2020.4.12
   

    

       

                              

「恐れることはない」  イザヤ書55611 マタイ28110    2020.4.12

 

イースターおめでとうございます。

新型コロナウイルスの流行ゆえに緊急事態宣言の出される中、この礼拝のことを覚えつつも、それぞれの場所で御言葉を開き、祈りをあわせている方々が大勢いらっしゃいます。仕事や社会との関わりから、自分が、もし感染したらあまりにも影響が大きすぎるというお立場の人もいらっしゃいますし、公共機関で通勤、移動をしなければならないことから、もしかしたら自分はすでに感染しているかもしれず、教会に来ることによってうつしてしまうリスクがあると感じて、ご自宅にとどまっている方もいらっしゃいます。街を歩いても休業するお店が多く、人と人とのつながりは、次々と寸断されていることを感じます。しかし、このような状況下こそ、生きて働いておられる全能の主なる神の御力を体験すべき時です。わたしたちには、人と人とのつながりを損なわせないための多くの方策が残されているように思います。

何をしたらよいだろうか、そう案じるわたしたちに対して、主なる神は、今朝、語りかけてくださいます。

 

「恐れることはない」

 

何と力強い御言葉でしょうか。

この新約聖書の御言葉を聴く前に、本日の聖書箇所の一つであるイザヤ書の御言葉に耳を傾けてみましょう。イザヤ書5589節には、次のように記されています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

わたしの道はあなたたちの道と異なると

主は言われる。

天が地を高く超えているように

わたしの道は、あなたたちの道を

わたしの思いは

あなたたちの思いを、高く超えている。」

共に教会の会堂に集って礼拝をおささげできることは、すばらしいことです。しかし、それがやむを得ない事情で妨げられていても、また、わたしたちがバラバラにされているように感じたとしても、なおも、主の恵みと平安にとどまる道は残されているのです。主の思いは、わたしたちの思いを高く超えています。主なる神は、わたしたちが自分の思いにとどまり続けることからも解放してくださるお方です。

 

27年前、まだ伝道師になりたての頃ですが、1年間ほど海外で学ぶ経験をさせていただいたことがありました。半年ほどドイツのバイブルスクールにいたときのことです。ドイツといっても南ドイツ、スイスとの国境近くの場所で周囲はほとんどカトリック教会、その中でプロテスタントの流れをくむものとして年に何回か伝道集会を行っていました。その時には、必ず祈りのための奉仕者たちが立てられました。それまで日本で経験していたのは、準備の祈りといったものでしたが、違いました。それは、当日、その時間、別の部屋で、その集会のために執り成し祈るという祈りでした。当然、その集会には出席できません。聖書の解き明かしも聴けません。その恵みを犠牲にしつつ、1時間以上、ひたすら祈り続けるという奉仕でした。目から鱗が落ちるような経験でした。

わたしたちが今おささげしているこの礼拝も、実は誰かの祈りによって支えられているのではないでしょうか。それゆえ、たとえご高齢になり礼拝に出席できなくなったとしても教会のためにできることはなくならないのです。最期の瞬間まで、祈り続けることができるのです。その祈りで一つになることができるのです。別の場所に、バラバラのように見える一人ひとりを、神はつなぎ合わせることのできるお方です。

今、新型コロナウイルス流行によって、バラバラにされているわたしたちですが、主なる神は、わたしたちのつながりを、ますます強くすることのできるお方なのです。

そのお方が、今、わたしたちに語りかけてくださっているのです。

「恐れることはない」

この言葉の根拠になるものは、いったい何でしょうか。「気にすることはない」「恐れなくてもいい」と、いくら優しい言葉が重ねられたとしても、それが根拠のない、うわべだけの慰めであったとしたら、何の意味もありません。

本日の新約聖書箇所は、何ゆえに、何を根拠として「恐れることはない」なのか、はっきりと私たちに伝えています。特に3つのことを心に留めたいと思います。

1)「安息日が終わって」(1節)

「安息日」とは、主なる神が天地万物の創造を終えて7日目に休まれたことを覚え、わたしたちも自らの業を休み、神との深い交わりの内に自らを見い出す恵みの時のはずでした。しかし、この281節にある「安息日」は、特別な「安息日」でした。

281節の「安息日」には、十字架の上で命をささげられた主イエスは、墓に葬られたままで、入り口は石で封じられていたのです。主イエスがいらっしゃらない。希望のかけらもない。復活日の前の日の「安息日」はそのような一日でした。そのような時間は、とても長く感じるものです。終わらないのではないかと錯覚するような時間だったのではないでしょうか。今年度の年間聖句は、「わたし(主イエス)は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ2820b)ですが、それと正反対の時間が、そこにはありました。

しかも、この「安息日」は、弟子たちにとって、格別に婦人たちにとって、その行動の大きな壁になっていました。1節には「墓を見に行った」とだけ記されていますが、他の福音書を読むと、その手には香料を携えていたことがわかります。十字架上で息絶えたイエスさまのご遺体を引き取って葬りたいとピラトに申し出たのはアリマタヤのヨセフという人物でした。日没と共に「安息日」は、始まろうとしていました。「安息日」が始まるとあらゆる労働が禁止されていましたので、葬るという行為ももちろん許されませんでした。あわただしく墓に運ばれ、必要最小限の処置をされただけだったと思います。婦人たちは、せめて丁寧に葬りの処置をしたい、お花も飾りたい、静かに祈りたいと願って墓に行こうとしたのです。しかし、それを妨げていたのが「安息日」でした。その「安息日」が終わり、暗い夜も終わり行動が可能になるのを今か今かと待ち焦がれていました。それゆえ朝早く出かけていったのです。大きな妨げであった「安息日」が終わったのです。

わたしたちの人生も、さまざまな困難と無関係ではありません。新型コロナウイルス感染と最前線で闘っていらっしゃる医療機関で働く方々は、“この闘いはいつまで続くのだろうか”、“本当に終わるのだろうか”と、まさに今、感じていらっしゃるかもしれません。

わたしたちがもし、大きな壁のような何らかの妨げと向かい合っていたとしても、あの長い「安息日」が終わったように、終わりの時は必ず来るのです。だから「恐れることはない」のです。

 

2)「大きな地震と天使」(2節〜)

「恐れることはない」という言葉の第2の根拠は、天からの、すなわち神ご自身の介入の存在です。2節以下には「大きな地震と天使」が言及されています。わたしたちは、大規模な爆発を起こして一時的に地面を震わせることも可能かと思います。しかし、大地が根底から揺れ動くような「大きな地震」を人の手で作ることはできませんし、またどんなに科学の粋を集めても地震を予測することも困難です。「地震」をコントロールすることはできません。また、「天使」という存在も、わたしたちが自由にできる領域を超えています。「大きな地震と天使」。いずれも、主なる神の介入であり、それが「恐れることはない」の根拠になっているのです。

神の介入は、わたしたちの知識、感性をはるかに超えているがゆえに、わたしたちにとって「恐怖」と感じられます。

4節以下には、「恐怖」を感じている2種類の人の存在が対比されて描かれています。「番兵たち」と「婦人たち」です。「番兵たち」は、単に、主イエスとそこにやってくるものの間に立ちはだかろうとしていた存在でした。なんのために自分がそこにいるのか、本当の意味では彼らは知りませんでした。ただ人から命じられたから、職務としてそこにいたのです。その者たちにとって、神の介入がもたらす「恐怖」は、「死人のようになった」すなわち、それ以上前に進むことのできない行き止まり以外の何ものももたらしませんでした。

一方「婦人たち」にとって、神の介入からくる「恐怖」は恐怖で終わりではありませんでした。むしろ始まりと言ってもいいでしょう。婦人たちは、天使から、主イエスが復活されたこと、遺体の置いてあった場所に何もないこと、弟子たちにその事実を伝えるようにとの新しい使命を与えられます。持ってきた香油は無駄になりましたが、主イエスが復活されたという喜びの前にまったく気にならなかったでしょう。婦人たちは、主イエスの死と直面するという絶望の中にもかかわらず、なおも「主イエスのために自分のできることは何か」という動機に基づいて行動していたのです。その姿勢が、「恐怖」を行き止まりとせずに、次の一歩、すなわち「恐れることはない」との言葉とつながりました。そして、その先にある、大いなる喜びにつながっていったのです。

 

3)「そこ(ガリラヤ)でわたしに会う」(7節b、10節)

ガリラヤで主イエスと会うという約束が、「恐れることはない」という言葉の3番目の根拠となっています。婦人たちは、天使に告げられた通り、弟子たちにそのメッセージを伝えようと走りました。その途上、復活の主イエスと出会います。そして主イエスご自身が、はっきりと「恐れることはない」と語られました。その時、主イエスは「わたしの兄弟たち」とおっしゃっています。天使が言ったように単に「兄弟たち」ではなく、「わたしの」と! なんとうれしいことでしょうか。そして「ガリラヤに行くように」というメッセージを繰り返されました。

ガリラヤとは、主イエスが宣教を開始されたところです。マタイによる福音書416節にあるように、暗闇の中に大きな光が差し込むという、預言者たちが預言し、人々が待ち望んでいたことが成就した場所です。弟子たち一人ひとりを招かれたところです。親しく語りかけられたところです。寝食を共にされたところです。主イエスが何を語られたのか、その時には本当の意味はわからないことばかりだったに違いありません。主イエスとの交わりそのものに、主イエスのご復活という“光”の中で、もう一度、目を向けるようにという勧めがなされているのです。

わたしたちにとっても、「ガリラヤへ」という言葉は大きな意味を持っています。「主イエスが復活されたのね。おめでとう。イースターおめでとう!」 そこで終わりではないのです。イースターの恵みの光は、わたしたちに、主イエスの語られた御言葉、すなわち福音書に収められている一つひとつの御言葉と、あらためて向かい合うようにと促しているのです。福音書に記されている主イエスの御言葉との出会いの中で、「恐れることはない」という御言葉の確かさが深まっていくのです。

 

「大きな妨げの壁のような時は終わる」「天からの介入がある」、そして「ガリラヤへ」という確かなメッセージの中で、「恐れることはない」という言葉をあらためて受けとめたいと思います。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

 

 

    

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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