2007.6.17

「起き上がりなさい」

新約聖書:ヨハネ5:1−18

四竃揚牧師

§1,初めに

   茅ヶ崎教会の特別伝道礼拝にお招きを頂きまして心から感謝すると共に教会の交わりの不思議さを思っています。
私がお招きを受けたのは盛谷先生が辞任されることになり、長老会でお決めになったことですし、その切っ掛けになった 秋山晃三さんとの出会いも不思議でしたし、吉野良枝さんからも丁寧なお手紙を頂きました。
盛谷先生の後任として桜井先生が赴任されることを後で聞いてまた吃驚しました。秋田でも良い働きをされ、 広島教会では特に素晴らしいお働きをされた桜井牧師とは長いお交わりを頂いている本当に信頼できる先生だったからです。
説教の前にこんなお話しをしているときりがありませんので後の時間に廻して早速今朝のみ言葉に聞きたいと思います。

  §2、ベトザタの池の物語

  ここにはベトザタという池のことが出てきます。ベトザタというのは「憐れみの家」という意味ですが、この池には多くの病人が集まり いやされるのを待っていました。現在このベトザタの場所は発掘によって明らかにされています。尤もエルサレムの町は度重なる破壊と 復興の繰り返しのために主イエスの時代よりも地表はずっと高くなっていますから現在では地表から数メートルも下の方になっています。 1辺が50m位の長方形の池が2つ相接しています。上から見ると丁度漢字の「日」という形になっています。従って4辺と真ん中に5つの 回廊があったことが頷けます。回廊は定めし急ごしらえの収容棟か、仮設病院の様なものだったのでしょう。大勢の病気の人、目の見えな い人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが横たわっていた、と記されています。
 4節は「十字架」の形をしたマーク(アステリスク・マーク)が付いていてこの節は異本にあることが解ります。ヨハネの巻末(p.212) を見ると次のような文章がある異本が示されています。「彼らは水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が 動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても癒されたからである。」という文章です。これはア レキサンドリア写本と後代のギリシャ語の写本にしかないために後代の挿入句として新共同訳聖書では巻末に注として入れているのです。 以前の口語訳聖書では本文の中にかっこで囲まれていました。大勢の病気の人がベトサダの池に畔に集まっていたのはこのような理由から でした、と言う後代の注というわけです。恐らくこの池はいわゆる「間歇泉」だったと考えられています。
cf、間歇温泉  別府、箱根、諏訪湖のほとり (要説明)
 問題は〈水の動くときに真っ先に入るものだけがどんな病気にかかっていても癒された。〉とあることです。本当にそうならこれは写真 判定にでもよらなければ誰が真っ先か解りません。もしも水の成分が水が湧いてきたときに一番効き目があるのだとすれば同じ時間に入っ たものはみんな治ることになります。「水が動いたときに真っ先に入ったから癒された」というような人が実際にいればその人は最初に飛 び込むほど元気な人だったわけで治ったのは半分以上心理的なものだったとさえ言いきることが出来るでしょう。いずれにしても病人の群 がっているいたわり合うべきところで「我先に」とまさに弱肉強食の社会が現出しているのです。真っ先に入るものだけがどんな病気にか かっていても癒される、という言い伝えははっきり迷信だといえます。しかしながら私たちはこのような状態を直ぐに迷信だと言って切り 捨てることが出来るでしょうか。2千年前のエルサレムだからこのような迷信は成り立っていたのでしょうか。

 現在の日本でも例えば学歴主義というのがあります。大企業主義というのもあります。 あの学校に入りさえすれば将来は保証される、あの会社に入れさえすれば幸せになれる、などと日本の多くの人が思っているのではないで しょうか、何と言っても良い学校に入らねばだめだ、よい大学に入れさえすればすべての幸福も掴めると思っている人がいます。一番にな りさえすればどんな幸せも掴むことが出来る。(よい学校、よい企業、よい結婚)他の人を出し抜いてその栄冠を得るために多くの人は血 眼になっています。ベトサダの池の状況と同じです。
 問題は学校に入るかどうか、会社に就職するかどうかではなくて結局はその人がどう生きるか、という問題であるはずなのに、学校とか 会社とか銀行とかその名前に振り回されているとすればこのベテスダの池のほとりにいた病人と余り変わらないことになるのではないでし ょうか。

§3、主が声をかけられた人

 さてそこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。聖書はそのように語ります、38年と言えば決して短くはありません。コドモの時病 気になったとすればもう50才近い人です、青年時代とすれば還暦くらいの人です。人生の大半をこのベテスダの池の畔にいたことになり ます。ひょっとするとベテスダの池のほとりにいる人の中では一番長くそこにいる人だったかも知れません。もっとも年月というのは相対 的ですから人によってこの38年という年月は様々でしょう。私は牧師に成り立ての頃ここを読むと38年も病気か、長いなーと思ってい ました。最近YMCAの職員の聖書研究会でここを話しながら38年というのは人生の大半でした、と言ったところ「先生、私は今年丁度38 歳です」といわれたことがありました、38か、若いナーというのが正直な所でした。
 38年が長いか短いかはともかく、ここではこれまで長い間ベテスダの池の畔にいた一人の人にスポットがあてられています。 この人にイエス様は近寄って声を掛けられます。「よくなりたいのか」。
 普通だとこのように言われたらむっとするのではないでしょうか。
 「あったり前でさあ、旦那」「病人だったら誰だって治りたいですよ!」くらいのことは言っても良さそうです。「なおりたからこそこ こにいるんじゃあ、ありませんか」と主イエスにくってかかるかも知れません。しかしこの人は屈折しています。「主よ、水が動くとき、 私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに他の人が先に降りていくのです。」と嘆くのです。 38年もの間癒されたいと願いながらもいつでも他の人の遅れを取っていつも癒されることのなかった人、その長い期間に費やされた汗と 涙をわたし達も想像することが出来ます。もはや自分には癒されることはない、誰も助けてくれないのだから、と言う絶望感が彼を包んで いたことでしょう。彼の中には希望が失われており、救い手への信頼もありませんでした。もしも一番先にはいる人が癒されるというのな ら先着順に一列に、という風にする人もいませんでした。ここでも本当は助け合わなければならないのに、このような最も弱いものがいる ところで人間社会には弱肉強食のような世界が現れているのです。「誰も自分を水の中に入れてくれる人がいない」それならばここにいて も全くの無駄です。だれも彼も自分が癒されることだけを考えています。そのために見捨てられたようになっているこの男に主イエスは語 りかけられます。主は先ず「治りたいのか」と尋ねられました。この人が「良くなりたい」という意志があるかないかを確認されるのです。

§4,主の呼びかけ

 主は呼びかけられます。「起き上がりなさい、床をかついで歩きなさい」という主イエスの呼びかけは実は私たち一人一人に語りかけら れている言葉なのです。
 私たちが「だれも私のことをかまってくれない」とぼやいているときに、丁度38年もそこに横たわっていたひとのように万年床に寝そ べっていてそこから立ち上がろうとしないでいる私たちに「自分の足で起きあがりなさい、床をかついで歩きなさい。」と言って下さるの が主イエスなのです。その主の言葉にこの人が答えたときみ言葉による奇跡が起こったのでした。「床」というのはマットのような物です。 薄い布団のような物と考えれば良いでしょう。今までその上に寝たいたマットを主イエスは担いで歩けと言われました。そのようなことは 安息日にしてはいけないことでしたが主は敢えてやりなさいと命じられたのです。自分は癒されたのだ、38年間歩くことはおろか立つこ ともできなかった自分がこうして癒されたのだと言うその「しるし」を担いで歩けと言われました。マットをそこに捨てておいてもよかっ たのに、「私はここから立ち上がったのです。」とまるで証拠を引きずって歩くような歩みをすることを主は求められたのでした。今まで 自分を縛りつけていたもの、そこから立ち上がることも出来なかった束縛から解放されることこそ「安息日」の喜びなのです。
 一時「くれない族」という言葉がはやったことがありました。 何でも人のせいにして「・・・してくれない」「うちの親は・・してくれない、」「夫は、妻は・・・学校は、先生は・・・してくれない」 と不平や不満ばかり並べ立てる人のことを「くれない族」と言ったのです。今でもそういう人は、大人でも子どもにもいます。 主イエス の言葉は「起きあがりなさい、自分の足で立って歩きなさい。」という自立を促す言葉です。
 「起き上がりなさい」という言葉は復活とい う言葉と同じです。(ルカ7:22、マタイ11:5では「生きかえり」)主はマットの上でただ生きているだけのこの人を全く新しい人生 へと甦らせてくださるのです。それが「起き上がりなさい」という呼びかけでした。そのように語りかけて下さるお方が私たちに力を与え、 助けて一緒に歩いてくださるお方なのです。
   「自分の置かれている状況は絶望的だ、自分の人生は闇だ、みんな社会が悪いからだ」とうそ ぶいているわたし達に主イエスが近づいてその状況からの解放をなしてくださるのです。この私に語りかけられている主イエスの言葉を聞 くことからわたし達の主体的な歩みは始まります。
 聖書に書いてある「奇跡」に躓いてこのようなことが書いてあるからキリスト教は嫌いだと言う人がいます。38年も動かなかった人が主 イエスの一言で起き上がって歩き出した、ということは確かに不思議なことです。しかし誰も自分のことを助けてくれない、と人生を斜に 構え恨みがましく思っていたこの人が主イエスの一言で新しい歩みだしを始めたということはもっと大きな奇跡と言えるのではないでしょ うか。
 「自分は駄目だ」、とか「他の人が羨ましい」とか「他の人は自分のためになにもしてくれない」などと屈折した思いを持っている私たち に実は聖書は「よくなりたいのか」と根元的な問いを発しているのです。私たちが自分の生涯を健やかにどのように生きるべきかと問われ ていることに気づくときに主の言葉は深く突き刺さってきます。「起きあがりなさい、床をかついで歩きなさい。」わたしたちは主の呼び かけによって新しく立ち上がって歩き出すことが出来るのです。「起き上がりなさい」とはまさに復活への呼びかけなのです。
 わたし達はずるずるべったりの生活をしがちですし、その方が楽だと思うことがあります。万年床に寝ている方が新しい覚悟で困難に取 り組むよりは楽だからです。自分の部屋を汚くしようとすれば一大決心をして汚さなくても1ヶ月も掃除をしないでいれば汚れたり散らか ってしまいます。ところが部屋を綺麗にしようとすれば誰かが掃除をしない限りほっておいても綺麗にはなりません。「さあ、掃除をする ぞ」とか「草むしりをするぞ」と決心して取り組まない限り部屋も庭も綺麗にはならないのです。わたし達の心も同じことです。ずるずる べったりに今まで通りの惰性で生きるのは自分中心なだらしない生活です。
 主イエスの「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」というみ言葉はわたし達に惰性から抜け出して新しく神の応答する生き方をす るようにという呼びかけなのです。

 私は以前、哲学者であり社会学者の清水幾太郎さんの愉快な随筆を読んだことがあります。それは清水幾太郎さんが思いがけず一人で暮 らしたと言う体験です。
 茅ヶ崎教会にもお一人で暮らしている方がいらっしゃる方があると思いますからこんな話しは妙に聞こえるかも知れませんが日頃一人暮 らしをしたことのない人が突然一人の自由な時間が与えられたらどうするかということで考えてください。
 清水さんは多忙な生活をしている中で1週間海外の会議に出ることになっていました。そのために準備をし、留守中は奥さんも旅行に 行く計画になっていたそうです。
ところが急にその会議に出席しなくても良いことになり、突然ぽっかりと空白の一週間が出来たというのです。いわゆる「ドタキャン」 です。その期間はすべての仕事を断っていましたし、留守だというので電話や来客もないことになっていました。
 最初清水さんが感じたことは思いがけない全く自由な一週間が過ごせるという喜びだったそうです。夜は好きなだけ本を読んだり、物を書いたり出来る。好きな時 に音楽を聴いたりテレビを見たり出来る。何時に起きようが何時に寝ようが全く自由だ。食べ物は冷蔵庫に奥さんが用意した物が十分ある し、特別にしなければならないことはない。うるさい奥さんもいない、全く自由でのんびりとした一週間が過ごせるという喜びだったそう です。
 快適な生活だと思っている中にそうだ誰も来ないのだからわざわざパジャマを着替える必要はない、一日中パジャマでいると本当に 楽だと思い始めます。食事も一人だからわざわざテーブルにお皿などを並べなくても鍋からスプーンで食べれば洗う手間が省ける。しまい にはトイレに入っても別にドアを閉めなくてもいい、テレビを見ながら用を足すと言うようなことまでしたそうです。
 2,3日は極めて快適な生活のように思えたそうですが、すぐに楽な生活だけを求めていると際限なく自分の生活が自堕落になっていく と言う不快さに襲われました。
 清水さんは文化というのは部屋を掃除するとか色々な食器で食事を楽しむとか、こまめな一つ一つの積み重ねだということが解った、 文化とは他者と生活を楽しむことだということが解ったと言うのです。着替えなくてもいい、食器を使わなくてもいい、トイレのドアを閉 めなくてもいい、と言うような自堕落な生活から、人間らしい日常生活をするには一つの決断と行動を必要とすることが解ったというので す。
 それと同じように、いやもっと大切な、本質的な人間性を回復する生活というのは自分で決心して神様に向き会う生活を始めることです。 そのためには自分中心の惰性的な生活と決別して神に向き合う生き方をしようという決断が必要です。38年間希望にもならない望みにす がって、人を恨み自分を嘆いてマットに横たわっていたこの人は主イエスの言葉に応じて起き上がりました。そしてマットを担いで歩き出 したのです。救いとは現実からの逃避ではありません。現実との妥協や諦めでもないのです。自己をむしばみつつある現実からの解放です。 わたし達も自分を束縛していた現実を逆に担って歩き出すことが可能にされているのです。人間を滅ぼすような現実を担って歩く、それは まさに主イエスの十字架の姿です。それ故に主の言葉には力があるのです。主が既に共に担っていてくださるからです。

§5 恩を仇で返す

 この人の癒しの出来事はエルサレムで大きな波紋を呼びました。主イエスに敵対するユダヤ人が先ず問題にしたことは主イエスが安息日 の律法を破って病人の癒しを行なったということでした。主が安息日の律法を破られたこと自身が主イエスが神の子であることの表れでし たが、聖書にはこの後何度もこの安息日問題が取り上げられます。
 ヨハネの9章にある盲人の開眼の出来事では奇跡を否定することが出来ないためユダヤ人が「安息日にこのようなことをするのは神が遣 わされた者ではない」と言い出す始末です。

 最後にこの癒された男の後日談に注目して終わりたいと思います。
 38年間、起き上がることも出来なかった人を癒した人は誰かという探索が始まります。この男はユダヤ人の取り調べの時は自分を癒し た人が主イエスだとは知りませんでした。彼は神殿の庭で主イエスに再会したときに「あなたは良くなった、もう罪を犯してはいけない」 と言われます。この言葉を私達はどう理解したらよいでしょうか。
「あなたは良くなった」という主イエスの宣言は病気の癒しの宣言であ ると同時に罪の赦しの宣言でもあったのです。そして罪を赦された者はもう二度と罪を犯してはならないとの厳しい課題を背負うことにな るのです。
 ところがこの主イエスの言葉はちょっと見ると38年間病気だったことはこの男の罪の結果であって、癒されたこれからは再びそのよう な過ちを繰り返さないように、と主が言われたように受け取られます。しかし当時のユダヤ人の抱いていた因果応報的な考えはヨハネ福音 書では乗り越えられています。(9章3節)
  従って「もう罪を犯してはいけないという主の言葉は「主キリストを信じないという罪を犯してはならない」と言う意味なのです。この 点でこの癒された人は主の慈しみに答える歩みをしませんでした。この問題が「ベトサダ物語」のもう一つ分かりにくい点です。
 彼は初め自分を癒したのは誰であるかということを知りませんでした。ところが神殿の中で主イエスに再会してこのように言われた後に 「自分を癒したのはイエスであった」ということを知り、そのことをユダヤ人達に告げました。実はある集会でここを学んでいたときに教 会に来て間もない求道者の人が「彼は要するにチクッタのですね」と言ったのですが私はこのあたりのことはクリスチャンよりも未信者の 人の方が鋭い感覚を持っているのだと思いました。クリスチャンは病気を癒してもらった人が主イエスの密告をしたとはなかなか受け取り にくいようです。
 私も長い間「自分を癒したのはイエスだ」という告白は救い主に対する信仰の告白のように考えていました。ところが最近の研究で はこの男がユダヤ人に言った言葉はいわゆる「密告」であったと考える解釈が有力です。実際この後でユダヤ人達はイエスを迫害し始めま す。彼の密告が「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」(18)と言う局面の変化の切っ掛けになっています。つまりこの男は折角 主イエスに癒してもらったのにその主を裏切ってユダヤ人達に告げ口をしたのです。後の9章では生まれながらの盲人が主によって開眼さ せられるという奇跡が出てきます。この5章と9章とは対照的で、実は癒された人が信仰にまで至るか至らないか、と言う問題を提起して いるのです。
 そうするとここで主が「もう罪を犯してはならない」と言われた意味もはっきりしてきます。折角主のみ言葉に応じて起き上がって歩き 出したのに信仰的には後戻りをして再び罪を犯してしまうそのようなことがあってはならない、と言う意味なのです。
 ヨハネ福音書では主イエスに対して目を開こうとしないこと、主に刃向かうことこそ「罪」であることが繰り返し述べられているのです。  自分の惰性で人生を生きてしまいがちな私達にも主は「起き上がりなさい」「床を担いで歩きなさい」と命じられます。私達は神なき世 界の方が居心地が良いと思いがちです。しかしながら眞の光を認めようとしない生き方は結局闇に他なりません
 私達は主イエスに対する 無関心や不信仰になってしまう惰性的な生き方と決別して主イエスに向かって心を開きましょう。折角聖書を読んだり、聖書のお話しを聞 いて「ああそうなのか、これからは少し聖書の勉強をしてみよう」と決心してもずるずるべったりに元の自分中心の生活に後もどりする様 なことがあってはなりません。

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられる主イエスのみ言葉に従って私達も惰性的な生き 方から起き上がりましょう。
  祈ります。
 

(2007年6月17日 特別伝道礼拝説教)