2008.6.15

「見ないで信じる人」

大森清一牧師

エレミヤ書4:18〜19
          ヨハネ福音書20:19〜29

 ヨハネによる福音書は主イエス・キリストの復活をわかりやすく伝えております。
 週の初めの日の夕方、今の日曜日の夕方のことです。弟子たちは、自分達も捕えられて殺されてしまうかもわかりません。ユダヤ人たちを恐れて家の鍵をかけてかくれていました。イエス・キリストが十字架につけられ殺されてしまいました。主は人々の病気を治し、神の正しい教えを人々に語りました。弟子たちは主と3年間も一緒でした。驚くべき方と尊敬し、全幅の信頼をおいて従ってきました。それなのに殺されてしまいました。
 今、真っ暗闇の中に置かれています。そこへイエスご自身が現われ、真中にお立ちになりました。「あなたたちに平和があるように・・・」と言われました。慰めに満ちたおだやかな言葉です。「さあ、わたしの手とわき腹を見てごらん」と言われました。
 闇が光に変わりました。恐怖が安心に変わりました。イエスは死から復活して、今、目の前におられます。まず、神の主権、神の計画が先にあることを知らされます。主の復活はその現われです。それが恐怖から喜びに変えられました。永遠の真理として心に突き刺さりました。恐怖が吹き払われ真理が立つのです。心の目が開かれ真理を見ました。信じる心がわいてきました。
 主イエスは「平安、汝にあれ」と言われ、いよいよ中心の中心、確信の確信を契約させます。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。われも汝らを遣わす。ここにわれわれは立たされ、あかし人として生かされていきます。その主権と先導者は聖霊です。聖霊を受けよ。
罪深き人間の死が、主イエス・キリストの十字架によって赦され復活が与えられました。罪の赦しの根拠を賜わりました。主は、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は許される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 聖霊により頼みひたすら祈りなさいと教えられました。人に罪を赦す権限などありません。聖霊だけが真理であり、真実であります。聖霊だけが罪を赦します。私たちは神に祈る者とさせられました。祈る以外何が出来ましょうか。罪の執り成しの祈りが命令されました。

 その場に、トマスがいませんでした。トマスは皆の言葉を聞いて反発しました。主イエスのお体の傷跡を見ない限り決して信じない。
トマスははからずも疑り深い、信じようとしない多くの人々にわかるように実験台にさせられました。死んだ人が生きかえってくるものか、そんなこととても信じられない。一週間が過ぎました。その間にも、主イエスが甦った事実が伝わっていたと思われます。弟子達もトマスもいたとき、主が現われました。「トマス、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい。」
 これは深い深い教えです。わざわざトマスの不信仰のために、その後ろにいる無数の人々に信じるチャンスを作ってくださいました。信じられない一生も人生、信じて生きる一生もまた人生。ただ一回限り、ただ一度だけ、この地上に生をいただけるのです。尊い厳粛な人生です。主イエスのご配慮の深さに身が震えます。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。私が主人ではなく、主が、神がわたしの主人です。わたしは僕にしかすぎません。イエスはなおも言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者はさいわいである。」
 目で見て手で触って確かめた上でこれは間違いなし、これは確認です。本体がなければ確認のしようがありません。主イエスはやがて神の右に座します。われわれの目から見えなくなります。確認できなくなります。
 人間の死に、主は復活をもって答を下さいました。答がある以上、答をいただけるよう求めなくてはなりません。ここに人生は答を求めてもがき苦しむように出来ているわけです。闇が用意され、道無き道を求めなくてはなりません。  

 目に見えるすべて、人間も含めて、やがて朽ちていきます。初めがあれば終わりがあります。見える物の裏側は無であります。朽ち、失われ、消え行くものであります。目には見えない主の復活は真理であり、永遠に尽きることがありません。見えないのに主の復活を信じる人は幸いをいただきます。神が愛であることを信じるからです。イエスが十字架にかかられ、その血の代価で私の罪の身代わりになってくださったからです。
 こんな取るに足りない、価値なき卑しい者のために、こんなに大きな犠牲を払ってくださる方がおられた。何という大きな愛でしょうか。この愛を裏切ったらいけません。この方を悲しませてはいけません。神とイエス・キリストと聖霊を信じる人は幸いを賜わります。連帯、調和、一致、結びつき、この恵みは大きく、金では買えません。神は貧しい者を愛し、幸いを与えられます。
 聖餐式の示す深い愛は、信仰によっていただくのではないでしょうか。洗礼は聖霊のおとりつぎがなければ、信仰が心に突き刺さらなければいただけないものではないでしょうか。神の主権を侵すこと、神を悲しませるようなことは慎みたいものです。
 パウロが苦しみの中で、「ああ、我悩める人なるかな。この死の体より我を救わん者は誰ぞ」と叫びました。
 宗教改革者マルティン・ルターは、わが罪の恐ろしさに神の怒りと裁きを身に受け、苦悩し、信仰によってのみ義とされ罪の赦しを受けました。
 十字架の苦しみにあずからない聖餐式があるでしょうか。私たちは聖餐式を重んじ、聖霊の助けによって、神の礼拝堂を稲敷の地に建てさせて下さいと数人の礼拝を守り、祈っています。神に祈れることはなんと幸いなことであるか、日々示されています。

〔祈  り〕
 父なる神様、貧しい者が御言葉を、聖霊をいただいて証をしました。この世の悲しい事件に、被害に遭われた家族は泣いております。あまりにも事件が多すぎます。サタンに対抗して祈りによって戦わなくてはいけません。弱き足を一足一足導いてください。茅ケ崎教会の上に、諸教会の上に平和がありますように。幸いを賜わり感謝します。
 主イエス・キリストの聖名によって祈ります。

(2008年6月15日 春の特別伝道礼拝説教)