2019.1.06

 

      

     

 

         

  

      

励ましを得るため                               

イザヤ40:1〜11  エフェソの信徒への手紙6:21〜24

 

新しい年2019年の最初の日曜日を迎え、こうして皆さんとご一緒に今年初めての礼拝を捧げることができ感謝しています。この一年はわたしたちの教会にとって大切な一年です。そのため、聖書に真剣に聴き、神さまの御心に謙遜に耳を傾けつつ歩んで参りたいと願っています。

わたしたちは、昨年、エフェソの信徒への手紙に耳を傾けてきましたが、本日はこの手紙の最後の箇所を学びます。何度か心に留めてきたことですが、パウロとエフェソの教会の間には祈りの交流、祈りの交わりがありました。もう少し言うなら、エフェソの教会の皆さんが背後で祈っている、そのことに励まされてパウロは多くの町に伝道したのです。使徒言行録を読んでいて心を動かされるのは、エルサレムに赴き、エルサレムの教会に諸教会から献げられた献金を届けようとしたときのことです。パウロの身近にいた人々は、パウロがユダヤ人でない異邦人に伝道しているので、パウロがエルサレムに行くと、パウロを快く思っていない人々がパウロの命をねらっているので、エルサレム行きを何としてでも思いとどまらせようとしたのですが、パウロは聞き入れませんでした。けれどもパウロも不安を覚えていたことは事実です。いよいよミレトスからエルサレムに向けて船に乗ろうとしたとき、パウロはエフェソの教会の長老たちに来てもらい、自分のために祈って欲しいと願い、祈りを共にするとともにエフェソの教会の長老たちには教会のことをよろしく、とくに教会に連なる一人一人は、イエスさまが十字架の上で血を流してまで命を与えてくださったお一人お一人だ、そうした人々が連なる教会をあなたがたに託すと切々と語ったのです。

 エフェソの教会の祈りの励ましに支えられ、パウロはエルサレムの教会に行き、諸教会の献金を届けることができたのですが、諸教会の人々が心配していたとおりパウロはエルサレムで逮捕されてしまいました。パウロはローマ皇帝に上訴し、囚人としてローマに護送されました。おそらくこのエフェソの信徒への手紙はローマの獄中から記された手紙です。パウロの晩年の手紙の一つです。

 

ところで、こうした祈りの交わりがあったエフェソの教会にパウロがあるいは最後になるかもしれないという思いで書き記したこの手紙の中心的なテーマは、教会はどういうところか、教会は何を語るのかということでした。とりわけパウロが心を込めて書き記したことは、イエスさまがどうして十字架の死を遂げたかというと、人と人との間にある敵意という隔ての壁を取り壊すためであった、イエスさまは十字架の死を通して、両者を新しい人に作り上げて平和を実現されたのである、教会は、主において一つだ、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保ってほしい、教会が語ることは神さまの愛がどれほど広く、長く、高く、深いかということだ、この神さまの愛に根ざして真理を語り、愛によって教会を造り上げてほしいと書き記したのです。何度読んでも襟を正されます。

 

 いよいよ今日学ぶ個所は手紙の最後です。621節をもう一度お読みします。

「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。」

 獄中にいるパウロは、エフェソの教会の人々が自分のことを心配しているに違いない、何とか様子を知らせたい、そして祈って欲しい、そのためにティキコをエフェソの教会に派遣するというのです。

 ティキコは、使徒言行録とコロサイの教会に名前が出てきますが、アジア州の出身で、とくにパウロの最後の伝道旅行を共にした人です。おそらく、最後のエルサレム行き、そして囚人としてローマに護送されるとき、そしてパウロが、ローマでの囚人として過ごしていたとき、身近にいた一人です。そのティキコをあなたがたのところに送る、ティキコはパウロの様子、いま獄中でどういうことをしているのか、それをあなたがたに話すだろう。ティキコは主に結ばれた、愛する兄弟で、忠実に仕える人だ、というのです。

あらためてパウロとエフェソの教会の間に祈りの交流があったことを心深く思わされます。

 そして22節でこう書き記します。「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。」

ティキコからパウロの獄中での生活、パウロが殉教の死を前にしてどういう歩みをしているか、どういうことを祈っているかが伝えられれば、あなたがたは励ましを得るに違いないというのです。「励ましを得る」という言葉は、慰める、励ますという意味を持つ言葉です。ですから、パウロの獄中でどんな生活をしているかが、ティキコから伝えられれば、あなたがたは慰められ、励まされるに違いないというのです。

先ほど、エフェソの教会へ宛てた手紙とともにイザヤ書40章の冒頭のところを読んで頂きました。イザヤ書40章から55章を書き記した第二イザヤと言われる無名の預言者が神さまから与えられた使命は、イスラエルの民を慰めることでした。生きることに疲れを覚えている時代、慰めを携えることは大切な使命です。

エフェソの教会の人々はパウロのことを本当に心配していました。パウロはエフェソの教会の人々の心配が分かり、ティキコを派遣し、自分の様子を知らせ、ティキコの報告を聞いて、励ましを、慰めを得て欲しいと願ったのです。

 

わたしは牧師という立場ですので、死を前にした人や、その人の臨終の場に居合わせることの多いものですが、一人の人がその人の人生を終えようとしているとき、そして臨終の時は本当に厳粛です。涙があふれ出るというより、体全体が緊張し、厳粛な瞬間です。

パウロは自ら伝道者として長年歩んできた人ですが、パウロがイエスさまにお会いし、伝道者となるに際し、大きな影響を与えたのはステファノの死でした。パウロがまだイエスさまにお会いする前、十字架で殺されたイエスさまを救い主と告白するキリスト者の存在はがまんできず、捕えては獄に送り込んでいました。けれども、ステファノが人々から石を投げつけられていたとき、イエスさまが神さまの右で祈っておられることを示され、イエスさま、この罪を彼らに負わせないでくださいと祈りつつ息を引き取ました。このステファノの死を前にしたときの姿はパウロの心に深く印象づけられました。

パウロは、自分はステファノの姿で慰められ、励まされ、後にイエスさまを信じるに至った、それと同じように、わたしが死を前にして獄中でどういう生活をしているかが、ティキコから伝えられれば、あなたがたは慰められ、励まされるに違いというのです。

 

そしてこの手紙の最後はパウロのエフェソの教会への祝福の祈りです。

「平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」

 先ほども心に留めたように、パウロがエフェソの教会に差し出すのは平和と信仰と愛です。

 

 わたしはまことに申し訳ないことにクリスマスの前から体調を崩してしまい、皆さんに心配をおかけしていますが、そのためクリスマスカードそして年賀状をどなたにも未だに書けないでおり心苦しく思っています。そうしたわたしですが、頂いた年賀状の中に、小さな教会で奉仕している牧師の連れ合いの方が年賀状にお書きになっていた文にとても励まされました。

こういう文です。自分はクリスマスのイヴ賛美礼拝で、ボンヘッファーの「良き力に」を朗読した。朗読するために何度も読んだ、そのたびに新しい力を与えられ、新年を迎えた、と。

 わたしたちの教会の先週の礼拝でも、このボンヘッファーの「良き力に」という詩から作った讃美歌21469番を歌いました。この詩は、獄中にあったボンヘッファーが1944年のおおみそかに作った詩です。自分は今獄中にあるので、おそらく最後のお正月になるかもしれない、新しい年をこういう思いで迎えたいという祈りから作った詩です。長い詩ですので、最初と最後を中心に紹介します。

 

「よき力に真実に、静かに囲まれ、すばらしく守られ、慰められて、

  わたしは現在の日々をあなた方と共に生きようと思う。

  そして、あなた方と共に新しい年へと歩んでいこう。

 

  古い年はなおもわれわれの心を苦しめようとしており、

  悪しき日々の重荷は、なおもわれわれを圧迫する。

  ああ、主よ、われわれのとび上がるほど驚いた魂に、

  救いをお与え下さい。

あなたはそのためにわれわれを造り給うたのですから。

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  今日はこのろうそくを暖かく、明るく灯らせておいてください。

  それはあなたがわれわれの暗闇の中にもって来て下さったものなのです。

  もし、できることなら、われわれがもう一度会えるようにお導きください。

  われわれは知っています。あなたの光は夜輝くのです。

 

  静けさが今、われわれのまわりに深く広がるとき、

  われわれにあの豊かな音を聞かせてください。

  目には見えなくてもわれわれのまわりに広がる世界の豊かな音を、

  すべてあなたの子らの高貴なほめ歌を。

 

  良き力にすばらしく守られて、

  何が来ようとも、われわれは心安らかにそれを待とう。

  神は、夜も朝もわれわれのかたわらにあり、

  そしてどの新しい日も必ず共にいまし給う。

 

そしてそれから3ケ月後の49日、イースター礼拝の翌日、ボンヘッファー牧師は処刑されました。ボンヘッファー牧師は処刑台にのぼる前にこういう言葉を家族に、お世話になった方々に伝えて欲しいとそばにいた親しい友に願いました。

「これが最期です。ー わたしにとっては生命の始まりです。」

 

 ステファノの最期、パウロの最期、そしてボンヘッファーの最期はわたしたちを励まします。ステファノも、パウロも、ボンヘッファーも十字架のイエスさまを証ししています。

新しい一年、よき力に静かに囲まれ、守られて、神さまがどの日も共にいてくださることに励まされ、歩んでいきましょう。

       (201916日 主日礼拝説教)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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