2019.12.22
    

    

     

    

      

 

      

       

   

       救い主のしるし    

   詩編113:1〜9 ルカによる福音書2:1〜20

                          櫻井重宣 

 

クリスマスの恵みを覚え、こうして皆さんと御一緒にクリスマス礼拝をささげることができ、感謝です。わたしたちは毎年クリスマスの礼拝をささげておりますが、今お読みいただいた聖書の中で、主の天使が羊飼いたちに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げています。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」というのです。これはわたしたちに対しても、です。毎年の行事としてではなく、「今日」「あなたがたのために」、「わたしたちのために」「わたしのために」救い主がお生まれになった、この天使の知らせにわたしたちも心を動かし、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と主を拝むために立ち上がりたいと願っています。

 

今一度、クリスマスのメッセージに耳を傾けるために、多くの方にとって諳んじるほど親しんでいる個所ですが、二千年前の最初のクリスマスの出来事が記されているルカによる福音書2章に思いを深めて参りたいと願っています。

冒頭に、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令がでた。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」

アウグトウスは,当時ユダヤの国を支配していたローマの皇帝の名前です。

そのローマの皇帝がユダヤ全領土の住民に登録せよ、すなわち、住民登録、人口調査をせよ、との勅令を出し、総督のキリニゥスが実行したのです。住民登録、人口調査の目的は、今、自分が支配しているユダヤの国からどれだけ税金を徴収できるのか、兵隊を何人徴兵できるのか、それを調べるためです。権力者の関心は税金の額と兵隊の数です。正確を期すため、だれもが、自分の町に帰って、住民登録するよう求めたのです。たとえば、わたしは岩手県出身ですので,岩手で登録しなければならないのです。4節にはこう記されています

「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので,ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」

住民登録は正確を帰すため、権力者はいっさいの言い訳を許しません。病気だ、家族に病人がいる、高齢だ、家族に年寄りをかかえている、出産間近だ、そうした言い訳を許さないのです。ヨセフとマリアは、マリアが臨月であったにもかかわらず、ナザレからベツレヘムまで行って住民登録をしなければなりませんでした。ナザレからベツレヘムまで直線で 百キロ以上あります。山道ですから百三十キロとか百四十キロありました。マリアをろばに乗せても一週間以上かかったものと思われます。その間、野宿したのでしょうか。ようやく、ベツレヘムに着いたのですが、住民登録のためやってきた人で宿屋は満員でした。

ベツレヘムに着いてまもなく、洞穴のような家畜小屋で、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。

 

 救い主誕生の最初の知らせは野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに対してでした。

 この頃、ユダヤの社会では人々が住民登録のためせわしくしていました。みんなが自分の町に行って登録しなければならなかったからです。けれども住民登録を求められない人もいました。羊飼いたちです。羊飼いは身分の低い階層だったからです。羊飼いは夜通し羊の群れの番をしなければなりません。狼がきたとき、追い払わなければなりません。命の危険があります。もし羊を奪われたら、賠償しなければなりません。そういう羊飼いたちに、救い主誕生の知らせが真っ先に届けられたのです。

天使たちは「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。住民登録を求められる人だけでない、住民登録を求められず、身の危険を覚えながら、夜通し羊の群れの番をしなければならない羊飼いたちにも、すなわちすべての人に与えられる大きな喜びを告げるというのです。そして、「今日ダビデの町にあなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア、救い主だというのです。」天使はさらに「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と言いました。

 黄金のベッドに寝て、きれいな産着に包まれた乳飲み子が救い主のしるしだ、というのではありません。ありあわせの布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が救い主のしるしだと天使が告げたのです。

 

このように天使が告げますと、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言いました。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

栄光というのは神さまの神さまらしさです。わたしはいつもこの天使の賛美に思いを深くするのですが、救い主のしるしは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子だ、そうしたかたちで救い主がお生まれになったので、天で神さまの神さまらしさが示され、地では平和だというのです。 

 武力ではないのです。富ではないのです。何の力もなく、寒さにふるえている飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、そこに神さまの神さまらしさがあり、地に平和があるというのです。

 

 15節以下はこうです。

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と話し合って、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。

 羊飼いが目当てにしたのは、飼い葉桶の中に寝かせてある乳飲み子でした。黄金のベッドに寝ている乳飲み子ではありません。飼い葉桶の中に寝かせてある乳飲み子を捜し当てたとき,羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に伝え、聞いた者は羊飼いたちの話を不思議に思ったというのです。マリアはこれらの出来事をすべて心に納め、思い巡らしていました。

 

二千年前の初めてのクリスマスを伝える福音書を記したルカは、この2章に3回、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という言葉を繰り返しています。7節に「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」、12節に「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これが、あなたがたへのしるしである。」、16節に、羊飼いたちは,「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」、と。

すなわち、ルカは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、その乳飲み子が救い主のしるしだというのです。そして羊飼いたちは,見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

 

先ほど、詩編113に耳を傾けました。この詩には神さまの慈しみが記されています。詩人は、ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ、と歌います。「主の僕ら」は、主に仕える者、礼拝する者です。ですから、今、礼拝している、そのわたしたちに主を賛美せよ、というのです。今よりとこしえに主の御名がたたえられるように、歴史的な時間が続く限り、ハレルヤと言いなさい。さらに日の昇るところから日の沈むところまで。東から西まで。主の御名が賛美されるように、と言うのです。

 ここでも「主の御名」が1,2、3節で繰り返されます。「名前」はその人を言い表します。神さまがどういう方か、そのことを知って、そのことを覚えて神を賛美せよ、というのです。神さまは、すべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝いている。この神さまに並ぶものがない、と言います。どうして並ぶものがないかというと、神さまの御座は高いところにあるけれども、低く下って天と地を御覧になるというのです。低くくだるという語は、身をかがめる、もっと強く訳せば、地に投げ捨てるという意です。すなわち、詩編113の詩人は、高きにいます神さまが、ご自身を地に投げ捨て,地を顧みられる、神さまは、御自分を投げ捨て、地上の弱い者、乏しい者に、わたしたちに、わたしたちの世界に関わるというのです。低く下って、その人の苦しみを御自分の苦しみとする、御自分の苦しみとして抱え込むというのです。

 まさにクリスマスの恵みです。神さまは独り子イエスさまを地に住むわたしたちのところに最も貧しいかたちで、小さいかたちで贈ってくださった、そして弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥中から高く上げてくださったのです。

 聖書の中に、「神は,独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました」という言葉があります。神さまが御子を最も低いところに生まれさせたもう、ここに神さまの愛があり、わたしたちが生きるようになるのです。

 

水野源三さんという方がおられました。小学校4年のとき、赤痢による高熱のため、まばたきすること以外に意志表示の手段をすべて奪われてしまった方です。そのため、お母さんの作ったアイウエオ表で、御自分の意志を示し、さらにアイウエオ表を用い、まばたきで言葉をしめして、たくさんの詩、短歌を作った方です。19842月に47歳で亡くなりました。  

水野源三さんの信仰は、神さまは低くなられた方だということです。

亡くなる2年前、「低く低くなられた主よ」という詩を作りました。その詩はこういう詩です。

 低く低くなられた主よ あなたの御旨がある所に 私を導いてください

 低く低くなられた主よ あなたの御愛がある所に 私を近づけてください

 低く低くなられた主よ あなたの御跡がある所に 私を歩ませてください

  低く低くなられた主よ あなたの御声がある所に 

私を低く低くしてください

 

そして、亡くなる2ヶ月前のクリスマスに、「臥す私も」という詩を作りました。    

礼拝にゆけない 私のために 

母が買ってくれた テープレコーダーを買い替えて

礼拝のテープを ひとり聴けば

 

臥す私も 臥す私も

馬小屋に お生まれになられた

御子を礼拝する 羊飼いたちの中

  

 イエスさまが、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ているので、低く低くなられたので、臥すわたしも羊飼いと一緒に拝みに行ける、これが水野源三さんの信仰です。

 わたしたち一人一人も、低く低くなられた主を、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を拝みにいきましょう。

    (20191222日 クリスマス礼拝説教)

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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