2011.7.10

春の伝道礼拝説教(要旨)

「人は何で生きるか」

棟居 勇牧師

創世記1:1〜5 
          マタイ福音書4:1〜11

 
 私たちは「人間」です。しかし、物を食べて生きていれば「人間」だとは言えないことは誰にでも分かることです。「人間」であるというのは、どういうことか。「人間として生きる」とはどういうことか。マタイ福音書4章に記された「荒野の誘惑」の記事に学びましょう。

 この「荒野の誘惑」の出来事は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、「神の子、救い主」の自覚を明確にされた後、その意味を確認するための出来事であったと考えられます。神の子、救い主である主固有の試練ですが、そこで主が出された答えが、「人間とは何か」「人間が人間として生きるのは何によるのか」を明らかにしたのです。
 40日に亘る断食による空腹の中で、「人間にとって根源的なものは何か」「人間を人間とするものは何か」を、主は沈思黙考、究極まで吟味されました。それは、「ローマの支配からの解放」をひたすら求めていた当時のユダヤ民衆の「メシア待望」に応えることが「神の子・救い主」の使命ではないかを、主が真剣に考えられた結果でした。政治的解放に伴う経済的解放が、ユダヤ民衆にとってどれだけ求められていたか、主ご自身がご自分の若き日からの生活においてつぶさに経験し、身に沁みてよく知っておられたからでした。
 「目の前の石をパンに変えたらどうか」という悪魔の誘いに対し、しかし、主は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との聖書の言葉(申命記8:3)をもって断固答えられたのです。物を食べなければ人間は死にます。経済的生活は不可欠です。しかしなお、それよりも根源的なものがある。それは「神の言葉」、神との霊的な、命の交わりです。人間が人間たるところが、そこにあるのです。人間が神の形に造られた(創世記1:26、27)、土くれに神の息が吹き込まれて人間となった(同2:7)ということの意味がそこにあります。この真理の実証とも言うべき出来事が歴史の中で見られました。
 第二次大戦中ドイツ、ポーランド国内各地に設けられた強制収容所で、収容者たちが経験したことです(V.フランクル『夜と霧』)。一日一食の僅かな食事、昼間は強制労働の過酷な環境に置かれた収容者たち、もちろん多くの人々が飢えと過労で死んでいきました。しかし、その中でなお、人間の尊厳を失わなかった人々がいたのです。飢えて死のうとしている仲間に手にする自分のパンを与える人、疲労 困憊している仲間に励ましの言葉を投げかける者、そういう光景があちこちで見られました。それは、故郷で自分の帰りを待っていてくれる、夫、妻、家族、恋人という希望を持っている人々でした。そして、究極的な希望は、神でした。・・・しかし、その希望が失われる時(妻や恋人が別な男性と結婚したというようなことが聞こえてくると)、その人は内部から崩壊して、自ら死を選んでいったと言います。この強制収容所での人々の経験は、人間実存の深層、究極が何であるか、を明らかにしています。

 私が関わりを続けているハンセン病を患った人々も、同じことを証ししています。「未曾有の人権侵害」と言われるわが国の「終生強制隔離」のハンセン病施策の中で、キリストの福音に接して「人間」を回復し、過酷な環境の中を生きぬいて、「人間とは何か」を私たちに示してくれたのです。国の施策として、また社会全体が寄ってたかってと言っていいような形で社会から捨て去り、葬り去った人々です。そして、「大丈夫ですよ」などと間違っても言えない時間を療養所の中で過ごしてこられたのです。しかし、その中で人間を獲得し、人間として生きてきたのです。私は、聖書の神との霊的な、命の交わりが人間をほんとうの意味で「人間」とするということを、この人々から深く学んだのでした。

   

(2011年 7月10日 特別伝道礼拝説教)