2010.12.14

「みことばによって生きる」


申命記8:11〜14a 
    マタイによる福音書4:1〜11

鈴木みどり神学生

 


 イエス様は、ヨルダン川で水と聖霊のバプテスマを受けたのち、わざわざ悪魔から誘惑を受けるために、荒れ野に行かれました。どのようにして行かれたのでしょうか?“霊”に導かれて、とあります。このカッコで括った霊、という新共同訳聖書の表現は、一体何の霊なのかわかりにくい曖昧な表現で、初めて聖書を読む方や、求道中の方などは、誘惑を受けるのだから悪霊が連れて行ったのだろう、と思われるかも知れません。けれどもこれは、口語訳や新改訳聖書では「御霊」と訳されていますし、原語ではトゥー プニューマトスとなっていますから、英語ではThe Spirit、つまり「聖霊」です。れっきとした「神の霊」のことです。
 イエス様がバプテスマを受けた時、天から鳩のように降った聖霊が、今度はイエス様を荒れ野へと連れて行くというのです。しかも悪魔の誘惑を受けさせるために…。
 これは一体どういうことでしょうか。マルコによる福音書の同じ記事のところでも、
1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
 となっていますし、さらにルカによる福音書の同じ記事でも、
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。
 となっていますから、やはり聖霊が連れて行ったことに間違いはないようです。私は、よりによって神の霊である聖霊が、わざわざ悪魔の誘惑を受けさせるためにイエス様を荒れ野へと導かれたというそのこと自体にも、私たちが見過ごしてはいけない大事なポイントがあるように思います。
 それは最後にまたお話ししますので、みなさんも何故なのか考えながらこの先を聴いてください。
  そしてイエス様は、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。
  聖書で40というのは、「数え切れない程たくさん」、という意味で使われることも多い数字のようですが、ここでは直訳しますと「四十日四十夜」という風に書かれておりまして、そのように重ねて40を使う時には、その数字自体に意味があると言われます。するとイエス様は、文字通り、四十日四十夜、断食をなさったことになります。40日も断食をするとは一体どれだけの空腹と闘わなければならないのだろうか…と私たちは思いますけれども、イエス様は違ったようです。
  原文どおりに読みますと、「四十日四十夜の間断食され、その後で空腹を覚えられた」、となります。その後で、に当たる原語は、最後に、ついに、とも解釈できる言葉です。すると、これまでの40日間には、空腹は覚えられなかったのでしょうか。おそらくそういうことになるでしょう。

 十字架に掛かられ、復活される前のイエス様はこの時、私たちと同じ肉体を持つ人間でした。聖霊によっておとめマリアに宿された神の子であって罪がない、ということ以外、私たちと同じ肉体ですから、もちろんお腹も空きますし、ごはんもいただきますし、ぶどう酒もたしなみ、また体の疲れさえも覚えられる方でした。イエス様は、半魚人か何かのように、半分が人で、半分が神であられたわけではありません。50%ずつではなく、100%神であり、同時に100%人間であられました。
  ですから何が言いたいかと申しますと、イエス様は本来、お腹が空く方です、と申し上げたいのです。

 ではなぜこの40日の間は空腹を覚えられなかったのでしょうか。
  そこにも、聖霊に導かれて荒れ野へ行かれたワケが、あるのではないでしょうか。
 イエス様は決して、「洗礼も受けたことだし、ちょっと荒れ野で断食でもしてみるか」、などと言って、自分勝手に行かれたわけではない、ということです。主導権はイエス様にではなく、聖霊にあったのです。

 そしてイエス様がついに空腹を感じられたところで、いよいよ誘惑する者、つまり悪魔(サタン)が出て来て言いました。3節です。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
  悪魔は、お前は神の子なのだから、石をパンに変えてみろ、と言います。イエス様が神の子だと知りながら、誘惑しているのです。神の子であるかどうかを確かめようとしているわけではありません。
  そこでイエス様は、すかさずこう答えられました。
 4節、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」
  どこに書いてあるのかと言いますと、これは申命記の8章3節です。天からマナを降らせて荒れ野で養ってくださっている神様の言葉に、全然従おうとしなかったイスラエルの失敗について、モーセが説教した時の言葉を、イエス様は聖書から引用されたのです。
  神様は、私たちにこう言われる方です。「パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか」。それはイエス様がこの少し後の山上の説教のところで教えてくださっていることです。荒れ野で飢えていたイスラエルの人々にマナを降らせて養って下さる私たちの父なる神様は、私たちがパンを欲しがるなら、必ず与えてくださる方です。決して石は与えません。私たちがパンをいただくためにすべきことはただ一つ、その事を素直に祈り求めることです。「父よ、パンをください!」と。
  にも関わらず、祈ればくださる神様を無視して、自分の力で石をパンに変えるなど、そもそもとんだ不信仰なのです。その不信仰で罪深い態度へと、悪魔はイエス様を誘惑しました。しかしイエス様はみことばによってそれを却け、悪魔との対決の第一ラウンドに、あざやかに勝利されたのです。

 さて、5節を見ますと、次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。とあります。何と言ったのでしょうか。6節、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」と言いました。
  まったくヘビのようにズル賢い悪魔は、イエス様がみことばで切り返すと、今度は自分もみことばを使って来たわけです。まるでガキ大将がケンカをふっかけているかのようです。
  これは詩編91編11、12節の引用です。私もですけれど、この詩編のみことばが好きだった方がもしいらしたら、悪魔がイエス様を騙すために引用した箇所だと知ってしまうと、ちょっとがっかりしませんか?…でも悪魔が引用したからといってそのみことばの価値が下がるわけではありませんのでご安心ください。
  とにかく、悪魔は、お前は神の子なんだから、父である神が天使たちに命じて守られるに決まってるんだから、この高い所から飛び降りてみろ、と言うわけです。自分の名誉や栄光を表すために神を使え、という、これも大変に不信仰で罪深い道への誘惑です。自分の都合で神を働かせて天使たちに守ってもらえ、と悪魔は言ったのです。 けれどもイエス様はまたしてもみことばによって応戦しました。7節です。
 4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
  今度は申命記6章16節のモーセの言葉です。イエス様は、悪魔が引いたのとは別の聖書箇所を提示して、他の所にはこう書いてある、と言い返しました。主を試す、とは、主を誘惑する、という意味でもあります。そんなことはしてはならないのです。高い所から飛び降りたのに天使に守られた、という英雄美談のような、ご自分の手柄のような話を作り出すために悪戯に神様を誘うようなことに、イエス様は何の価値も見出されませんでした。わざわざそんなことをしなくとも既にご自分が尊いことも、よくご存じでした。
  かくして、第二ラウンドもイエス様がみことばによって勝利したのです。

 さて、第三ラウンドはどんなだったのでしょうか。8節9節を見ますと、
 4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
 4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
  とあります。この山がどこの山だとか、いや、すべての国々が見えるのだからこれは幻の中の話だとか、そんなことはポイントではありません。たとえそこの夜景のキレイな湘南平が舞台でも構わないのです。
  大事なのは、悪魔が 「ひれ伏してわたしを拝むなら」 と言ったことです。悪魔を拝むとは、とんでもない偶像礼拝です。ですがこの意味は、悪魔そのものを拝むというだけではありません。悪魔がイエス様に見せて誘惑のエサにした、「世のすべての国々とその繁栄ぶり」というのも、それに心を奪われ、自分のものにしたいと思うなら、悪魔を拝むのと同じことなのであって、それ自体偶像礼拝なのです。金銭欲や名誉欲、そうしたものが心を支配し、それを得るために働き、生きるなら、それも偶像礼拝です。
  昔の私もそうでした。「自己実現」という最もらしい言葉を振りかざし、仕事、仕事、の毎日を送っているうちに、気づいたらうつ病になっており、その後は、主と再会するまで、人生の暗闇でした。神を頼らず、自分の力だけで生きようとする人間は、所詮無力なのです。世の人々はよく、「自分の力を信じなさい」などと言って人を励ましますけれども、それは神様を信じた上で、初めて効果を発揮することなのであって、ほんとうは、自分の力だけを信じることも、偶像礼拝と変わらない不信仰な態度なのです。
  そして10節でイエス様は言われました。
 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」
  イエス様がここで初めて発されたご自分自身の言葉は、「退け、サタン。」これだけでした。引用されたみことばは、申命記6章13節でモーセが語った言葉です。イエス様は、悪魔自身のことも、そして父なる神様以外のものを拝む偶像礼拝への誘惑も、たった二言で却け、第3ラウンドまで悪魔にストレート勝ちなさいました。

 イエス様は第一ラウンドでまず、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と言われました。そして御自身が、そのとおり、即座にみことばによって悪魔に応戦し、勝利されました。神の子であり、メシアであられるイエス様でさえ、ご自分の言葉ではなく、みことばに頼られたのです。そのことを、私たちは心に留めるべきではないでしょうか。

 悪魔との闘いは、霊の闘いです。悪魔の目的はあらゆる方法を使って、神と人とを引き離すことです。ですから、神様を小さく見せ、わたしたち自身も神になれると誘惑します。アダムとエバもそのように蛇に誘惑されました。この木の実を食べれば善悪を判断でき、あなたも神のようになれるのだ、と。そして人は、簡単に神様から離れます。そうなれば悪魔の思うツボです。

    この闘いに勝利するには、聖霊によらなければ無理なのです。この時イエス様は空腹を感じられていたわけですから、それは肉体的な闘いでもあったかも知れません。しかしそれでも決してご自分が前に出ることなく、どこまでもみことばによって、父なる神様に従おうとなさいました。
  最初にお話ししましたことを思い出してください。イエス様は聖霊に導かれて荒れ野へ行かれたのでした。そして主の望まれる時と方法によって40日の断食をされたので、終わりまで、空腹を感じることはありませんでした。メシアであり神の子であるイエス様なのに、決してご自分が前に出てすべてを操ろうとするのでなく、主導権を聖霊に委ねておられたのです。みことばによる勝利も、それによってなりました。

 それはイエス様の、完全なへりくだりであると同時に、父なる神様への、完全な信頼です。
  そしてそれは、最終的に、十字架の死にまで至る、へりくだりです。イエス様は何の罪もない方なのに、「オレに罪はない!だから十字架になどかからない!」とは決しておっしゃいませんでした。そして、私たち一人一人の罪の身代わりとなって死んでくださり、そして復活されました。ご自分に死んだからこそ、父なる神によって、新たな命を与えられ、生かされたのです。

 この悪魔との三連戦の中で、神の子であられるイエス様ご自身が、確かにみことばによって生きておられます。そして私たちがどのようにしてこの世を生き抜くべきか、はっきりと手本を示してくださっています。ヨハネ福音書の冒頭によれば、そもそもみことばとは、三位一体の神様御自身です。1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。とあります。
  ならば、みことばによって生きるとは、いつも神様を忘れずに生きる、ということではないでしょうか。
  私たちは、すぐに悪魔にだまされて、日々の生活の中で神様を見失います。人生が調子が良くて波に乗っている時や、逆に不幸のどん底にいるような気がする時などはなおさらです。そしてそれを警告しているのが、今日お読みいただいた旧約のみことばです。たとえ満腹しても、立派な家を建てても、財産が豊かになっても、8:14 心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。と言うのです。自分の思いより、神様のご意志を優先させることも、神様を小さく評価せず、信頼し切ることも、結局のところ、主を忘れずに生きること、そこにつながるのではないでしょうか。
  今日、このみことばを聴いた私たちは、改めて自分自身を振り返り、常に主を忘れずに生きる者として、ほんとうの意味で、みことばによって生きる者とさせていただきましょう。

 
 お祈りをいたします。
 御恵み深い天の父なる神様。御名を崇めて感謝いたします。
 今日もあなたのみことばによって、
 私たちを生かしてくださっていることをありがとうございます。
 ともすればすぐに様々な方法で悪魔の誘惑に負け、聖霊の導きを見失い、
 あなたから心が離れてしまう私たちを、どうかおゆるしください。
 良いときも、悪いときも、
 いつも私たちが神様、あなたを忘れずに生きられますように、
 ほんとうの意味でみことばによって生きる者となれますように、
 私たちの思いの中に、いつもあなたが満ちていてください。

 今、深い悩み苦しみの中におられる方も、
 どうかみことばによって勝利することができますように、
 あなたがお一人お一人を守り、支え、光の道へと、お導きください。

 わたしたちのために、命を投げ出してくださるほどまでにへりくだられたイエス様のように、わたしたちも、いつもあなたの御前にへりくだる者とさせてください。

 すべてに感謝して、私たちの愛する主イエス・キリストの御名によってこの祈り、
 御前にお捧げいたします。  

(2012年10月 14日 神学校日礼拝説教)