2010.10.09

「祈ることを教えてください」


詩編86:6〜13 
    ルカによる福音書11:1〜4

加藤太郎神学生

 

 「祈るときには、このように言いなさい」。主イエスは私達にそのように言います。そしてそれに続く言葉は私達の呼ぶ「主の祈り」の言葉である。そのことがわかるはずです。私達にとって大事な祈りとして与えられている主の祈り。決して長い祈りではなくすぐに覚えてしまう。私は奉仕教会ではCSの教師の働きを任されていますが、最近になって教会に来始めた子どもがすでに主の祈りをそらんじている、その姿が目に浮かびます。なんとも嬉しく頼もしい姿です。しかしその主の祈り、短い言葉の中になんと豊かな意味が込められていることでしょうか。たったの一度の説教でその祈りをすべて網羅的に語るのはどうしても難しさがあります。さてしかし、このとき私達は主の祈りそのものではなく聖書に記されている一人の名も無き弟子の言葉から与えられた御言葉に聞いていきたい、そう願うのです。
 主イエスが何故祈りを教えることになったのか、その発端となった弟子の言葉です。「わたしたちにも祈りを教えてください」。口語訳では「祈ることを教えてください」。この弟子は「どうやって祈ればいいのか教えてください」というよりかは、「祈りの言葉を教えてください」と言ったのかもしれません。当時の宗教的な指導者はそれぞれに祈りの言葉を持ちそれを付き従う弟子たちに教えていたようです。何にせよこの弟子は主イエスに祈りについて教えをいただきたい、そう頼んだのです。主イエスはルカによる福音書を読んでいくと要所において祈りの時を持っていることがわかります。洗礼を受けたとき、十二弟子を選ぶ前、そして今日の「主の祈り」と呼ばれていく祈りを教える前に。この弟子はその主イエスの姿を見る中で祈りの大切さを実感し、しかし同時にどう祈るべきか、もしかしたら彼自身その自分の祈りの乏しさに悩んでいたのかもしれません。
 「祈ることを教えてください」。それはこの一人の弟子の言葉を越えて私達にとっても切実な言葉になるのではないでしょうか。私達は祈りの乏しさを感ぜずにはおれないと思う時がしばしばあります。どうやって祈るべきか、どう言葉を紡ぐべきか。もちろん言うなれば格好の良い、人様に聞かせるための祈りの言葉を望んでいるわけではありません。ただし、神学生として教会の奉仕をしていると教会の方々のそこにある本音と言うものを聞く機会が出てきます。ある集会で突然牧師に指名され閉会の祈りを求められた時、ドギマギしてしまったある婦人がいました(最もだからこそそのような中で信仰を鍛えられたと感謝の言葉につながっていくのですが)。祈祷会、いつも祈りの言葉を備えるのに苦労する。司式にあたる長老も祈りに備え緊張を持つ。私のつながる教会に今まさに洗礼へと少しずつ準備している若者が祈祷会に来るようになりました。とても嬉しいことです。その彼も彼なりの言葉で祈っている。その彼の姿を見、私自身の初めての祈祷会を思い起こすものですがそれは何とも恥ずかしい。いざ自分の祈りの番になると緊張のあまり途中でつっかえてしまい頭が真っ白になり、言葉が出ず、最後は牧師が執り成しアーメンと言い私の祈りは終わってしまった。この時こそ「祈ることを教えてください」と切実に思ったことはありません。そのように祈れない自分というものを誰もが抱えているのです。本当に神の前でふさわしい祈りか、正しい祈りか、問いそして自らの乏しさの中で私達は祈るのです。
 「祈ることを教えてください」。それは切実な言葉です。しかし同時に私達にとってこの「祈ることを教えてください」と言う言葉が本当に切実なものになっているのだろうか、そう問わざるを得ないのではないでしょうか。確かに一方では祈れない自分を抱えている、しかしその一方で祈らない自分を抱えているのではないか。人間祈らなくたって何とかやっていける。どうせ神様は全知全能のお方、すべてをご存知なのだからわざわざこっちから祈らなくたっていいではないか。そんな屁理屈をこねていないか。祈っているように見えてその言葉は形だけのものになっていないか。人の祈りに最後アーメンと共に言うとき、真にそれ然りと言っているのか。そして主イエスが教えられた「主の祈り」が心を上滑りするようなものになっていないか。
 祈ることが出来ないと言うことは願うことが出来ないと言うことになるでしょう。記されている「主の祈り」の言葉はどれも神に対する願いの言葉です。もちろんただ単純に願うことが祈りの姿ではないことを皆さんは知っているはずです。自分があれをしたい、これをしたいと神に向かいおねだりすることが祈ることであるというようには言うべきではない。結局そのような姿は自分の欲望を具現化させるために神を利用しているに過ぎない。願いがそのようなところに陥ってしまう危険があることに私達は注意深くあるべきです。しかし私達はやはり祈りが願いであると言うことを忘れてはなりません。主イエスはここでその祈りの教えを「父よ」と言う素朴な呼びかけから始めます。子どもがお父さんに対して親しく願うようにその祈りは始まるのです。父なる神に対して願う。私達にはそのような神と向かい合った関係、難しくいえば人格関係があるのです。それはなんと麗しい関係か。しかしもし私達が願わないと言うのなら、そのような神との麗しい父と子の関係を私達の側からブチンと切ってしまうことになるのです。
 何故私達はそのような関係を台無しにするように祈らなくなる、願うことがなくなるのか。人間祈らなくても、願わなくても何とかやっていけるのだ。いや、やっていかなければならない。私達の世界はそのような考え方が様々なところで浸透しているように思えてなりません。自分の道は自分で切り開く。信じるものは自分だけ。このような言葉が人々の心を引き付けているのではないでしょうか。納得できるところも確かにあります。仕事場でも、学校でも、ご近所づきあいでも、その社会には裏切りと言うには大袈裟かもしれませんが、しかし確かにその言葉がそこら中にあふれている。そんな中、自分を守るためには自分を信じるのだといって聞かせ武装し戦い抜くしかない。神に願うことなんて弱い人間のすることだ、そういう人もいるかもしれない。しかし私達だって一歩踏み外せばそうなってしまうのではないか。願いと言うものは確かにそれを途方もなくすることによって神を利用する自己中心に陥ることもある。しかし願いを全く忘れてしまうなら願いの先にいてくださる父なる神を忘れることになり何とか自分の手で成し遂げる、これもまた自己中心へと陥ることに他ならないのです。
 「祈ることを教えてください」その言葉を私達は新たに切実な言葉として与えられることを願うのです。何時だって祈れなくなる「誘惑」は私達に付きまとっているのです。「誘惑」?おや、少しまて、主イエスが教えた祈りの言葉を思い出しましょう。「私達を誘惑に遭わせないでください」。主イエスが教えた「主の祈り」。誰かが何かを教えるとき、教える者はすでに知っていなければなりません。主イエスは私達に一体何が大切なのか、何が必要なのかを知っており、それを願うようにと教えられた。そしてその主イエスは誘惑に陥らないようにと教えた。私達が誘惑にいつもさらされていることをすでに知っているから。だからこそ祈れという、「誘惑に陥らないように」と。誘惑というものは最後祈ることが出来なくさせるものであります。私達を神から引き離させようと、その関係を切り離そうとするものです。そうであってはならない、そのために誘惑に陥らないように祈れと主イエスは言うのです。
 それでもなお、私達は鈍く弱い存在であると言わざるを得ません。先に言ったようにルカによる福音書では要所において主イエスの祈りの姿が記されています。その一つはオリーブ山での祈りです。苦しみもだえ、血の滴るごとく汗が落ちるほどに祈られた主イエスの姿とあまりにも情けないコントラストになるのは眠り込んでいた弟子の姿、その中には他の福音書の記述によれば弟子ペトロもいます。主イエスは言う、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい」。それからはまるでジェットコースターを降るがごとく逮捕、裁判、尋問そして十字架へと向かわれる。そして主イエスと共にいたペトロは三度主イエスを否みその関係を断ち切っていく。誘惑に陥らないよう祈れなかった姿の果てではないでしょうか。そしてペトロにとってはあまりにも大きな罪が残るのです。もしも私がその立場だったらもう生きていけません。仮に生きていけたとしても自暴自棄なものでしかないでしょう。しかしペトロは真っ直ぐに生きた、生きることが赦された。
 「祈らないことは最も大きな罪である」そう言葉を残した人がいます。祈らないこと、ペトロの姿に見られるようにそれは私達の側から神との関係をブチンと切ってしまうこと。確かに大きな罪です。しかし主の祈りを教えた方はそのような誘惑に陥り、祈らない罪を犯す私達の弱さをすでに知っている。こちらからブチンと切ってしまったその関係を、まるで糸が切れてまっさかさまに堕ちて行く私達の途切れた糸を掴み、生きよと言ってくださる方がいる。その糸を縛りなおしてくださる方がいる。ああ、主の十字架はその祈れなかった私のためにあったのだと気付かされる。
 私達に全き救いを与える方、その方が私達に祈りを教えるお方です。あなたにとって何が必要なのかを、そしてあなたの弱さをも私はすでに知っている。その方に信頼をして私達は新たにあの弟子のように言いたいのです。「私たちに祈ることを教えてください」。いまだに誘惑もある。祈れない自分、祈らない自分を抱え何度もくず折れそうになる。しかしそこから救い出してくれる方は必ずいる。だからこそ何度もその方にこう問いかけることができる「私たちに祈ることを教えてください」。そのとき今までの人生で数え切れないほど唱えた祈りが新たな祈りとして私達に与えられるでしょう、そしてそこから私達自身の祈りの言葉がきっとこの口に、この心に与えられる。真に救い主を、真に父なる神を知らされる祈りをきっと与えられていく。祈り教えたもう方は同時に救いの方である、どこまでも信頼し、またそこから私達は新たな祈りの日々へと送り出されたい、そう願うのです。  

(2011年10月 9日 神学校日礼拝説教)