2009.10.18

春の伝道礼拝説教

「あなたの若い日に」

小友 聡牧師

コヘレトの言葉12:1〜8 
          マルコ福音書13:32〜37

 
 茅ヶ崎教会の礼拝に招かれまして、教会の皆様ともに礼拝に与かる恵みを心から感謝します。皆さんの中には、今日初めて礼拝にお出でになった方もおられるかも知れません。そういう方々と共に聖書の御言葉に聞きたいと思います。今日、私たちに与えられておりますのは、旧約聖書のコヘレトの言葉12章です。そこに「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」という言葉が書かれています。この言葉は、恐らく多くの皆さんが知っている御言葉ではないかと思います。以前の口語訳聖書では「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」となっていました。「コヘレトの言葉」と言えば、すぐ「あの言葉だ」と心に浮かんでくる有名な言葉だと思います。

  そのように有名な言葉ですけれども、この言葉の後に続くところをよく読んでみたいのです。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」の直後には、実はこう書いてあります。「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」。ここには、とても意外なことが書いてあります。といいますのも、青春の日々に創造主なる神を知れば、年をとった時にきっと幸福になれる。だから、青春の日々のうちに神を知っておけ。もしそのように書いてあれば、皆さんは「ああ、なるほど」と思うに違いありません。けれども、そうではないのです。むしろ、年を重ねていくとだんだん喜びや楽しみが失せていく。苦しみが増してくる。だから、若いうちに神を知れ、と書いてあるのです。
 これは、皮肉を書いているのでしょうか。皆さんも皮肉だとお考えになるでしょうか。けれども、そうではありません。というのも、このあと12章の3節から7節まで、とっても不思議な詩が書かれてあるのです。読んでみましょう。
 「家を守る男は震え、力ある男も身を屈める。粉引く女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。・・・」。
 これはすべて比喩的な表現で書かれています。ちょっとわかりにくいかも知れませんが、「家を守る男は震え」というのはどういうことかと言いますと、実は、体が衰えて膝ががくがく震えてくることです。「力ある男も身を屈める」というのは、腰が曲ってくることです。「粉引く女の数は減って行き、失われ」とは、歯が抜けていくことです。「窓から眺める女の目はかすむ」というのは、視力が衰え、白内障になって見えにくくなること。つまり、これは、年をとって人はだんだん体が衰えていく。その様子を比喩的に書いているわけです。そのあとには、はっきりとこう記されます。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」。つまり、人間はそのようにして、体が衰え、人生を終えるのだ、というのです。

   「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」。この言葉は、若き日々に創造主である神様を覚えることによって、幸福な将来が約束されるということを語るのでは必ずしもありません。そうではなくて、この聖書の言葉は実はもっと深いところを見つめているのです。人間は誰もが皆、年をとると、だんだん体が衰え、苦しい経験をし、最後は生涯を終えます。聖書は、とってもやりきれない、希望も明るさもない、どうしようもないこの「死に行く」人間の終わりをじっと見詰めているのです。実際、コヘレトの言葉には、「空しい」という言葉が実に38回も繰り返されます。いったいなんでこんな暗いことが聖書には書いてあるのかと私たちは思うに違いありません。
 けれども、ここが決定的に大事なところなのです。このコヘレトの言葉、聖書の御言葉は、人間が死ぬという非常にリアルな空しい現実をじっと見詰めていますが、けれども、そこから決して否定的な結論を出しません。人間は結局は死ぬのだから、どうせ何をしたって無駄だ、人生は無意味だ、という結論を決して出さないのです。むしろ、全くその逆を教えるのです。死という暗闇に向かっているからこそ、今という時が永遠でかけがえのない時であることに気づかされるではないか、と言っているのです。終わりが近づけば近づくほど、逆に、残された時間は永遠化するのです。これは難しい神学的な議論ではありません。私たち誰もがそのことを経験してきたはずです。例えば、愛する人と最後の別れをする時です。もう二度と会えない、その地上での最後の別れは、たった一瞬であっても、それは永遠に消えない思い出として私たちに残るのではないでしょうか。一瞬だからこそ、その「時」が私たちにとってかけがえのないものとなる。永遠化するのです。コヘレトの言葉3章11節には、こういうことが書いてあります。「神は、すべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」神のなさる業はとうてい人間には見極めることができない。けれども、その一瞬の輝きにおいて永遠を思う心が私たちに与えられている、というのです。

 逆説的な論理です。人間は死に向かっているからこそ、逆に、今という、生きている時が何よりも大切になるのです。終わりがあるからこそ、人生には意味があるのだということです。青春の日々は楽しいことだらけではありません。青春の日々も空しいことがたくさんあります。けれども、死という終わりを見つめる時、今この生きている、生かされている一瞬の時が輝いてくるのです。そして、そのような掛け替えのない「時」を私たちのためにお造りになった創造主なる神様がおられる、ということに私たちははっと気づかされる。それだから、青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ、と書いてあるのです。
 コヘレトの言葉は実に不思議な論理で書かれています。そして、このことこそ、実はマルコ福音書13章32−37節に記されていることと関係しているのです。マルコ13章は終末の予告が記されているところです。そこでは、主人が旅に出て、僕にあとを任せるという喩えが書いてあります。忠実な僕は主人がいつ帰ってきてもいいように、精一杯、務めを果たすのです。主人が帰ってくる、とは主イエスがもう一度この地上にお出でになる再臨の時、すなわち終末の日を示しています。それは私たちにとっては人生の終わりの時を意味します。その終末の日に備えて、僕は精一杯、地上での自分の務めを果たすのです。今、この時を決して無駄にはしない。主イエスから委ねられている「生きる」という務めを忠実に果たすのです。このように、終わりの日を目前にして、生きるという与えられた務めを精一杯果たす、ということ。それがキリストの僕たる者に求められる生き方だ、ということがわかります。

 黒沢明監督の古い映画に「生きる」という映画があります。ある役所に勤める男が定年前に、ふとしたきっかけで自分が末期癌に冒されていることを知るのです。彼はまったく無気力な役人でした。住民が公園を造ってほしいと持ってきた嘆願書も、面倒くさいと握りつぶしていました。けれども、自分の命が短いことを知って、この役人は夢中になって公園建設に奔走するのです。そして、ついに完成した公園のブランコに乗って、彼は満面の笑顔で歌を歌いました。命短し、恋せよ乙女。ゴンドラの歌です。これはおなじみの映画のストーリーです。けれども、これが、実は、聖書が私たちに強く勧める生き方です。これは私たちの福音理解に直結します。宗教改革者マルチン・ルターも同じことを言いました。それはこういう言葉です。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」。明日、世の終わりが来るかも知れません。そうだとすれば、リンゴの木を植えることは全く無意味になってしまいます。けれども、ルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」と言うのです。たとえ明日が終わりでも、今日という日を決して無駄にはしない。決して悲観的にならない。決して投げ出さないのです。なぜなら、神様がこの私という人間をお造りになり、この私を救うために独り子イエス・キリストを遣わし、十字架に引き渡されたからです。だから、私たちは神様から与えられた「生きる」という責任を放棄しないのです。投げ出さないのです。これがキリスト教の生き方です。
 三浦綾子さんというクリスチャンの小説家がおりました。晩年、三浦さんはパーキンソン病が進行して、寝たきりになりました。小説を書くどころか、家族の世話にならなければ何一つできなくなりました。私たちならば、もう自分はだめだ、何の役にも立たない、ただ死んでいくだけだ、と悲観的になるところです。けれども、三浦さんは「私にはまだ死ぬという、神様から与えられた仕事がある」と言われました。自分に残された時間を最後まで生きる責任があるのです。神様はそれを私たちに望んでおられます。神様から与えられた自分の時を生きる責任が私たちにはあるのです。
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とはこういう生き方を選び取っていくことです。この言葉は若い人たちだけに語られたのではありません。今日、この茅ヶ崎教会に集う私たちすべてに向けて語られている言葉なのです。涙を拭いて前に向かって歩んで行く、そのように前向きに生きるように、今日、主イエスキリストは私たちに語りかけてくださいます。教会は、その主イエスの慰めを毎週、みんなで聞き取って、一緒に歩む共同体です。主イエスは終わりの日に私たちの涙をすべて拭い取ってくださいます。その主が、今日も私たちを導いて下さいます。このお方を信じて、ここから歩み出したいと思います。

   

(2010年 6月20日 春の特別伝道礼拝説教)