2020.8.16


   

    

       

                              

「良くなりたいか」          ヨハネ5118 ヨブ23110

 

ヨハネによる福音書52節に「ベトザタ」と記されている池の名前は、口語訳聖書では、「ベテスダ」と表記されていました。その意味は、「あわれみの家」「恵みの家」あるいは「オリーブの家」とも言われています。その池は、エルサレムの羊の門の傍らにありました。大きさは、長い辺が120mで、短い辺が65m、50mで、長方形に近い形をしていました。その中央には一本の廊下が設けられていて、周囲の4本の廊下と合わせて5本の廊下がありました。その廊下には屋根がついていたようです。なぜなら、3節にあるように、そこには「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわって」いたからです。その病人たちがそこに留まっていたのには理由がありました。新共同訳聖書では、3節の最後に小さな十字架のような、栞のようなマークがついています。よく見ると節の数字が、3から5に飛んでいます。これは、確認できる限りのもっとも古いギリシャ語聖書には含まれてはいないのですが、少し後代の聖書には含まれているので、ヨハネによる福音書の最後に、区別して収録しておきます、という意味です。その部分を読むと、その池の廊下にいた人々が、なぜそこに留まっていたのかがわかります。

「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」

この言い伝えは有名で、わざわざ説明をしなくても多くの人はわかったから当初は省かれていたのかもしれません。あるいは、それはあくまでも「言い伝え」「口コミ」であって、そのような不確かなことを聖書本文として残すことを、著者ヨハネは躊躇して省いたのかもしれません。

その池は「間歇泉(かんけつせん)」で、池の底から時々、ボコッと空気が吹き出したのではないかとの説もあります。そうだとすると日本の温泉が効能書きを持っているように、その水も何らかの薬効成分を含んでいた可能性もあります。決して科学的根拠のないことばかりではなかったかもしれません。

とにかく大勢の人々がそこに集まり、留まっていたのです。そして、その水が動いた時、われ先にと、人を押しのけてでも池の中に入ろうと待ち構えていたのです。

“あさましい”と一笑に付することは、わたしたちにできるでしょうか。少し前、どこかの知事が、新型コロナウイルス対策にうがい薬を…と発言するとその何時間後かには、あちこちの薬局の棚からうがい薬が消えてしまったという嘘のような本当の話がありました。この池の周りで起きていたことは、現代の、わたしたちの社会で、かたちを変えて、起こり続けているのではないでしょうか。

さて、そこに38年間も病気で苦しんでいる人がいました。具体的な病名は記されてはいませんが、歩き回ることもままならないほど深刻な状態で、しかも出口のない長いトンネルのような、どこに回復の糸口を見出したらよいのかわからないような状況が続いていたことは察することができます。

なぜ、この一人の人物が選ばれたのでしょうか。特別に症状が深刻だったからでしょうか。主イエスからえこひいきをされていたのでしょうか。そうではなく、主イエスは、この一人の人と御自身との出会いを通して、その人のみならず、すべての人に必要なメッセージを残そうとされたのではないでしょうか。

1に、主イエスは、その人を見てそして知ってくださいました。

主イエスは、一人ひとりに向かい合ってくださるお方です。その人の外見だけでなく、その内側も御覧になってくださるお方です。そして、並んで歩むようにして寄り添い、その人が感じている苦しさ、痛みを知ってくださるお方です。ヘブライ人への手紙133節には「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」と記されています。主イエスは、まさにこの御言葉を成就してくださったお方です。

2に、主イエスは「良くなりたいか」とお尋ねになりました。

これは、その人の中に(心の内側に)何があるのか、そこに目を向けさせるための問いかけでした。

7節をご覧ください。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

彼は、すなおに「はい、良くなりたいです」とは答えませんでした。ここには周囲への不満があります。家族、知人、友人への不満だったかもしれません。その場所にひとりでやってきたのではないでしょう。「床」という言葉を塚本訳聖書では「担架」と訳しています。彼を乗せて二人がかりで運んでくれた人がいたのです。それぞれにも仕事があり、日常生活があったはずです。ずっと付ききりで傍にいることは難しかったに違いありません。にもかかわらず、彼は、「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と、足りない部分にのみ目を向け、心を向けていたのです。「ほかの人が先に降りて行くのです。」と、他の人との競争にいかにして勝利すればよいのか、というところに心を奪われていたのでした。

3に、主イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と宣言されました。

「良くなりたいか」と尋ねられて「はい、良くなりたいです」と素直に答えることもできない彼でした。足りないところばかり数え、人と比較ばかりしていた彼でした。にもかかわらず、主イエスの御言葉が届けられます。一方的な憐れみに満ちた、力強い御言葉です。

彼は、主イエスの御言葉を、ただ信じました。自分ができるとか、自分がふさわしいとか、いっさいのことを脇に置いて。立ち上がろうと腕に、腰に、足に力を入れた瞬間、それまでとまったく違う不思議な熱い何かが体中を駆け巡るのを感じたに違いありません。もし、彼が、主イエスの御言葉を信じて、その通りにしようとしなかったら、体験できなかったことでした。しかし、彼は信じました。そして「良くなって、床を担いで歩き出した」のです。

それまで、38年間「担がれて」いる人生を送っていた彼でした。しかし、主イエスとの出会いの中で、「担ぐ」人生へと180度変えられたのです。

 

「ベテスダ」という名前は、世界中のいろいろな団体、グループや、教会の名前にも用いられています。地名になっているところもあります。日本で『ローズンゲン』という日毎の聖書日課小冊子を発行しているのも「ベテスダ奉仕女」という団体が中心になっているグループです。

最近新型コロナウイルスの海外での情報、データが報道されるときに、ジョンズ・ホプキンズ大学という名前がしばしば登場することに気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。アメリカ合衆国メリーランド州に1876年に設立された世界屈指の医学部をもつ大学です。有名な新渡戸稲造もこの大学に留学しています。このジョンズ・ホプキンズ大学が強力なダックを組んでいるのが同じメリーランド州のベテスダという場所にあるアメリカ国立衛生研究所(NIH)です。このベテスダという地名は、1820年に設立されたベテスダ長老教会からとられたそうです。教会がその地に建てられた時のビジョンに、その周囲の人々が共感し、地名にまでしてしまったのです。大勢の人々がその池の廊下に横たわっている中を、主イエスが歩かれ、一人の人と出会い、その人生を180度変えられたこの聖書の出来事は、過去の一度きりの出来事ではないのです。現実にアメリカの地でも生き生きとつながっているのです。

 

聖書の御言葉とそれがもたらすビジョンは、決して終わりません。

わたしたちが御言葉に出会い、わたしたちが「床を担ぐ」者へと変えられてゆくとき、常に新しく何かが起こされてゆくのです。

 

さて、この聖書箇所が、9節で終わっていないことは、実は、とても大切なことです。

10節以下を見ると、この癒やされた者は、ユダヤ人たちと出会った様子が記されています。律法を守ることに特に心を用い、また指導的な立場にあったユダヤ人たちだったに違いありません。

彼らは言いました。

「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」

確かに安息日には、あらゆる労働は禁止されていました。「床を担ぐ」ことも労働の一部と彼らには見えたのです。

11節をご覧ください。

「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と彼は答えました。

「床を担いで」いたのは彼自身でした。彼には、「律法を破りました! ごめんなさい! 償いが必要であればいたします!」と応答するという選択肢もあったのです。38年越しの病を癒やしていただいたのです。しかし「その癒やしてくださったお方が言ったからそれに従っただけ。言ったその人がいけない。」と言わんばかりの応対をしてしまったのです。

人間の弱さがここにあらわれています。権力、秩序を前にして、尻込みしてしまうわたしたちの弱さです。それは、創世記3章に登場する最初の男女にすでにあらわれています。責任転嫁です。その弱さに自分の力で勝利することのできない彼に、いや、勝利することのできない彼だからこそ、主イエスは、もう一度出会ってくださっているのです。そして、語られました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(14)。その弱さがどこから来るのか、主イエスは、その源流を見据えていました。そして、それを「罪」と呼ばれ、「罪の赦し」の必要性を語られたのです。「もっと悪いこと」とおっしゃいました。これは脅しではありません。38年間の病ということは容易に想像もできないほど大変なことです。しかし、それよりも大切な課題があるというのです。主イエスは、そこをはっきりとお伝えになったのです。14節には、その場所について記されています。なんと「神殿の境内」で主イエスは彼に出会ってくださっているのです。わたしたちも「教会にいれば大丈夫(罪とは無関係)」と言えないことに、この出来事は気づかせてくれます。どこにいるかではなく、どなたと出会っているかということこそ大切なのです。

「肉体の病、肉体の死」、大きな大切な課題であります。これ以上のことはない、健康が何より大切としばしば感じるわたしたちです。でも、もっと悪いこと「霊的な病、霊的な死」ここから目を背けてはならない、こちらの方が、実は、もっと大きなことなのだよ、と主イエスはおっしゃっているのです。

主イエスは、十字架に向かって一歩また一歩と進まれます。十字架・復活を通して以外に解決できない課題があるからです。たとえ敵意をぶつけられても、たとえ殺そうと迫られても、御自身が神と等しいお方であられること、神の御独り子であられること、をはっきりとお示しになるのです。十字架・復活にこそ「霊的な病、霊的な死」を滅ぼすまことの救いがあるからです。このお方が、わたしたちと共にいてくださる主イエスです。主イエスは、わたしたちにもお語りくださいます。「良くなりたいか」と。わたしたちは、何に気づき、どのようにお答えしましょうか。