2019.4.07
    

    

     

    祈りの輪の中に共におられる主  

   創世記18:22〜33  マタイによる福音書18:15〜20

                             櫻井重宣

 

今、わたしたちはイエスさまの十字架の苦しみを覚えるレントの一日一日を過ごしています。来週はイエスさまのこの地上における最後の一週間、受難週です。そして、本日は今年度の最初の日曜日です。わたしたちの教会にとって、この2019年度はとても大切な意味を持つ一年です。皆さんもそうかと思いますが、わたし自身緊張した思いでこの年度を迎えました。教会の主であるイエス・キリストがわたしたちの茅ヶ崎教会のこの一年の歩みを守り、導いてくださるよう、皆さんと共に祈りながら、この一年歩んで参りたいと願っています。

 わたしたちの教会は、この一年共に祈ることが大切な一年となりますので、2月の総会で、本年度の聖句にマタイによる福音書1820節の「二人または三人がわたしの名によって祈るところには、わたしもその中にいるのである」を選びました。

今日はこの年度の最初の日曜日ですので、この聖句に思いを深めます。

 

ただ今、マタイによる福音書18章15節〜20節を司会者に読んで頂き、御一緒に耳を傾けましたが、この18章は一つのテーマが追い続けられています。シュラッターという聖書学者は、この18章に「教会に対する原則」という題をつけています。ここには、教会が大切にしなければならない原則が記されているというのです。

そのためこの18章にどういうことが記されているか、最初に簡単に見ておきたいと思います。先ず、1節〜5節で、弟子たちがイエスさまのところに来て、いったい誰が天の国で一番偉いのでしょうか、と尋ねています。この世では大きいもの、強いもの、数の多いものが尊重されていますが、天の国ではどうなのかということが弟子の関心事でした。もちろん弟子たちは天の国だけでなく、自分たち12人の弟子の中で誰がいちばん偉いかが関心事でした。ルカ福音書には、弟子たちが十字架の死を前にした最後の晩餐の席でも、自分たちのうちでだれがいちばん偉いか議論していたことが記されています。だれが偉いか、それもこの地上のみならず、天の国に行ってからもだれが一番偉いのかということに関心を持つ弟子たちに、イエスさまは一人の子どもを呼び寄せて、彼らの中に立たせ、はっきり言っておく、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない、とおっしゃいました。大人の間に連れてこられた子どもは自分がいちばん小さいと分かります。イエスさまは、この子どもが、自分はいちばん小さいものであることを自覚するように、いちばん小さいのは自分だと、自分を見つめて欲しいとおっしゃるのです。

そして6節〜9節では、小さいものをつまずかせるものは、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められた方がましだ、それほど大きな罪だとイエスさまはおっしゃっています。

10節〜14節は、わたしたちにとって親しみのある百匹の羊を持つ羊飼いのことが記されます。神さまは小さいもの、弱いものをどれだけ大切にされる方ということをイエスさまが語っている有名なたとえ話です。10節にこう記されています。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように注意しなさい。彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」

イエスさまの優しさがにじみでています。イエスさまは、小さなもの一人一人を守る天使がいて、いつも天にあって神さまを賛美しているというのです。地上でどんなに小さいと思われる人も、天にあって大切にされているとイエスさまはおっしゃるのです。わたしたち一人一人にもわたしたちを守る天使がいるのです。そしてイエスさまはそうした一人一人がこの地上でも大切にされるためにこの地上においでになったのです。

そしてそのことがだれにでも分かるようにおっしゃったのが、百匹の羊を持つ羊飼いのお話です。百匹の羊を持つ羊飼いは一匹迷い出た時、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た羊を名前を呼びながら、どこまでも探しに行き、見つけたなら大喜びで戻ってくるというのです。

昔、ローマにカタコンベと言われる地下のお墓がありました。地下のお墓なので、迫害の激しい時代には、そこで礼拝がされ、壁画も描かれました。その中に、迷い出た羊を見つけ出した羊飼いがその羊を肩車して大喜びで帰ってくる羊飼いが描かれた壁画があります。そうしたところで礼拝する人々にとって、この光景は慰めそのものでした。

わたしは迷い出た羊を見いだし、大喜びで肩車して戻ってくる羊飼いを見ますと、わたしたちは、今、こうして主の日毎に礼拝していますが、この礼拝に出席できなかった方々の顔が見えないことにどこまで心を痛め、その人のため祈りつつ礼拝をささげているのだろうかと考えます。逆に、礼拝に出席できなかった方々が、今日の礼拝で、欠席したわたしのことを皆さんが心配し、祈りつつ礼拝をささげていることに思いを深めているのでしょうか。小さなものが滅びることは、神さまの御心ではないのです。

あるユダヤ人の聖書学者でしたが、神さまという方は探し求める方だ、と語っていましたが、この百匹の羊を持つ羊飼いの譬え話は、神さまは迷い出た者が一人でもいるとき、どこまでも探し求める方だということを語っています。神さまの一人一人への愛、神さまはどの人にも生きて欲しい、そのことを願っていることを語られています。

 

そして先ほどお読みいただいた15節をもう一度読んでみましょう。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」ここはていねいに訳しますと、もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したなら、です。罪を犯したのは、ほかならずあなたの兄弟です。それゆえ、行って二人だけのところで忠告します。もし聞き入れたら、あなたの兄弟を得たことになります。

16節は、聞き入れなければ、あなたと共に、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるためである、です。そして17節ですが、「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」とあります。教会は、あなたの兄弟のため真剣に祈るところだからです。わたしは教会がこうした使命を与えられていることを思うとき、厳粛な思いとなります。牧師はいろんな相談を受けます。皆さんからするなら、そこまで牧師がしなければならないのか、そうした相談を受けます。けれども、どうしようもない課題が教会に申し出られる、そのことに誠実に関わるのが教会なのです。そして、教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさいとイエスさまはおっしゃいます。

わたしはここを読むとき、いつも深い思いになるのは、神学校のとき、牧会学という授業がありますが、そのときトゥールナイゼンという神学者が書いた『牧会学』という書がテキストでした。その本には、ここでイエスさまが、異邦人や徴税人のように見なしなさいというのは、放り出せというのではなく、イエスさまが異邦人や徴税人にどう関わったか、たとえばザアカイやマタイにどう関わったかを思いおこせ、イエスさまは優しく関わった、そのイエスさまにお委ねすることだ、と記されていました。教会は、どんな人も裁いてならないのだ、と。

そして18節は、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」です。地上の教会と天上の教会が深い関わりを持つというのです。「つなぐ」とか「解く」ということで具体的にどういうことなのか、はっきりしないところがありますが、18章の流れでいうなら、解くということは罪の赦しで、つなぐことは神さまの裁きです。神さまの御旨、御心は赦しです。地上の教会の使命、役割はどこまでも解くこと、罪の赦しを差し出すことです。裁くこと、あなたはだめだということは簡単です。けれども神さまの御心にそって、どこまでも赦しを差し出す、そこに地上の教会の使命があるのです。

 19節は「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」です。ここで「はっきり言っておく」の原文は、「アーメン、アーメン、汝らに言う」です。イエスさまが弟子たちにこれは分かって欲しいと言うときの表現です。イエスさまはよく聞いて欲しい、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして祈るなら、神さまがかなえてくださる、すなわち、一人の魂が苦しんでいるとき、迷い出ているとき、罪を犯したとき、その人のために二人で心を一つにして祈るなら、神さまは聞き入れてくださる、というのです。教会の大切な使命はどんな人をも裁かないことです。

20節は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」です。一人の友のため二人または三人で祈るところにはイエスさまも一緒に祈っておられるというのです。

最後21節〜34節では、わたしたち一人一人が赦されたものであるので、友を赦せ、ということが語られています。一万タラントン、赦されているというのです。一タラントは6000デナリオンです。6000日分の労働賃金すなわち20人の人の一年間の労働賃金です。ですから一万タラントンは、2万人の一年分の労働賃金です。それほどの借金があるのに、主君は憐れに思って赦してくださったというのです。憐れに思うというのは、はらわたを揺り動かすという語です。それほど大きな借金があるのに主人は憐れに思って赦して下さったのです。けれどもこれほど赦されたのに、百デナリ、100日分の労働賃金を貸していた人を赦せないのがわたしたちです。

すなわち、この18章に記される教会の原則はこうです。小さい者をつまずかせることは大きな罪である、天では小さなものが大切にされている、イエスさまは、地において小さなものが大切にされるよう十字架の道を歩まれた、そうしたイエスさまを信じるものの群れである教会は、小さなものをつまずかせないように心を用いるだけでなく、小さなものをつまずかせたもののため祈れ、神さまの御心は赦しにある、それが教会の原則なのです。

 

先ほど、創世記18章に耳を傾けました。神さまが、堕落した町ソドムとゴモラを滅ぼそうとしておられます。そのとき、アブラハムはなお神さまの前に立って祈るのです。アブラハムは、自分は塵あくたに過ぎないものであるが、あえて申しあげます、あの町に50人正しい人がいるとしても滅ぼすのですか、と。神さまは正し人が50人いれば町全部を赦そうとおっしゃいます。けれども50人の正しい人を見いだせません。アブラハムは、正しい人が45人ならば、40人ならば、30人ならば、20人ならば、10人ならば、と尋ねるのですが、神さまはそのたびに滅ぼさないとおっしゃいます。

この問答の最初の22節に、「アブラハムはなお、主の御前にいた」と記されていますが、この個所のヘブライ語の原文は、「神がアブラハムの前に立っていた」です。アブラハムが神さまの前に立って執り成すに先立って、神さまがアブラハムの前に立って、アブラハムの祈りを待っておられるのです。

 

 この一年、神さまがわたしたちの前に立ってわたしたちが祈ることを待っておられ、わたしたちが数人で祈るとき、イエスさまがわたしたちの祈りの輪の中におられ、共に祈ってくださる、そのことに励まされて祈り続けたいと願っています。

           (2019年4月7日 受難節第5主日礼拝説教)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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