2019.2.10

 

      

     

 

         

  

      

    ハンナの祈りとマリアの賛歌   

  サムエル記上2:1〜11  ルカによる福音書1:46〜55

                             櫻井重宣

 

 おそらく皆さんもそうかと思いますが、今、多くの人が心を痛めているのは、千葉県の小学4年生の女児がお父さんからの虐待で死んでしまったことです。このことはわたしたちの国で問題になっているだけでなく、スイスのジュネーブにある人権問題の委員会でも大きな問題として取り上げられました。小さな命を守ることができなかった責任を痛感するわたしたちです。今回の事件だけでしょうか。

でなく、今、わたしたちの国で虐待されているのではないか、と心配し、全国にある210の児童相談所に電話してくる件数がこの一年間に12万件以上あったそうです。一日に300件以上の、いじめ、虐待のことを心配する電話が児童相談所にかかってくるという現実をわたしたちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。

 わたしたちがよりどころとし、耳を傾けている聖書において繰り返し語られることは、小さい者をつまずかせてはならない、ということです。牧師が、キリスト者が、教会が果たすべき責任を果たしているのか、と問われる日々です。わたしは、こうしたことに責任を果たせない自分であることを痛感しています。また、わたし自身、最近、牧師としての無力さを痛感する出来事を次々と経験しています。それだけに、本日、皆さんと御一緒に御言葉に真摯に耳を傾け、聖書に慰められたいと切に願っています。

 

さて、今朝はサムエル記上2章に耳を傾けます。最近、説教において旧約聖書を取り上げることが多くなっていますが、先日、ある方から新約も、というご意見を頂きました。わたし自身、新約聖書にも月に何度かは耳を傾けなければと考えていましたので、3月から新約聖書にも耳を傾けたいと願っています。

 

今日はハンナの祈りに思いを深めますが、ハンナという人はエルカナの妻です。ただエルカナにはもう一人ペニナという妻がいました。わたしたちは聖書の世界で妻が二人という記事があることにとまどいを覚えます。聖書ではホセアの影響が大きいかと思いますが、紀元前700年頃からは一夫一婦、夫と妻は一対一が確立しますが、それ以前の記事かと思われますが、複数の妻がいた人のこと、複数の女性から子どもを得た人のことが聖書に記されています。その一人のアブラハムはサラとの間になかなか子どもが与えられなかったので,サラの提案で女奴隷ハガルとの間にイシュマエルが与えられました。けれども、このことが妻サラを苦しめ、とくにその後アブラハムとサラの間にイサクが与えられますと、ハガルとイシュマエルは家から追い出されました。ヤコブにもダビデにもそうした葛藤があったことを聖書は記しています。聖書はホセア以前から一人の人が複数の妻を持つことへ警告を発しているのです。

 

 エルカナも二人の妻がいたゆえの葛藤がありました。妻ペニナには子どもがいたのですが、ハンナにはいませんでした。子どもが与えられなかったハンナが神殿で祈っているときのことがサムエル記上1章に記されています。

 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いたと記されています。そして、「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげします」と誓うのです。ハンナがこうして悩み嘆いて泣きながら長く祈っているのを見ていた祭司エリは、ハンナが心のうちで祈っていたため、唇は動いていたのですが声が聞こえなかったので、酔っているのだと思ったというのです。けれどもハンナは、わたしは酔っていません。「わたしは深い悩みを持った女です。ただ主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」と、エリに語ったのです。

 お隣の韓国に日本人として始めて留学した沢正彦先生は、韓国から帰って来るたびに、韓国のキリスト者はよく祈る、長い時間祈る。どうしてそんなに長く祈るのかと韓国の友人に聞いたとき、わたしたちは苦しいこと、訴えたいことが多いと言われた。それではわたしたち日本人キリスト者は訴えたいこと,苦しいことがないのか、と自分の信仰を問われたと語っていたことを思い起こします。わたしたちは今本当に祈らなければならないことが多くあります。

 

 ところで、ハンナはしばらくして男の子を与えられ,サムエルと名付け、サムエルが乳離れしたあと、神さまにささげ、サムエルは神さまのご用をする者となりました。こうしたときハンナが祈った祈りが2章に記されています。1節と2節をお読みします。

「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。

  わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。

  聖なる方は主のみ あなたと並ぶ者はだれもいない。

  岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」

 ハンナは聖なる方は主のみ 岩と頼む方はわたしたちの神のみ、と祈ります。

苦しいこと、訴えたいことが多くあったハンナを支えるのは、神さまが岩だ、という信仰です。神さまが岩というのは、試練のとき、苦しみのとき、神さまが岩となってわたしたちの前に立ちはだかり、わたしたちを守ってくださるということと共に、岩からしみでる水によって渇きを癒してくださるということです。

 3節は、「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる。人の行いが正されずに済むであろうか」、です。ハンナは神さまへ全面的に信頼しています。

4節から8節の前半をお読みします。

「勇士の弓は折られるが よろめく者は力を帯びる。

  食べ飽きている者はパンのために雇われ 飢えている者は再び飢えること

がない。子のない女は七人の子を産み 多くの子を持つ女は衰える。

主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。

主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。

弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ 

高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」  

 ハンナは、今は富んでいる者、力のある者が奢り誇っているが、こうした状態がいつまでも続くのではない、主、救い主の到来の時、立場が逆転する、弱い者を、貧しい者を塵芥の中から立ち上がらせてくださるというのです。

 そして8節の後半はこうです。

「大地のもろもろの柱は主のもの 主は世界をそれらの上に据えられた。」

大地の柱は主のものというのは、ハンナの信仰告白です。ハンナはこの世界の柱は、神さまだというのです。

 

 主が大地の柱となっているため、9節と10節はこうです。

「主の慈しみに生きる者の足を主は守り 

主に逆らう者を闇の沈黙に落される。人は力によって勝つのではない。

主は逆らう者を打ち砕き 天から彼らに雷鳴をとどろかされる。

主は地の果てまで裁きを及ぼし 

主に力を与え 油注がれた者の角を高く上げられる。」

人が勝つのは力ではない、主の慈しみによってだ、とハンナは祈り、油注がれた者、キリストの到来を待ち望むのです

 

 ハンナからおよそ1000年後、聖霊によって男の子を身ごもったマリアが、エリサベトのところに出かけたときに歌ったマリアの賛歌はクリスマスのときに思いを深める歌です。

 51節以下でマリアはこう歌います。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし

権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、

飢えた者を良い物で満たし 留める者を空腹のまま追い返されます。」

マリアは、ハンナの信仰が受け継ぎ、救い主の到来、イエスさまの誕生はこの世の秩序の逆転を引き起すというのです。

 けれどもおそらく皆さんもそうかと思いますが、イエスさまの誕生、救い主の到来によって、この世の秩序は目に見えるかたちでは逆転していません。子どもが大人から虐待され、死んで行きました。沖縄の人々は基地建設はやめて欲しい、自然を破壊しないでくださいと願いでているのに、辺野古では土砂が海に投げ込まれています。世界では再び中距離弾道ミサイルに搭載する核兵器の開発が進められるようになりました。  

 

ルカ福音書を読み進みますと、幼いイエスさまがヨセフとマリアに連れられてエルサレムの神殿にきたとき、イスラエルの慰められるのを待ち望み、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なないとのお告げを聖霊から受けていたシメオンに出会いました。シメオンが神さまの霊に導かれて神殿に入ったとき、この人だと示されたのは何の力もない幼いイエスさまでした。シメオンは、赤ちゃんのイエスさまを抱き、「主よ、今こそ安らかにこの僕を去らせてくださいます」と歌うのです。さらに、シメオンはそのとき、この幼子は反対を受けるしるしとして定められている、マリア、あなた自身も剣で心を刺し貫かれます、と語りました。すなわち、シメオンはイスラエルが、世界が慰められるには、この幼子が十字架の道を歩まざるを得ない、十字架の死を遂げなければならないと預言したのです。

 

 1月の「月報」に、カール・バルトがスイスのバーゼルの刑務所でのクリスマス礼拝で語った説教と説教前と後の祈りが一部ですが紹介されていました。とくに説教後の祈りでは、苦しんでいる人々のことが具体的に列挙され、さらにその人々に関わり、援助をする仕事に携わっている人たちが具体的に列挙され、クリスマスの光がこの人たちそしてわたしたちに明るく輝かせてください、と祈っています。

 このバーゼルでのクリスマス礼拝後の10年後の19681210日、カール・バルトは静かに召されました。召される数時間前には友人と語り合い、静かに眠りにつき、朝、ネリ夫人が声をかけようとした時、召されていたのです。召される数時間前に語り合った友人はトウルナイゼンという長年親しい交わりを持った牧師・神学者でした。二人がそのとき語り会ったのは、民主化されてまもないチェコにソ連軍が戦車で侵略し、プラハの春を終わりにしてしまったことでした。この出来事は世界中の人々が大きな衝撃を受けました。今から50年前ですが、プラハに民主化運動により春が訪れた、その喜びが戦車によってないがしろにされたのです。わたし自身、あのときの衝撃を忘れることができません。1964年の東京オリンピックの体操競技で三つの金メダルをとったチャスラフスカも、このソ連の侵略の渦中で大きな苦しみに直面し、その後民主化運動に従事しました。

 その夜、バルトとトウルナイゼンが電話で語り合ったとき、バルトが電話で語ったことはこういうことでした。「しかし、意気消沈しちゃだめだ! 絶対に!《主が支配したもう》のだからね!」

ハンナの祈りの言葉でいうなら、神さまがこの世界の柱となっておられるのだから、ということです。

 

 わたしたちは、今、厳しい状況に生きています。それだけにこの世界に、神さまがイエスさまを贈ってくださった。イエスさまはどの人の悲しみも苦しみも病も負い、十字架の道を歩んでくださった。そして三日目によみがえられ、この世界の土台、柱となってくださっている。そのことの重みを心に刻みたいのです。わたしたちが順境な歩みができずあえいでいるとき、わたしたちの前をイエスさまが十字架を背負いあえぎながら歩んでおられるのです。

 虐待で悩み、苦しむ子どもたちの苦しみ、痛みを共にし、涙するときは、イエスさまが一緒に涙を流してくださる、そういう姿でイエスさまが一緒にいてくださる、わたしたちの世界はそういう世界なのです。 

ハンナが救い主の到来を待ち望んで祈り、マリアが救い主を宿したときに歌っているのは、そのことではないでしょうか。

     (2019210日 主日礼拝説教)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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