2010.10.24

「生ける希望を与えられている喜び」


ペトロの手紙一 1:1〜9 
   

白 戸  清 牧師

 「茅ケ崎教会創立83周年記念礼拝」に説教者として招かれました恵みを感謝致します。私が1992年6月、茅ケ崎香川教会牧師を辞任し、野辺地教会に赴任したのは8月でした。7月の一ヶ月は他教会の礼拝に、そして、最後の主日はこの茅ケ崎教会の礼拝に出席しました(当時は柏木英雄牧師の在任中)。ですから皆さまとご一緒に礼拝を捧げるのは18年ぶりとなります。この間、その時、茅ケ崎を離れる記念に頂いた革表紙の「聖書」を使い続けて、とうとう表紙を本文を綴じた所がはがれる程、十分に用いることができました。
 野辺地教会、また奥羽の地での体験の具体的な報告は、午後に与えられた時間にお話しをしたいと思います。

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  さて、今朝わたしたちに与えられた御言葉は、先程、櫻井先生に読んでいただいた「ペトロの手紙一」1章1〜9節です。私は基本的な姿勢として、他教会で礼拝説教をする時(例えば、地区講壇交換の時など)は、恣意的にならないように、教団の「聖書日課」から、聖書テキストを選ぶようにしています。茅ケ崎教会礼拝説教の依頼を受けて、いろいろと考えましたが、今回は今年度の『信徒の友』4月号に、〈生き生きとした希望に生かされて ― 「ペトロの手紙一」に聴く福音〉の連載が始まっていることから、この手紙をご一緒に聴きたいとの強い思いに導かれました。野辺地教会では「聖書を学び、祈る会」で、この聖書の学びを始めています。
  ただし、当然のことながら、連続講解説教ではなく、今朝の説教は一回限りの、一回勝負ですので、この手紙の詳しい背景などは最小限に留めます。ペトロの名を冠した手紙は二つしかなく、使徒パウロの手紙ほどに読まれていないと思いますが、非常に豊かな内容の福音なので、ぜひ、ご自分で読んでいただきたいと願っています。
  内容の豊かさを示す一つの例は、故人ですが竹森満佐一牧師(吉祥寺教会、東京神学大学学長。私も講義を受け、また学内での説教を何回か、お聞きしました。)は『講解説教 ペトロの第一の手紙』で、全体で5章しかないこの手紙を39回にわたって説教されています(さらに言えば、この1章では1〜9節を8回にわたり、1節、1〜2節、2節(2回)、3節・・・というように、です。それ程までに、この御言葉の深さ、広さ、豊かさがあります)。
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  パウロの手紙と同様、ペトロの手紙も「挨拶」から始まります。これは当時の手紙の型にならった者と言えるでしょう。先ず自己紹介から始まり、差出人は「使徒ペトロ」、イエス・キリストの弟子でああることが語られます。「使徒」、つまりイエス・キリストに「遣わされた者」としてペトロは自分を紹介していますが、その時彼は、主イエスとの関りで、一度は主を裏切った者であることを忘れてはいないと思います。愛する主を裏切った私ペトロ。にもかかわらず、主の赦しと憐れみを受けて、使徒とさせられた恵みに生かされている者がこのペトロです。
  続いて宛て先、受取人の地名が記されていますが、これは当時、小アジアと呼ばれた、現在のトルコ一帯に散らばる諸教会です。(聖書の最後に「地図」のある方は、8をご覧になってください。ちょうど、『信徒の友』10月号「世界自転車旅行記」にこの地帯のことが掲載されていますので、これも参考になさってください。) この手紙はこれらの諸教会宛に回覧して読まれたのではないか、と考えられています。同じ手紙を読み、試練の中にある諸教会はそれぞれ力づけられ、励まされて、祈りをもって希望の中に信仰の歩みを続けました。
  けれども、これは単なる挨拶ではありません。普段、わたしたちが「お元気ですか。ご機嫌は如何ですか」と相手の安否を問う、様子を伺うような挨拶とは大きく異なります。
  この1、2節において最初から、信仰にとって本質的な「キリスト者とはだれか」「教会とはどのような存在か」という事柄が語られているのです。

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  では、その具体的な内容を見ていきましょう。
  キリスト者とは、その群である教会は、どのようなものとして、この世に置かれているのでしょうか。
  第一は、〈各地に離散して、仮住まいをしている者たち〉です。
 「離散して」と訳されている言葉は、ご存知の方も多いと思いますが「ディアスポラ」というギリシャ語です。国を追われたユダヤ人たち、また異邦人でキリスト者となった人たちは、同時に「仮住まいをしている」者であり、「寄留の外国人」であり、彼らはその土地においては「よそ者」「旅の者」なのです。キリスト者はこの世と同化できません。パウロが「ローマの信徒への手紙」12章2節で、「あなたがたはこの世に倣ってはならない」と語った時、それはこの世と同じ型枠 ― ブロック作りの型枠のように ― にはまってはならないことを言っています。
  奥羽の地に遣わされて、私が体験したことの一つは、教会が離散していることです。他の地方の教区も同様な実情ですが、教会は広い地域に文字通り、点在しています。例えば、本州最北端の教会はむつ市の田名部教会ですが、教団の教会では野辺地教会が一番近くにあり、約60キロも離れているのが隣の教会です。茅ヶ崎から60キロと言ったら、東京を越えてしまいます。このように離れていることはめずらしいことではありません。
  仮住まいについてはすでに少し触れまいたが、1章17節にも「この地上に仮住まいする間」とあり、また「ヘブライ人への手紙」11章13節にも、よく知られている「・・・自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」というみ言葉があります。私たちキリスト者は、この世では仮住まいしている者なのです。
  カールバルトの著作(特に「教会教義学」を中心に)を翻訳された井上良雄という信徒(信濃町教会員)がおられましたが、その方が「教会教義学」の中の「和解論」の教会論と題してまとめてくださった本があります。その題名は「地上を旅する神の民」です。教会という神の民は地上においては旅を続けるのであって、決してこの世に住み着いてしまう者にはなれない存在です。私たちがこのことを正しく認識し、そう信じて生きることは、とても大切なことです。

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  次に〈選ばれた人たち:主イエスの血が注がれ、「聖なるもの」となったもの〉です。
 2節を注意深く読むと、父・子・聖霊の三位一体の神さまの働きによることが分かります。元関東学院大学学長で茅ヶ崎におられ、木下牧師の友人でもあられた柳生直行訳『新約聖書』があり、私は説教や聖書研究の準備にしばしば参考にしていますが、その訳を紹介します。
 「あなたたちは父なる神の御計画によって選ばれ、御霊によって聖なる民とせられたが、それはイエス・キリストに従い、その血によって潔められるためなのである。」(   は白戸による)
 聖書のすべての箇所で同様ですが、私たちが神によって選ばれたのは、私たち自身に資格があるからでなく、私たちの特別な条件からでもなく、徹底的に神さまご自身のご計画であり、聖霊なる神によって聖なる者とされ、そのことを通してイエス・キリストに服従していくためであって、私たちには血が注ぎかけられています。血が注ぎかけられているとは、日本ではそのまま素直に受け取りにくい、理解しにくい表現ですが、ご承知のように、旧約では人間の身代わりである犠牲の動物がほふられて、祭壇にその血が注ぎかけられ、このことによって、神さまから罪が赦される約束です。
 このように、私たちが三位一体の神の名において洗礼を受け、選ばれていることは、神さまの賜物としての選びであるということです。
 この挨拶に続けて、ペトロは祝福の祈りを捧げます。
 「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」
 恵みがあるように、はギリシャ的なもの、平和(平安)があるように、はヘブライ的な祝福ですが、教会はこの二つの世界の祝福をキリストにおいて、一つの賜物として受入れ、教会への豊かな祝福の祈りとして、今も受け継いでいます。ここでは「ますます」ということが強調されていますが、これはパウロにはない表現です。

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 本文の3〜5節は神さまへの讃美から始まりますが、この箇所は初代教会の礼拝式文として用いられていたのではないかと、何人かの註解者は語っています。
 神さまをほめ賛、讃美する!これこそ、人間が神さまによって創造された目的です。私たちが讃美歌を歌うこと ― 今では当然のことのようですが、実はそうではありません。来週は10月31日、私たちプロテスタント教会にとって意義のある「宗教改革記念日」礼拝ですが、宗教改革によって大きく教会が変わったことの一つは、ローマ・カトリック教会では聖職者にしか許されなかった讃美が信徒たちにも与えられ、礼拝において会衆が声を合わせて讃美を歌う喜びを得たことです。このことは大きな感謝です。
 3節後半には「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、・・・」とあるように、わたしたちキリスト者は、「新たに生まれた者」 ― 新しい人間である、ということです。(1章23節も参照)
 そして、わたしたちには「生き生きとした希望を与え」られている。
 この世の人々も希望を持って生きています。何らかの希望がなければ、生きてゆくことはできない。では、この世のそれと、わたしたちに与えられた希望とは、どこが違うのでしょうか。
 第一に、教会に与えられた希望は、「死者の中からのイエス・キリストに復活」です。この世の希望は、死によって閉ざされるものですが、わたしたちの希望は死に勝利し、死を乗り越えた希望です。
 第二に、キリスト者は主イエスの「復活の命にあずかっている」ことです。わたしたちは礼拝で「聖餐」に与かりますが、パンとぶどう酒に与かる恵みは、その度ごとに主イエスご自身の「十字架と復活の体」、つまり復活の命に与かることです。
 第三に、私たちは、天に蓄えられている財産を受け継ぐ者であることです。「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」とは、地上で失われてゆくものではない永遠の命の約束です。天の財産は、神さまのものですから、地上のだれも奪い取ることはできません。
 第四に、キリスト者は神さまの力により、信仰によって守られていることが、確かな希望です。「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために」と言われていますが、私たちは神さまが主イエス・キリストにおいて果して下さった出来事を通して、終りの時、終末の勝利を知っています。「信仰のみ」は宗教改革の標語の一つですが、わたしたちは神さまが与えてくださる救いと守りを、心から信じて生きるのです。

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  6節は以上を受けて、「それゆえ」と始まりますが、どのような時にもキリスト者は「心から喜んでいる」者であることです(8節参照)。
 「新共同訳」と違い、「口語訳」聖書は6節を順序を入れ替えてこう訳しています。
 「・・・さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。」
 これは、「たとえ、・・・だとしても」という信仰を明確に現しています。
 「ペトロの手紙一」は「にもかかわらずの手紙」とも言われますが、あなたがたは悲しむようなことがあっても、あなたがたは喜んでいる。この世の人々から見れば、悩みと苦しみの人生には喜びなどはないのですが、キリスト者は「にもかかわらず」喜んでいる。
 時に、希望も信仰の喜びも失いそうな、この世での教会生活のげんじつにの中で、あなたたちは地上の旅において、いろいろな試練に悩まねばならない。実際、この手紙が書かれた時代に、キリスト者であるが故の迫害を受けていたと思われますが、それ以上に、この試練は自ら「寄留の民」であることの必然から来るものです。(4章12節以下も参照)。
 7節では「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて」とありますが、ある人は、信仰者の受ける試練はその人の「信仰の品質保証」を示すものだと言っています。私たちの信仰が本物か、偽物かどうか、それはわたしたちの経験する試練を通して明らかになるのです。
 願わくは、わたしたちの信仰が本物として成長していくように、祈るほかありません。

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 さらにキリスト者とは、イエス・キリストを愛し、信じている者たちです(8節)。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、・・・」というみ言葉は、「ヨハネによる福音書」にある、あのトマスへの復活の主イエスのお言葉を思い起こさせます。
 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」20章29節
 時にわたしたちは、弟子たちの時代に生きていたら、この目で主イエスを見ることができたのに。そうしたらもっと確かに信じることができたのに、と思うことはないでしょうか。でも、その時代、弟子を始めとするすべての人がイエス・キリストにつまづいたことを思い起こします。わたしたちは、肉の目で主を見ることを願わなくていいのです。
 わたしたちには、何よりもキリストのからだである教会の礼拝において、聖書、語られるみ言葉である説教、聖礼典、賛美、祈りなど、多くの恵みが与えられています。また、教会の兄弟姉妹の信仰の証しを聞いたり、本で読んだりすることが出来ます。
 これら様々な恵みを通して、わたしたちは「魂の救い」を与えられたイエス・キリストを知らされ、主を愛する者となり、今、見ることがなくても信じる者になりました。
 魂の、とありますが、この言葉は人間の全存在を現すものです。この私という存在が、神様の恵みの中に生かされているのです。そして、何よりも、主の十字架と復活の出来事が、わたしたちへの神の愛、罪と死への勝利の信仰を与えます。それがわたしたちが受けている「信仰の実り」です。


 「週報」によれば、茅ヶ崎教会の本年度主題は「希望に生きる」です。
 茅ヶ崎教会に連なるお一人お一人が、イエス・キリストを頭とする教会に「神の民」として招かれていることを感謝し、これからも、礼拝の度ごとに悔い改め、復活の主によって、生ける希望を与えられ、さらにこの世では与えられないすばらしい喜びに満ちあふれつつ、生かされて地上を旅する神の民であることを祈り、願います。
 また、この世の旅の終りまで、各地に離散している教会を祈りに覚え、共に歩んでいただきたいと心から願っています。

(祈 り)

 天の父なる神様、茅ヶ崎教会創立83周年の記念礼拝の恵みを感謝いたします。茅ヶ崎教会のこれまでの歩みを感謝しつつ、これからも新たな思いで、この地に真実の教会が立てられることを目指して歩んでいく教会でありますように、聖霊の導きを祈ります。
 御教会が、地方の小さな教会・伝道所と共に歩む教会でありますように、祈ります。
 この貧しい願いと感謝とを、主イエスのみ名によって、お捧げいたします。 
 アーメン
(2010年10月24日 茅ケ崎教会創立83周年記念礼拝説教)