を設置しました。約2年を掛け、教会員の意識調査も踏まえて、新興住宅地として開発が進んでいる、市北部の鶴が台、円蔵、香川地区への開拓伝道を決議し、1973年9月、市内香川字原151番地3(現在の香川1丁目34番35号)に約68坪の伝道所用地(翌年、約43坪を追加)を購入(追加分も含めて1350万円)しました。
 土地購入のための教会員等からの借入金を返済する間もない、1974年3月に、近隣教会の信徒が経営する幼稚園のプレハブ園舎を、格安で入手できることになり、その解体から、香川での建築に至るまで約1年、かつてのブロック積み以来の久し振りの労働奉仕で、香川集会所が完成しました。
 その間、1974年6月には、円蔵在住の教会員宅等で、香川家庭集会をスタートさせ、東京神学大学の修士課程を終えた白戸清を、1975年4月に招聘し、集会所の完成を待って教会学校香川分校を開き、1976年1月には、主日夕礼拝を、6月には主日朝礼拝を始めて、伝道所開設を目指しました。
 1978年(昭和53年)4月2日、当時169名いた茅ヶ崎教会員のうち、27名(1週間後に2名追加)を株分けする形で、白戸清伝道師を主任担任教師とする、茅ヶ崎香川伝道所(現在の茅ヶ崎香川教会)を開設しました。1967年に開拓伝道を志してから11年後の初穂でした。なお、白戸清牧師は、茅ヶ崎香川教会で14年働かれ、現在、野辺地教会を牧しておられます。

[2つ目の教会を生み出すまでの15年間]
  1977年9月には、手造りの茅ヶ崎教会の会堂に、鐘塔を建設する工事を始め、茅ヶ崎香川伝道所に転籍した信徒も労働奉仕に加わり、16か月で完成、さらに1年後の1979年12月から、礼拝への招きを告げる鐘の音が、中海岸の住宅街に響き渡り続けています。
 1982年4月、茅ケ崎教会の5人目の神学生として、柳田剛行が農村伝道神学校に入学(卒業後、和田山地の塩伝道所、所沢みくに教会、橋本教会、台湾基督長老教会国際日語教会等を経て、現在、見附教会在任)しました。
 1983年8月、4年後の教会創立60周年に向け、更なる飛躍を目指して、60周年記念事業準備委員会を組織し、次なる開拓伝道等のための資金積立を含む長期計画の検討を始めました。
 1987年11月1日、創立60周年記念礼拝・式典を行い、木下牧師の説教集「主がふたたび来り給う日まで」と「茅ヶ崎教会六十年史」を刊行しました。
 1989年1月、茅ヶ崎教会員として天に召された信徒のご遺族から土地の寄贈の申出を受けた木下牧師は、《開拓伝道(南湖・柳島方面)の開始と、主任牧師の一年後の交代について》という決意表明を、役員会に提示し、4月の教会総会はそれを受け入れました。
 1991年4月、柏木英雄牧師(前・大館教会牧師)を主任担任教師に迎え、木下牧師は担任教師として、会堂建築予定地に近い施設を借りての主日礼拝や諸集会を担当すると共に、会堂建築(総額6500万円)に着手し、1992年3月に献堂式が行われました。
 1993年(平成5年)4月11日、当時160名いた茅ヶ崎教会員のうち、29名を株分けする形で、木下芳次牧師を主任担任教師とする、茅ヶ崎南湖伝道所(現在の茅ヶ崎南湖教会)を開設しました。

[その後、現在に至るまでの歩み]
  手造りの会堂を献堂してから、29年間に2つの教会を生み出し、合わせて58名の教会員を送り出した茅ヶ崎教会は、教会員数110名余、礼拝出席数60名程度の、一回り小さくなった教会として歩み始めました。このころから、日本の社会現象の一つである少子化、高齢化の波が、少しずつ茅ヶ崎教会にも押し寄せてきました。教会学校の生徒が漸減し、体力的に礼拝に出席できなくなる高齢者が目立ち始めました。
  1998年3月、柏木牧師が辞任し、後任牧師が得られないまま、当教会出身の岡崎晃牧師(当時は神奈川教区巡回教師)に代務者をお願いし、高戸竹二牧師、気仙三一牧師、小林利夫牧師等の応援を得て、2年間の無牧期間を乗り切りました。
 2000年4月、老朽化した牧師館を建て直すと共に、盛谷祐三牧師(前・長崎平和記念教会牧師)を迎えました。高齢化の影響などに歯止めがかからず、教会員数も100名程度、礼拝出席数も50名程度となりました。青年層を意識した伝道活動などを展開しましたが、すぐに結果が出るものではありません。
 2007年3月に盛谷牧師が辞任し、4月に櫻井重宣牧師(前・広島教会牧師) を迎えました。10月28日に創立80周年記念礼拝をささげ、教会の使命を再確認し、次なる一歩を踏み出しました。
 2007年9月に、1948年5月に創刊され、すでにNo685に至った茅ヶ崎教会月報に加えて、伝道媒体としての月刊「よきおとずれ」を創刊、2008年7月には、教会ホームページを開設しました。

 預言者イザヤは、
  若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
  主に望みをおく人は新たな力を得
  鷲のように翼を張って上る。
  走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
       (イザヤ書40章30、31)

と語っています。
 茅ヶ崎教会は、これからも、説教と聖礼典に基づく主日礼拝を重視し、合同教会である日本基督教団の教会として、主イエスの愛を実践する教会として、地域への宣教に取り組んで行きます。