2018.12.09

 

      

     

 

         

  

      世に来てすべての人を照らす光

   イザヤ50:4〜7  ヨハネによる福音書1:6〜13

                             櫻井重宣

 

アドヴェントクランツにろうそくが2本灯りました。待降節第二の日曜日です。今、国の内外で心痛む出来事が相次いでいますが、それだけに、黄金のベッドではなく、旅先の家畜小屋のまぶねの中にお生まれになったイエスさまをわたしたちの真の救い主としてお迎えできるよう、クリスマスまでの一日一日よき心の備えをと願っています。

 今年のアドヴェントのとき、ヨハネによる福音書1章1節から18節に記されているヨハネ福音書の序言、プロローグを学びたいと願い、先週は1〜5節に耳を傾けました。その時思いを深めたのですが、福音書を書き記したヨハネは「初めに言があった」という文から福音書を書き始めています。ヨハネはイエスさまを「言」、ギリシャ語で「ロゴス」と言い表しています。これはヨハネの信仰告白です。ヨハネ福音書を日本語に初めて翻訳したオランダのギュッッラフという宣教師は、「言」を「かしこいもの」と訳しました。ロゴスはかしこいもの、人格をともなうそういう方だ、と言うのです。また、イエスさまを「言」というのは、イエスさまが「愛する」とおっしゃるとき、口先だけでなく、ご自分のすべてを、命までも注ぎ出してまで愛してくださる方だからです。ですから、言の内に命があり、その命は人間を照らす光であると、ヨハネは告白するのです。そしてどんな暗闇のなかでも、光は輝き、暗闇は光を理解しないというのです。口語訳は「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」です。

 

 今日は6節以下を学びますが、先ず6節は「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」です。ヨハネは、イエスさまの先駆者、イエスさまの道備えをした洗礼者ヨハネです。

 7節にはこう記されます。

「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

 福音書記者マタイとヨハネは「すべての」という言葉をよく用います。ここでもそうです。ヨハネの働きによって、すべての人が光であるイエスさまを信じるようになるためだというのです。ここで、証しすると訳されている言葉は、ギリシャ語でマルテュレオーです。初代の教会で迫害が激しくなり、イエスさまを証しした人が殉教の死を遂げることが多くなったので、証しするという言葉が殉教するという意味を持つようになりました。ヨハネもイエスさまを「この人を見よ」と証しして、殉教しました。

8節をお読みします。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

光はイエスさまで、ヨハネはどんなに注目されても光ではなく、光について証しするのが使命です。

9節以下はイエスさまのことです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」光であるイエスさまは、すべての人を照らすというのです。ここでも「すべての人」です。だれ一人、光であるイエスさまが照らさない人はいないのです。まぶねの中にお生まれになったイエスさまはすべての人に光を照らしておられるのです。

 10節にはこう書かれています。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」世の原語は「コスモス」です。秋に咲く花コスモスは均整がとれた美しい花ですが、けれども、人間の驕り、傲慢からコスモスは均整がとれなくなりました。今年一年、今まで経験しなかったような災害が相次ぎました。温暖化による、と指摘されています。ヨハネ福音書を読み進みますと、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」という文があります。福音が凝縮された文です。神さまが愛されたコスモスにイエスさまが来られたのに、コスモス、世はイエスさまを認めなかった、というのです。ここで「認める」と訳されている語は本来「知る」という語です。しかもこの「知る」は頭だけでなく、全存在をかけて知ることです。クリスマスの聖誕劇で、天使がマリアに受胎の告知をしたとき、マリアは、わたしはまだ男の人を知りません、と言っていますが、知るというのは頭だけでなく全存在をかけて交わることです。神さまが独り子をお与えになるほど、わたしたちに関わってくださるのに、人間の方ではいいかげんな関わり方しかしないのです。

 

11節もヨハネの思いがこもった文です。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」自分の民、民は両方とも、「自分のもの」という意味です。イエスさまは自分の者たちのところに来たのに、自分の者たちは言、イエスさまを受け入れませんでした。ここは、ギュッッラフ訳は、「人は自身の屋敷へ参た ただしは 自身の人間 人を迎いに出なんだ」、文語訳は、「かれは己の国に来たりしに、己の民は之を受けざりき」、柳生訳は、「いわば自分の家に来たのに、家の者から他人のような扱いを受けたのである」です。

 「自分のもの」ということで有名なのは13章1節です。十字架を前にして弟子たち一人一人の足を洗う記事のところです。こう記されています。「イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」、と。このところで、「世にいる自分の弟子たち」は直訳しますと、「世にいる自分のものたち」です。すなわち、イエスさまにとって、世にいるものは、わたしたちも含め、ご自分のものだ、とおっしゃいます。そしてイエスさまが十字架の道を歩まれたということは、ご自分のものたちへの極みまでの愛です。けれどもイエスさまがご自分のものを極みまで愛しておられるのに、自分の者はイエスさまを受け入れませんでした。福音書を書き記すヨハネの悲しみが伝わってきます。    

 12節はこうです。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」ここで「資格」と訳されている語は、エクスーシアです。エクスーシアは、あるものの外にいる、世の権威の外にいる、この世の枠を超えているという意です。神の子となるということは、この世の価値基準のお金、武力、この世の枠組みから離れることです。

 

クリスマスのとき、紙人形でクリスマスのときに登場する人物や動物を作って、ページェントを行なう本があります。『自分でつくるページェント』という本です。この本で、「わかいひつじかい」と「おじいさんのひつじかい」がこういうやりとりをします。「うまごやにあかちゃんがうまれた。それがほんとうのおうさまだって。じょうだんじゃない。おうじさまは おしろのなかにうまれることにきまっているんだ。おかねも へいたいも もっていないだいくのこがおうさまになるなんて おかしなことをいうものだ。おじいさんは しずかにこたえた。へいたいをもたず あらそうことをおしえず かみさまをおがみ   ひとをあいすることを おしえるおうさまだよ。ちからのおうさまではない。あいのおうさまだよ。ちからで ひとをおさえつけても へいわはこないのだ。わかいひつじかいも だんだんうれしくなってきた。そうだね おじいさん ほんとうにそうだ。さあ いそいでいこう。」

 

 昨日は128日でした。わたしたちの国は、77年前の128日にハワイの真珠湾を攻撃し、イギリスやアメリカとの戦争を始めました。秋田の教会で教会学校の教師を長年奉仕していた方は128日にこだわりがありました。それは結婚して一年もたたないうちに夫が召集され、夫はおなかのなかにいた赤ちゃんを見ることなく戦死しました。そして戦後、戦死したという公報とともに遺骨が戻りましたが、箱の中は砂粒だけでした。戦争は人間をこれほどそまつにする、ないがしろにする、と憤りました。そうした悲しみ、憤りを持ったその方が教会に導かれ、神さまがわたしたちに身を低くして愛してくださることに心動かし、キリスト者となりました。そして洋裁学校にお務めになり、教会では教会学校の奉仕をされました。毎年、その方は128日が近づくと、洋裁学校で、教会学校で戦争の愚かさを語っていました。イエスさまを信じることは、この世の枠組みからはなれることです。

最後の13節は、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」です。神の子とされた人は、人間の力ではなく、上からの力、神によって生まれたというのです。

 

 最後に今一度心に留めたいのは、イエスさまを証しした洗礼者ヨハネのことです。ヨハネは捕えられ、獄中での生活を強いられました。けれども獄中で、ヨハネは、自分は自分のあとに来る方、まことの光である方を指差してきた、自分はナザレのイエスを指差したが間違いなかったのかと深刻な思いになりました。もし間違っていたら、多くの人を惑わしたことになります。

 こうしたヨハネの問いは内村鑑三先生も晩年に覚えています。わたし自身そうです。50年近く、イエスさまを証ししてきましたが、もし間違っていたら、自分の50年の働きは無意味になりますし、わたしが関わった人にまちがったことを語ったことになります。

ヨハネは自分の弟子をイエスさまのところに遣わしました。イエスさまはヨハネの弟子たちにここで見聞きしていることをヨハネに伝えなさい、ひとりの目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き、重い皮膚病を患っている人が清くなり、貧しい人は福音を聞かされている、と。一人の苦しむ人、悩む人が立ち上がっている、いやされている、そのことを伝えなさい、とおっしゃるのです。

こうした問いを持ったヨハネに心引かれたのは今から500年も前の画家グリューネバルトです。イーゼンハイムという町の礼拝堂に「十字架のキリスト」という絵があります。絵の真ん中に、十字架上で息を引取ったばかりのイエスさまが描かれています。絵の左側には、悲しみのあまり倒れそうになったイエスさまの母マリアとマリアを支える一人の弟子と必死の思いで祈っているマグダラのマリアが描かれています。絵の右側に洗礼者ヨハネが描かれています。ヨハネは、イエスさまを指差しています。その顔には、自分が指差したのはこの方で間違いなかったというのでさわやかさがあります。

第二イザヤと言われる預言者は、すべての人に慰めをもたらそうとした主の僕は、苦難の道を歩むことを預言していますが、すべての人を救おうとされたイエスさまは十字架の死を遂げ、イエスさまを証ししたヨハネも殉教しています。一部の人が救われてよしとするなら、イエスさまは十字架の死を遂げなくてよかったのですが、すべての人を救おうとされると十字架の道を歩まざるをえなかったのです。

 

クリスマスが近づくと、毎年のように苦しむ人、悲しむ人に関わることが多くなります。町では、イルミネーションが美しくなっています。クリスマスの飾りが派手になればなるほど、苦しむ人々はひっそりせざるをえません。

ロシアの文豪ドストエフスキーは若いとき、政治犯としてシベリアに連れて行かれました。その日はクリスマスでした。親戚の家、友人の家の前をそりで連れて行かれました。本当にみじめな思いでした。夕方、近くの町の留置場に着きました。あまりにも憔悴していたからでしょうか、年老いた看守がドストエフスキーにこう言いました。「おい、若いのしっかりしろ。今日はクリスマスだ。イエスさまは馬小屋でお生まれになり、ぼろきれにくるまり飼い葉桶に寝かされたのだ。イエスさまの生涯は苦しみの連続で、最後は十字架に架けられ、殺されたのだ。今、君はつらく、苦しいだろうが、馬小屋にお生まれになり、十字架の死を遂げたイエスさまは君のそばにおられるよ。だから元気をだせ」

ドストエフスキーは生涯この言葉に励まされたと言っていますが、わたしもこの看守のことばに励まされます。

イエスさまを証ししたヨハネも殉教し、イエスさまは十字架の死を遂げました。すべて人を愛されたイエスさまが十字架の死を遂げられたことに限りない恵みが、慰めがあります。

  (2018129日 待降節第二主日礼拝説教)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

,