2007.07.08

「背負われる神」


イザヤ書46:1〜4 
    エフェソの信徒への手紙1:3〜7

吉武真理神学生

  イザヤ書は、書かれた内容から、3つの異なる時代に書かれたものが合わさっているものと言われています。それぞれを記したのは、1〜39章までがイザヤ、40〜55章までがとそれ以降が名前が分からないので、便宜上、第二、第三イザヤと呼ばれています。
 今日の箇所は、第二イザヤに含まれています。この時代は、バビロニア軍によって国が滅ぼされ、ユダの人々がバビロンに連れて行かれて、捕囚民として過ごした時代と見られています。捕囚からちょうど50年たった時、そのバビロニアをペルシアが征服してくれて、ペルシアのキュロス王によって解放令が出され、ユダの人々はやっと自分たちの国に帰ることが許されます。第二イザヤは実際そのことが起こるよりも前に、その時には私たちは解放される、救い出される、ということを預言して、民に希望を与えました。


 1. 【偶像の神と生きておられる神】
 1節にはベルとネボというバビロニアの二つの神の名前が出てきます。祖国が滅亡して、捕われの身にある捕囚民が、目の当たりにしたのは、バビロニア帝国の繁栄と力でした。その中心にあったのが、これらの神々であり、その立派な神殿でした。毎年4月の新年祭では、ベルとネボを称え、神々の像が舟に乗せられ、行列行進が華やかに行われました。そこに君臨するベルとネボの像は、惨めな捕囚民に強烈な印象を与え、脅威に感じたようです。目に見える現実は、捕囚民は敗北者であり、バビロニア人たちは圧倒的な勝利者でした。そんな中で預言者は、バビロニア帝国が崩壊することを預言し、バビロンの神々がどうなるか、ということを語りました。1節です。「ベルはかがみこみ、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。」
古代中近東世界では、戦争はそれぞれの国の神々の戦いであると考えられていたので、戦いに負けると、偶像を担いで逃げました。ペルシアとの戦いに敗れたバビロニア人たちは、一刻も早く、逃げなくては自分たちの身も危険であるのに、神々の偶像を守らなくてはなりませんでした。神の像を置いていくわけにはいかず、大慌てで獣や家畜に負わせて引っ張って逃げていきました。一説には、それは5メートルくらいあったようですから、大変です。そして2節にはこうあります。
「彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。」
そして結局、偶像の神々は、民も国をも救うことなく、像そのものも征服者に戦利品として持っていかれてしまう、といいます。ものの真価は、挫折とか崩壊に直面した時に明らかになります。本物かどうかが明らかになるのです。
 厳密には、実際その後、この預言は実現しませんでした。バビロンを征服したキュロス王は、被征服者の文化と宗教を重んじ、ベルを礼拝したようです。見える形で、そのことが起こったかどうか、ということより、ここで示されていることに注目したいと思います。目に見えるこの世の壮大さ、表面的な華々しさに惑わされてはいけない、本当の姿に目を留め、真実は何なのか、人を根本的に救いうるのは一体誰なのか、そのことに心の目を向けてほしい、ということなのではないでしょうか。私たちも、生活の中で、知らないうちに多くの偶像を大切に抱え、自分を支えてくれると、頼みにしているものがあります。お金であったり、社会的地位であったり、持ち物や仕事、能力や人、それぞれ違うでしょう。けれども、これら一切は限りがあり、時が来れば移り行き、変わりゆきます。これらは、根本的には私たちを救いません。私たちを真実に支え、生かし、救うのは、生きて働いておられる、真の神お一人だけです。


 2. 【私たちは生まれる前から担われてきた】
 三節冒頭では、「私に聞け」とあります。人格を持っておられる神ご自身が、「私に聞きなさい」と語りかけておられます。語りかけられている対象となっているのは、「ヤコブの家よ、イスラエルの残りの者よ、共に。」となっています。ここでは、「イスラエルの残りの者よ」とは、北王国イスラエルの残りの民という意味より、イスラエル民族全体に対する呼びかけだろうと考えられます。「残りの者」という呼びかけは、すでに徹底的な破壊があったことを前提としています。イスラエルは、国そのものが滅ぼされてしまった。「残りの者」はいわば敗残兵です。国を失い、友人・家族を失い、財産、社会的地位、民族としての誇りも伝統も失ってしまった。全てを失ってしまった。そのような人々が聞いた言葉は何だったでしょうか。三節後半です。
「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。」新改訳では、「胎内にいる時から担われており、生まれる前から運ばれた者よ。」となっています。原語を見ると、「生まれる前から」の方が、より忠実な訳であるように思われます。何もかも失ってしまったイスラエルの人々に、唯一残されていた変わらないもの、それは、ボロボロになった民を「あなたたちが生まれる前から負ってきたんだよ」と言われる神でした。リビングバイブルでは「わたしはおまえたちを造り、生まれた時から面倒を見てきた。」となっています。繁栄の中にあって、意気揚々としている人々に語られたのではありません。これは現代を生きる私たちへの語りかけでもあります。私たちもこれまで歩んできた人生を振り返ってみますと、どうでしょう。私たちは何も持たずにこの世界に生まれてきました。守ってもらわなければ生きていけなかった幼い時代、挫折した時、苦しみのどん底で孤独を感じていた時、神に背を向けて悲しませていた時、どこを通る時も、この神は変わらず真実に傍にいて、抱え込んでくださっていました。涙の一滴もこの神に知られずにいることはなく、弱さも重荷も苦しみも、共に負ってくださいました。私たちからあらゆるものが取り去られ、全てを失っても、この方が私と共におられる、そのことだけは残るのです。この方に背負われて、私たちの今日があります。
 上原令子さんというシンガー・ソングライターの方がおられます。上原さんはアメリカに統治された沖縄で、アメリカ兵と日本人女性のハーフとして、私生児として生まれました。親戚の家で育てられ、幼い時、自分はもらい子であると知り、自分の価値を失ってしまいました。そのほりの深い容姿のゆえにいじめられ続けました。「自分は望まれて生まれてきたのではなく、間違いで生まれてきたに違いない」と思うとますます自分の価値は低くなり、その寂しさを満たすために悪いことをたくさんしました。悪行はエスカレートし、薬にまで手を出すようになり、歌手になるという夢も破れて、絶望的になり死にたいと思っていたとき、神と出会いました。自分は間違いで生まれてきたのではない。どんな環境にあれ、神の無条件の愛は分け隔てなくすべての人に注がれているということが心底わかり、癒されました。そして、今は、同じように苦しんでいる人たちに、イエス様の愛をお伝えする使命を感じ、ゴスペルシンガーとして用いられています。 ある旧約学者の方がこのようにおっしゃっています。「私たちが、本当に宗教の深みに触れるのは、こうした〈私の中の地獄〉を〈背負い込む〉方に思い至る時であります。悲惨と屈辱とはずかしめの歴史を、黙って黙々と〈背負って〉おられる神に思い至る時であります。」私もそのことに心打たれます。どのような境遇にある人も、生まれる前から、その存在が大切に顧みられ、抱え込まれてきました。私たちは、そのような一人ひとりであるということを覚えたいと思います。


 3.【 人生は神の御手の中にある。】
4節は「同じように」という言葉で始まります。あなたが生まれる前から、ここまで私は負い続けた、この私は決して変わらず、これからもあなたを負い続ける。あなたがたとえどんなに変わっても、私があなたの神であることは永遠に変わらない。そういった意味がこめられているように思います。
それから、4節には「背負う」という言葉が繰り返されていますが、これは、重い荷物を労苦して運ぶときに使う言葉だそうです。ということは、神様なのだから、簡単に軽々と、涼しい顔で私たちを背負うのでは決してないということだと思います。不真実で分からず屋な私たちを愛し、背負い込む、というのは、痛みを伴います。忍耐が必要です。御心にそむき続ける私たちを抱え込み続けるためには、人間的な表現が許されるなら、神様が額にあぶら汗をかいたり、傷ついたり、涙しながら、それでも私たちに関わり続けてくださっているのではないでしょうか。そして、「背負う」ということは、私たちの人生に意味を見ていてくださっている、ということです。たとえ、地上の命が短かったとしても、人の目には苦しみの多い人生だったとしても、その一人の人の命は、神様にあっては重みがあり、意味があり、神様の目には、キラキラと輝いているに違いありません。それは、その人がどれだけ人の役に立つか、とかどれだけいい人間であるか、といった表面的なことによらず、存在そのものが神様の目には尊ばれ、愛されているからです。 4節後半には、「私はあなたたちを造った。私が担い・・・」とあります。旧約学者の左近淑という先生は、ここをこのように私訳されています。「私が事をはじめた以上、私が負う」。神様が愛する対象として、この世界を、そして人間を造られ、幸いなご計画を持って、一人ひとりはこの世界に送り出されました。出来が悪いから途中で放り出す、というようなことはありません。「神様が事を始められた。」ということは、また、神様ご自身によって最も良い形で事が成し遂げられる、ということではないでしょうか。 この4節は、原語では、「私」という言葉が5回も出てきます。新共同訳では、少し省略されて3回しか出てきませんが、新改訳では忠実に5回訳しているので見てみましょう。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
ヘブル語では、「私」という言葉を使わなくても、動詞を見れば主語は分かるものなのですが、ここでは、「私」という語、しかもわざわざ強い意味の「私」を5回も繰り返しています。これは、「他の誰でもない!この私こそがあなたたちを持ち運ぶのだ!まさにこの私こそが救うのだ!」というようなとても強い意志を表す宣言のような言い方になっています。これは言葉だけに終わりません。新約の時代に入って、神はイエス・キリストを十字架につけられました。独り子の命をかけてまでして、救いを完成されました。他の誰にも出来ないことを、神ご自身が完全に成し遂げて贖って下さいました。ご自分がこれほどまでの大きな痛み苦しみを引き受けて、なお、私たちを背負い続けてくださる神なのです。このはかり知れない神の恵みの御手の内に、私たちの人生は置かれているのです。
 私は、2年前の夏、茅ヶ崎教会で実習をさせて頂き、多くの方のお祈りに支えられて、今年無事に四年生になりました。これまでの3年半の神学校生活を振り返ってみますと、決して順調な3年半ではありませんでした。病気をもっていますので、体力的な苦悩から、休学を考えた時期もありました。また、様々な問題に苦しんで神様が遠く感じられて、希望が持てない時期もありました。けれども、最近、神様をもっともっと信頼していいんだ、ということを教えられました。このような者であっても、私は主のものとされている。未解決のこと、分からないことはあるけれど、その全てをひっくるめて背負って下さっている方がある、そして終わりの時まで背負い続けて下さる、ということに深く慰められます。その神様に励まされて、一歩一歩前に進ませていただいています。
 生きておられる神は、私たち一人ひとりの生まれる前から背負ってくださり、終わりの時まで負い続けてくださいます。順境の時も逆境の時も変わらず、愛をもって面倒を見続けてくださいます。私たちの人生の全ては、この神様の御手の中に包まれています。それゆえに、私たちは自分の人生に、そして隣人の人生に、神様の尊い意味を見出すのです。どんな時も変わらず、共にいて抱え込み続けてくださる方に感謝し、励まされながら、イエス様が再びおいでになるその日を目指してご一緒に歩んでいきましょう。

 

(2009年9月20日 神学校日礼拝説教)