2018.11.04

 

      

     

 

         

  この人たちは皆、信仰を抱いて死にました  

 

   創世記48:15〜16  ヘブライ人への手紙11:13〜16

                          櫻井重宣

 

ただ今、わたしたちの教会の91年の歴史で神さまのみもとに召された方々、この教会で牧師、牧師夫人としてご尽力下さりみもとに召された方々、客員の方でこの教会で葬儀を行った方々、そして教会墓地に埋葬されている方々、そして教会員のご家族で今年召された方々のお名前を読んで頂きました。

 わたしが葬儀のとき、よく紹介する詩の一つに、アメリカのストックという婦人が作った『天に一人を増しぬ』という詩があります。

 詩の中にこういう一節があります。

「家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり

愛する顔いつもの席に見えぬぞ悲しき。」

「家には一人を減じたり 帰るを迎ふる声一つ見えずなりぬ

行くを送る言葉一つ消え失せぬ」

「家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れに堪えず

内に入れば空しき席を見るも涙なり」

ストック婦人はその度に「天に一人を増しぬ」とうたうのですが、ご家族を亡くされた方々、とくに最近ご家族を亡くされた方々は、おうちの中で召された方が座っておられた席を見るたびに、そしていつもかけ下さったお声が聞こえないので、さびしさ、悲しみを覚えておられると思います。教会でもそうです。わたしはこの教会に赴任して12年になりますが、この12年の間に、教会員や教会員のご家族やこれまで関わりのあった方々、30数名の葬儀を司りました。とくに今礼拝を共にした方々のお名前を聞きながら、あの方は礼拝のとき、いつもあそこに座っておられた、あの方の指定席はここだった、教会からお帰りになるときこういう言葉を交わした、そうしたことを思い起します。まさに、「教会には一人を減じたり」、です。

 本日は、教会員であったご家族を亡くされたご遺族の方々と御一緒に礼拝をささげているわけですが、召天者記念礼拝は、教会で兄弟姉妹と呼びかわしていた方々を追悼する礼拝ですので、礼拝に出席しているわたしたちみんなが遺族です。

 

今、創世記48章の15節と16節に耳を傾けました。創世記には、イスラエルの民が、自分たちの民族の歴史がスタートしたときのアブラハム、イサク、ヤコブの物語が記されています。先ほどお読みいただいたのは、ヤコブが高齢になって自らの生涯を締めくくるときが近いことを覚え、息子ヨセフを祝福している祈りの言葉です。ヤコブはこう祈ります。

 「わたしの先祖アブラハムとイサクが その御前に歩んだ神よ。

  わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ、

わたしをあらゆる苦しみから 贖われた御使いよ。

どうか、この子どもたちの上に 祝福をお与えください。

どうか、わたしの名と わたしの先祖アブラハム、イサクの名が

彼らによって覚えられますように。

どうか、彼らがこの地上に 数多く増え続けますように。」

 先週は、わたしたちの教会の教会創立91周年ということで記念の礼拝をささげました。わたしは今日まで、創立記念日の礼拝では、受け継がれてきた信仰、すなわち神さまはひとり子を賜うほどわたしたちを愛してくださった、イエスさまはわたしたちの罪を贖うために十字架の死を遂げてくださり、三日目によみがえられた、その信仰が受け継がれてきたことに思いを深めました。リレー競技でいえばバトンに注目しました。けれどもバトンに注目するとき、バトンを手渡すため一生懸命走り続けた人の名は背後に退いています。わたし自身も、いつの日か名前が忘れられる、それでよいと思っています。

しかし、このヤコブが死に臨んで祈った祈りは、アブラハム、イサク、ヤコブの名が覚えられるようにというのです。信仰というバトンを手渡しした人の名が覚えられるようにというのです。ヤコブの思いを言うなら、アブラハムもイサクもそしてヤコブ自身もその人生においてたくさんの失敗、破れ、苦しみ、あやまちを犯してきた、そういうアブラハム、イサク、ヤコブを神さまが愛してくださった、そして、何よりもわたしの生涯を生まれる前からそして生まれてから今日まで羊飼いとして導いてくださった、そのことを感謝し、その名が覚えられるようにというのです。

創世記を読みますと、わたしたちは、ヤコブがなかなか好きになれません。ヤコブのみにくさ、ずるがしこさが記されています。けれどもヤコブはこうした自分の生涯を神さまはいつも羊飼いとして導いて下さったことを感謝するのです。

 また、ヤコブは羊を飼う人でした。ですから、神さまが羊飼いとして自分の人生をここまで導いてくださっていることは正直な思いです。羊飼いは羊が迷子になったとき、どんなに時間がかかっても、やぶのなかでも探しに行きます。見つけるまで懸命に力を尽くします。探し出したとき、大喜びして肩車して家に帰ってきます。一歩間違えば、谷底まで落ちてしまうような死の陰の谷を歩むとき、必ず手をひいて一緒に歩みます。羊を守るために羊飼いは自分の命を失う場合もあります。ヤコブは死に臨んで、自分の生涯を今日まで導いてくださった羊飼いである神さまに感謝するのです。

 今お名前を読んで頂いたおひとりおひとりもそうです。一生懸命に与えられた馳せ場を歩み続けました。家族を、教会に連なる一人一人を愛してくださいました。与えられたお仕事をいつも誠実にされました。けれどもだれでもそうですが、人間としても弱さ、破れをお持ちになっていました。けれども、わたしたちが心に留めたいことは、今お名前をお読みしたお一人おひとりの人生をイエスさまが羊飼いとして導き、最後のときすなわち死の陰の谷を歩むとき、イエスさまが手をつないで御国へと導いてくださったのです。ヤコブの思いからすれば、信仰を受け継いだ一人一人の名を覚えていくことは大切なのです。

 

 先ほど耳を傾けたもう一つの書はヘブライ人への手紙でした。迫害が激しくなり信仰生活.教会生活を共にしてきた人たちが殉教する、そうした人たちの死をどう受けとめるか、神さまの御心をこの著者は問い続けます。

 この手紙の著者は旧約の歴史に登場する人たちのことを語るのですが、先ず「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」というのです。先ほどのヤコブの祈りの言葉でいうなら、自分の人生は羊飼いであるイエスさまに導かれ続けた人生であったという信仰です。そのあと13節の後半から16節にこう書き記されています。

「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表わしているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天のふるさとを熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」

 

わたしはこの教会に来る前、広島教会で奉仕させて頂きました。広島教会でも11月最初の日曜日は召天者記念礼拝を守り、そして召天者のお名前をお呼びします。大きな違いがあるのは、広島教会では、194586日から一ヶ月位の間に亡くなった方のお名前が30数名続いていることです。言うまでもなく原爆で亡くなった方々です。その当時の牧師は、牧師としてつらかったのは、原爆が投下されて2、3週間で亡くなった方々のだれひとり葬儀を司ることができなかったことだ、とおっしゃっています。そして信仰的にこの人々の死をどう受けとめたらよいのかを牧師は問い続けました。原爆が投下されて15年目、ようやく礼拝堂が再建できたとき、原爆で亡くなったお一人おひとり、約束されたものを手に入れなかったが、天の故郷を熱望していたひとりひとりだったということにあらためて思いを深くし、慰められ、この新しい会堂の基礎となっているのは原爆で亡くなった方々の信仰だ、祈りだということを教会全体で確かめました。

 

殉教した方々の死をどう受けとめたらよいのか、そうした問いの中で記されたヨハネの黙示録には、この地上で大きな苦しみ、痛みの中で召された人たちに神さまは白い衣を用意され、そして神さまのみもとで、イエスさまが羊飼いとなっておられ、命の泉へ導き、神さまが彼らの目から涙をことごとくぬぐってくださることが記されています。

 

 本日の週報と一緒に皆さんにブロックホルストが描いた「よき羊飼い」という絵のコピーをお渡ししました。イエスさまは、わたしはよい羊飼いとおっしゃっていますが、この絵に羊飼いであるイエスさまが描かれています。イエスさまの足は、はだしです。羊飼いのイエスさまは小さな羊を抱っこしています。たくさんの羊がイエスさまのあとについて歩いていますが、先頭の羊がイエスさまに抱っこされた子羊を見ています。そして子羊を見上げている目はイエスさまをも見上げています。

この絵はこういう絵だと言われます。イエスさまに抱っこされている羊は幼くして、若くして召された方です。先頭にきてイエスさまに抱っこされている子羊を見上げているのは子どもを亡くした親です。深い悲しみのただ中で、子羊がイエスさまに抱っこされていることを知り慰められています。イエスさまが生きている時だけでなく、召された一人ひとりの羊飼いとなってくださっていることを知って、自分もまたイエスさまのあとをついて行くのです。 

 

この一年、愛する家族の死に直面された方々がいます。召された方は、神さまのみもとにあってイエスさまが羊飼いとなっている、イエスさまに抱っこされています。そのことに慰められながら羊飼いであるイエスさまのあとについていく、それがわたしたちの信仰生活です。

 長年、東京の富士見町教会の牧師をされた島村亀鶴先生は、子どもさんを二人亡くすという大きな悲しみを経験されました。自分もつらいので、その子どもたちの母親である妻を慰める言葉がない。そのとき、先輩の牧師が、この絵のことを教えてくれたというのです。召された幼子をイエスさまが抱っこしている、天にあってイエスさまに抱っこされている子どもさんを見ながら、そして子羊を抱っこするイエスさまを見つめながら、あなたがたもイエスさまに従ってほしいと、語ってくださったというのです。

どうか、深い悲しみの中にある方々が、「生きている時も、死ぬ時も」羊飼いとなっていてくださっているイエスさまから慰めを、と祈ります。

      (2018114日 召天者記念礼拝説教)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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