2012.10.21

秋の伝道礼拝説教

「しんがりに立つ主イエス」

櫻井重宣牧師

出エジプト記32:30〜35 
          ルカによる福音書23:32〜43 

 

   わたしは30代から40代にかけて21年の間、秋田の教会で奉仕しました。この秋田時代に、多くの先輩の牧師にご指導頂きました。その一人、瀬谷重治という先生はわたしたち若い牧師に、聖書は頭だけで読むものではない、体全体で読むように、とくに足で読むようにと繰り返しおっしゃってくださいました。  
 瀬谷先生は秋田の横手という町の出身で、神学校を卒業後、故卿に戻り、秋田県の県南を中心に50年以上伝道に励んだ牧師です。先生の毎日は「朝8時に弁当を持って訪問に出かけ、野原で弁当を食べ、そして午後も伝道、夜は集会、帰宅してから勉強」でした。先生には『十字架を負いて我に従え』という著書がありますが、まさに足で聖書を読んだイエス伝です。
 わたしは中学生の頃から瀬谷先生に励まされた者ですが、いつも、今は天国におられる瀬谷先生から、お前は足で聖書を読んでいるか、足で聖書を読み、何が分かり、何を伝えようとしているか、そのことを問われるような思いをしています。
 今日の礼拝の説教題を「しんがりに立つ主イエス」としましたが、このテーマは、わたしが牧師になって40数年、足で聖書を読んで、心に深く教えられたことの一つです。そしてイエスさまがしんがりに立ってくださるので、牧師であるわたしもしんがりに立たなければならないことを思わされ、今日まで歩んで参りました。

 最初に、どうしてイエスさまがしんがりに立っておられる、そのことを心に深く刻むにいたったのか、ということをお話ししたいのですが、秋田におりますとき、20年近く教会の方々と太平山という標高1171メートルの山に登っていました。教会で大平山に登ろうということは、教会の青年会のメンバーで、大学の山岳部に属していた人から提案されました。わたしは山登りの経験がないので、不安でしたが、山岳部の青年たちに励まされて実施しました。毎年のように、5歳、6歳の子どもから60代位の人まで20人位参加しました。
 最初の年に、リーダーの青年がふもとから、さあ登ろうというとき、こういうことを語りました。これから頂上を目指して登ります。山登りのとき、リーダーは二人います。一人は先頭のリーダーで、今日は僕がなります。今日はこうして小さい人から60代の人まで参加しているので、体力ということからいうと差があります。先頭のリーダーは今日参加している人の中で一番弱い人がゴールを目指すことができるようなペースで登ります。どんなに元気な人も自分より先に行ってはなりません。もう一人はしんがりのリーダーです。どんなに先頭のリーダーが、みんなが登れるようなペースで登っても差ができ、遅れる人が出てきます。しんがりのリーダーは、だれかが遅れたなら待っています。少し休んでいきましょう、少し喉をうるおしましょう、と声をかけ、どうしても荷物が重すぎるときは、しんがりのリーダーがその人の荷を持ちます。だれもしんがりのリーダーより後を歩くことはできません。頂上に最後につくのはしんがりのリーダーです。どんなに時間がかかっても頂上で、みんなそろってお弁当を食べましょう。降りるときも先頭のリーダー、しんがりのリーダーが立ちます。先頭のリーダーとしんがりのリーダーの間を皆さんは歩くのです。そのことを約束してください、と言いました。
 そして頂上を目指して登り始めたのですが、登山に先立って彼が言ったことは本当に大切なことだということがよく分かりました。それから毎年、登山の前に、今年の先頭のリーダーはだれ、しんがりのリーダーはだれ、ということを決めてから登山しました。

 実は、イエスさまのお生まれになる前のことが旧約聖書に記されていますが、旧約の人々が経験した二つの大きな旅があります。一つはイエスさまがお生まれになる千数百年前の出エジプトという出来事です。エジプトで奴隷状態を強いられていたイスラエルの民がモーセに率いられ、エジプトを脱出し40年の間荒れ野を旅し、約束の地カナンを目指した旅です。もう一つはイエスさまがお生まれになる五百数十年前ですが、エルサレムから千キロ以上遠く離れたバビロンに捕虜として連れてこられていたイスラエルの民が、ペルシャの王さまによって解放され、50年ぶりにエルサレムに戻るときの旅です。
 そして、この二つの旅いずれにも、先頭にも、しんがりにも神さまがおられるということが記されているのです。わたしは太平山登山を20年近く続けて、だれかが歩みが遅くなっても、疲れて少し休まざるをえなくても、しんがりのリーダーはけっしてその人をおいてけぼりにしない方だということを体全体で知ることができたのですが、聖書が語ることは、まさにそのことです。神さまは私たちの人生という旅において、あるときは先頭に、あるときはしんがりとなって導いてくださいます。どんなに疲れても、弱っても、間違いを犯しても、あなたはもうだめだ、おいてけぼりにする、とおっしゃらないで、抱え込んでゴールまで導いてくださる、そのことを語っています。

 もう少していねいにみていきましょう。先程、出エジプト記32章の30節以下をお読み頂いたのですが、少し前のところからお話ししますと、こういうことが記されていました。
 イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷状態で苦しんでいたとき、神さまはモーセに民を率いてエジプトを脱出せよ、という使命をお与えになりました。そのとき、神さまはモーセにこういう約束をされました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」、と。そしてあなたを遣わした神さまはどういう方か、と問われたとき、「わたしはある、わたしはある」という方がわたしを遣わした、と言いなさい、と。「わたしはある」というのは、どんなときにも、どんなところでも一緒にいる、ひとりぼっちにしない、ということです。
 モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出しようとしたのですが、エジプト王さまはなかなか赦しませんでした。ようやく脱出した後、神さまは、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださいました。「昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」と記されています。
  けれども、まもなくエジプトの軍隊が追いかけてきました。後はエジプトの軍隊、前方は海、紅海です。そのときです。「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろに行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った」というのです。先頭にいた雲の柱がしんがりに移動したのです。その後の40年の旅も、あるときは先頭に、あるときはしんがりにたって、神さまはイスラエルの民を導かれたのです。
 そして今日の32章になるわけですが、モーセがシナイ山で、十の戒め、十戒を与えられているとき、モーセが山からなかなか下りて来ないので、不安になった民がモーセの兄アロンに「さあ、我々に先立って進む神さまを造ってください。エジプトから我々を導いたあのモーセがどうなってしまったか分からないからです」と言いました。人々の関心は、自分たちに先立って進む神さまです。しんがりに立つ神さまに思いがいきません。こうした願いを受けたアロンは、彼らの妻、息子、娘らが着けていた金の耳輪をはずして持ってこさせ、それで金の牛の像を造りました。そして、アロンは、これこそあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ、と言いました。それから金の牛の像の前に祭壇を築き、その前で飲み食いし、大騒ぎが始まりました。
 大騒ぎが始まってすぐ、神さまはモーセに、イスラエルの民が金の牛の像を造って大騒ぎをしているので、直ちに山を下りなさい、とおっしゃいました。モーセにそのことを命じられた神さまは、このとき、こうした民を滅ぼすとおっしゃいました。モーセは山を下りる前、神さまをなだめ、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください、と願ったのです。
 モーセが急いで山から下りて見た光景は金の牛の像の前で歌ったり踊ったりする民の姿でした。エジプト脱出以来、苦労を重ねてきたモーセは大きな衝撃を受け、十戒が記された石の板を投げつけ、砕いてしまいました。
 その次の日です。前の日、自らの感情をおさえることができなかったモーセが神さまに祈りました。今日読んで頂いた箇所です。
 「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば--------。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」、と。
 モーセは命をかけ、必死の思いでイスラエルの民を導いてきました。それだけに、こうした大きな過ちを犯した民を、自分の名前が神さまのノートから消されてもよいですから、民をお赦しください、と祈ったのです。神さまのノートから名前が消されてもというのは、自分が呪われても、裁かれてもいいですからイスラエルの民を救ってください、という祈りです。
 国語の辞書で「しんがり」という言葉の説明の一つに、「軍がしりぞくとき、あとに踏みとどまって追撃をふせぐ軍勢」とあります。自分がしんがりとなってみんなを守るのがしんがりです。「しんがり」は日本語で「殿」と書きます。しんがりに踏みとどまって部下を一人のこらず守るのが「殿」です。
 実際に、モーセはこの後、約束の地を目指して40年間旅を続けたのですが、約束の地を山の上から望み見ることは赦されるのですが、約束の地に足を踏み入れることはできませんでした。イスラエルの罪を背負ったゆえです。神さまはエジプトを脱出し、約束の地までの40年の旅をあるときは先頭に立つと同時にしんがりをつとめてくださいました。その旅のリーダーを委ねられたモーセは先頭に立つリーダーであるとともにしんがりを務め、民の罪を背負い、約束の地を前に死んでいったのです。

   今一つ、旧約の大きな旅はイエスさまのお生まれになる五百数十年前、およそ50年近くバビロンに捕虜になっていたイスラエルの民がエルサレムに帰る旅です。50年もバビロンで生活していたので、バビロンで亡くなった人も数多くいましたが、エルサレムに帰ろうとする人々の中には高齢になった人、病気の人、幼い子どももいました。旅の不安を覚える人々がいたのです。この旅のリーダーを務めたのは、イザヤ書40章から55章を書き記した預言者です。名前が分かりませんので、便宜的に第二イザヤと呼んでいますが、こういうことを語っています。
 「しかし、急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。
  あなたたちの先を進むのは主であり、
 しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」

 先を進むのも、しんがりを守るのも神さまだ、だからあわてなくていい、というのです。そして、第二イザヤという預言者は、このことを語った直後に、わたしたちの待っているメシアは、わたしたちの病を、痛みを負い、わたしたちの背きのため、咎のため打ち砕かれる方だ、しんがりをつとめてくださるのはそういう方だ、というのです。
 すなわち、旧約聖書が語ることは、神さまは私たちが人生という旅を歩むとき、先頭にもしんがりにも立ってくださる、そして、しんがりに立ってくださるということは、弱った人、疲れた人、病気の人、罪を犯した人をしっかりと抱え込んでゴールを目指す、そしてモーセのように自分はゴールインできなくてもみんなをゴールさせる方なのです。旧約の預言者ですから、神さまはわたしたちの世界に救い主・メシアを送ってくださるので、その到来を待ち望もうと語るのですが、その救い主は先頭に立つだけでなくしんがりを務めてくださる方だ、と預言したのです。

   先程、もう一か所、ルカによる福音書23章32節から43節をお読み頂きました。イエスさまが十字架につけられた時のことです。あの日、ゴルゴタの丘に三本の十字架が立てられました。二人の犯罪人がイエスさまと一緒に十字架に架けられました。真ん中の十字架にイエスさまが、一人の犯罪人がイエスさまの右の十字架に、もう一人の犯罪人がイエスさまの左の十字架に架けられました。
 そのときイエスさまはこうおっしゃいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いてイエスさまの服を分け合っていました。民衆は立って見つめていました。議員たちは、イエスさまをあざ笑って、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、と言いました。兵士たちはイエスさまに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」、と言いました。イエスさまの頭の上には「ユダヤ人の王」と書いた札が掲げられました。十字架のイエスさまを取り巻く人々は、苦しみの極みにあるイエスさまを嘲り続けました。それだけではありません。イエスさまと一緒に十字架に架けられた犯罪人の一人もイエスさまをののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」、と。もう一人の犯罪人は彼をたしなめました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、この犯罪人はイエスさまに「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」、と言いました。そうしますと、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃったのです。
 十字架を取り巻く人がみんなイエスさまを嘲っているのですが、ただ一人だけ、すなわちイエスさまと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人だけが、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」といって、ののしるもう一人の犯罪人をたしなめています。
 わたしたちが今朝皆さんと御一緒に心に留めたいことは、この日、ゴルゴタの丘の上に三本十字架が立てられたわけですが、真ん中はイエスさま、右、左は犯罪人です。この二人のうち一方はののしり、一方はたしなめています。大切なことは、二人の違いに目を留めること以上に、イエスさまはこの二人と最後まで十字架の苦しみを共にしておられることです。十字架のイエスさまは、十字架を取り巻き、嘲る人、もっというなら世界中のすべての人のため、「彼らをお赦しください」と祈られると共に、最後は一緒に十字架につけられた人のためにも祈っておられるのです。しんがりに立つイエスさまは、ののしる犯罪人のためにもイエスさまが祈っておられるということです。
 十字架に架かってまで、最後の一人に至るまでその人のために祈り、その人の弱さ、罪に責任をとり、責任を回避されない方がイエスさまです。山登りのしんがりのリーダーが最後に頂上に着くように、イエスさまはどの人をも神の国に導き入れるために十字架の苦しみを受けられたのです。

 
 今日、わたしたちはどの分野でも、出口の見えないような苦しみのただ中にいますが、イエスさまはどの分野においても、苦しむすべての人の苦しみを最後の最後まで共にしてくださる、そういう方だということを聖書から教えられたいと願うものです。 20年間続けた大平山登山でしんがりのリーダーの大切さを教えられたものとして、イエスさまがわたしたちのしんがりのリーダーとなっておられるということは、神さまの国を目指しての旅を続けるわたしたちに、どんなときにもあなたと一緒に歩むので、安心していい、心配しなくていい、大丈夫だという神さまからのメッセージです。慰めに満ちたメッセージです。

(2012年 10月21日 秋の特別伝道礼拝説教)