2018.6. 17


 

神は愛である

   イザヤ書49:14〜16  ヨハネの手紙 一 4:9〜10

                        櫻井重宣

聖書が初めて日本語に翻訳されたのは今から181年前、1837年です。翻訳したのはオランダの宣教師のギュッッラフという人です。ギュッッラフは、その頃まだキリスト教が伝えられない中国や日本に伝道を志し、そのため聖書を翻訳することを願いました。聖書をすべてを翻訳するには膨大な時間を必要としますので、先ず、ヨハネによる福音書と今、お読みいただいたヨハネの手紙を翻訳し、それを携えて中国や日本で伝道しようとしました。ギュッッラフがどうして聖書の中でヨハネによる福音書とヨハネの手紙を翻訳したかといいますと、自分がこれから伝道しようとする中国や日本の人たちに、神さまは愛でいますこと、すなわち神さまはだれをも、どんな時にも愛してくださる方だ、どれだけの思いで愛されたかというと、神さまにとって一番大切な神さまのひとり子イエスさまをわたしたちに与えても惜しくない、それほどまで愛してくださった、そうした神さまの愛を中国の人たちに、日本の人たちに伝えたかったからです。

中国訳に続いて、日本語訳ができたのが1837年でした。それを、先週、アメリカと北朝鮮の首脳会議が行われたシンガポールで1690冊発行しました。

 実は、この日本語訳に大きな貢献をしたのが、岩吉、久吉、音吉という三人の漁師でした。この三人は1832年、まだ江戸時代ですが、尾張の国、今の愛知県から江戸に食糧を運ぶ運搬船の乗組員だったのですが、途中で、嵐のため船が難船し、一年近く太平洋を漂流しました。ようやく、アメリカの西海岸にたどりついたと思ったら、原住民の人に捕まってしまい、奴隷にさせられました。この奴隷になった三人を、お金を出して買い取ったのが、ハドソン湾会社の社長でした。そして自由の身となった三人がロンドン経由で日本に帰る途中、マカオでギュッッラフに出会い、ギュッッラフと生活を共にしながら聖書翻訳に協力したのです。三人の協力を得て、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙の日本語訳を完成したギュッッラフは、それを携えて三人の漁師とともに「モリソン号」という船で、日本に来たのですが、どの港でも外国の船の入港を拒み、大砲を撃ち上陸させませんでした。数年ぶりに日本に帰れる、日本の土を踏めると喜んでいた三人は、船の上から日本を見るだけで上陸できませんでした。三人の中で一番年長の岩吉は「わしは生みの親に捨てられ、今度は国に捨てられた」と嘆き悲しみました。その岩吉もしばらくして、「そうか、お上がわしらを捨てても、決して捨てぬ者がいるのや」と言いますと、音吉が「ほんとや、ハドソン湾会社の社長のようにわしらを買い取って救い出してくれる方がおられるのや」と言って共に慰め合ったというのです。三浦綾子さんは『海嶺』という小説で、ギュッッラフのことそして三人の漁師のことを書いていますが、三浦さんがこの小説で繰り返し語ることは、どんなことがあってもわたしたちを捨てない方がおられるということです。

 

わたしはあらためて、ギュッッラフが中国や日本の人に、神は愛である、神さまはどんなときにもわたしたちを捨てることはない、わたしたちの味方であることを知って欲しいと言う願いから日本語への翻訳に着手し、岩吉、久吉、音吉という三人の漁師に協力を得たのですが、この聖書翻訳に協力した三人は、日本のどの港でも上陸を許されず、結局再び日本の土を踏むことができなかったということに思いを深くさせられます。けれどもこの三人は、わたしたちを捨てない方がおられる、どんなときにも神さまは愛である、そのことを告白するに至ったのです。そうしたことが日本の伝道の最初にあったということをわたしたちは心に深く留めたいのです。

 

実は、神さまは愛であるということはヨハネ福音書やヨハネの手紙だけでなく、聖書は66の書から成っていますが、聖書が語ることは、神は愛である、神さまはどんな人をも愛される方だということです。

 先ほど、イザヤ書49章の言葉を読んで頂きました。この箇所を書き記した預言者が生きた時代は、イスラエルの歴史で本当に暗い時代でした。イエスさまのお生まれになる五百数十年前、バビロンという大きな国と戦争して負け、国民の多くが捕虜として千キロ以上離れたバビロンへ連れて行かれ、バビロンでの生活が40年、50年と続いた時代でした。故郷に帰れるという希望もなくなり、人々の口からでるのは「神さまはわたしたちを忘れた」「わたしたちの道は神さまに隠されている」「神さまはわたしたちを見捨てた」というつぶやき、うめきの言葉だけでした。

 こうしたなかで、預言者は、わたしたちが到来を待ち望んでいるメシア、救い主は、決してかっこうのいい人でない。お金持ちではない。戦争に強い人ではない。そうではなく、どんなに弱っている人も、病気の人も、小さな子どもも、年とった人も抱え込む方だ、また、その人を抱え込もうとすると、罵倒されたり、軽蔑されたり、無視されたりすることがあっても、それを真っ正面から受けとめ、御自身は困難な道、苦難の道を歩まれる方だと語ったのです。そして先ほどわたしたちが耳を傾けたイザヤ書49章には「神さまはどんなことがあってもわたしたちを忘れない」「神さまはわたしたち一人一人の名を手のひらに刻みつけている」と語ったのです。

 インドのカルカッタでよき働きをしたマザー・テレサは、この預言者の言葉にいつも励まされていました。そしてこう語っています。

 「忘れないでください。あなたは神の手の中にいることを。そして、あなたが苦しんでいるまさにその時に、神のまなざしがあなたに注がれているということを。あなたは、神にとってかけがえのないものだ、ということを。」

 わたしたち一人ひとりに対しても神さまはそういう方なのです。わたしたち一人ひとりの名前も神さまの手のひらに刻みつけられ、神さまのまなざしが注がれているのです。

 

わたしは今年伝道者として歩み始めて50年目です。遅々とした歩みしかできなかったことを思わされていますが、こうした自分の50年の牧師としての歩みにおいて、いつも牧師としての原点に立ち返らされる一人の人との出会いを思い起こします。

その人は島秋人さんという方です。島秋人さんは満州で生まれ、戦後新潟に引き揚げて来たのですが、お母さんはまもなく病気のため亡くなりました。御自身も結核やカリエスになったこともあり、小学校・中学校の9年間、欠席が多く、成績はいつもビリでした。25歳のとき、おなかが空いて農家に侵入し2千円を奪って逃げようとしたとき、その家の奥さんに騒がれ、気がついたときは殺してしまっていて、逮捕され、死刑が宣告されました。獄中で生まれてから25年の歩みを振り返ると、思い起すのはつらいこと、悲しいこと、病気のこと、バカにされたことだけで、うれしいことや、小学校、中学校で先生からほめられたことは一つも思い出せませんでした。悲しい思いになっていたとき、ほめられたことを一つ思い出しました。中学の図画の時間に吉田先生がお前の絵はへたくそだが構図がうまい、とほめてくれたことです。島さんはうれしくなって吉田先生に手紙を書きました。自分は先生に本当に申し訳ないのですが、大きな過ちを犯してしまった。今、獄中にいます。でもさびしいので、できたら子どもたちが描いた絵を一枚でも二枚でも送って欲しい、と。吉田先生は直ぐ返事をくださいました。君のことをよく覚えている、罪の重さを深く心に刻み、獄中で一日一日心豊かに生きて欲しい、自分の方こそ教師として君をそこまで追い込んでしまったことに責任を覚えている、君のため毎日祈っている、と。そして子どもたちの描いた絵を数枚送ってくださいました。それだけでなく、吉田先生の奥さまも心のこもった手紙をくださり、その手紙の最後に短歌が三首記されていました。この吉田先生ご夫妻の手紙と子どもたちの絵そして奥さんの手紙と3首の短歌が島さんの心の扉を開き、短歌を詠むようになりました。その後、新聞に投稿し、アララギの窪田空穂先生の目にとまり、毎週のように入選するようになりました。

 歌を詠みはじめてまもなくお父さんのことを詠んでいます。

「図書館に時をり行きて老いし父死刑囚われの短歌見るといふ」

「わが罪を証人台に泣きたまひ泣きたまひつつ詫びくれし老父」

そして

「良き事は少しのままに過ぎたれど憶へば愛しき(かなしき)わが少年期」

「ほめられしひとつのことのうれしかりいのち愛しむ(いとしむ)夜のおもひに」 

ほめられたことがたった一回あった、そのことを思い起したとき、自分の少年時代、愛に包まれていたというのです。お父さんの深い愛を覚えるのです。そして自分の人生は神さまの愛に包まれていたことを心の底から覚え、獄中で洗礼を受けたのです。

処刑される日、お詫びする日が迫ってきたとき、かつて、つらいこと、いやなこと、病気のこと、いじめられたことか思い出せなかったのに、自分の人生はやさしさに包まれていたことを心深く思い、こう詠みました。

「詫びる日の迫り来し今ふるへつつ 憶ふことみな優しかりけり」

そして1967112日、処刑されました、

 

 わたしは大学生のとき毎週日曜日の朝、新聞を購入し、歌の欄に毎週のように掲載される島さんの短歌を楽しみにしながら教会に通いました。今回、皆さんにあらためて島さんのことをお話ししたいと思ったのは、最近子どもさんへの虐待とか、誰でもいいから殺したいと思ったとか、お金目当てで人の命を奪うことがあまりにも多いことにキリスト者として、牧師として責任を痛感しているからです。今の時代、島さんが大きな罪を犯して獄につながれたときのように、自分を愛する人はいない、自分はほめられるどころか無視されていたと思っている人が多いのではないでしょうか。こうした苦しみを抱えている方に、あなたのことを愛している人がいる、あなたの味方の人がいることを教会は伝える責任があることをひしひしと思わされています。

 

わたしは若い時、30代と40代、秋田の教会で奉仕させて頂いていたとき、親しい交わりを与えられていた眼科の医者がいました。わたしより二つか三つ若い方でしたが、その方は、学校の健康診断に行くと、目の輝きが消えている子どもが多い、どうしてなのか、眼科の医者としてやるべきことがあるのではないか、ということをいつも考えていました。

 そのことを考えていた彼が、あるとき読んだ犬養道子さんの『人間の大地』から自分がなすべきことを示されました。この本の中にタイの難民キャンプで犬養さんが経験した出来事の報告が記されています。あるとき、難民キャンプに一人の衰弱した4つか5つの男の子が運び込まれました。親や兄弟は死んでしまったのかはぐれたかだれもいません。国際赤十字団の医師・看護士たちはクスリを、流動食を与えようとしたのですが、男の子は受けつけませんでした。幼い心にこれ以上生きていてどうなる、という絶望した思いがあったようです。ボランティアのピーター青年が特別な許可を得て、その子を抱き続けました。一晩中、蚊にさされながら抱き続けました。その子が何も食べようとしないのでピーター青年も食べることができません。ピーター青年がその子を手放すのは自分がトイレに行くときだけです。頬をなで、耳もとで子守歌や自分の知っている歌を歌い続けました。朝になっても変化はありません。二日目も一日中抱き続けました。二日目の夜も一晩中抱き続けました。三日目の朝、反応があったのです。その男の子がピーター青年の眼をじっと見て笑ったのです。「自分を愛してくれる人がいた。自分を大事に思ってくれる人がいた。自分はどうでもいい存在ではなかった」、この思いが少年の顔と心を開かせたのです。ピーター青年は喜びのあまり泣き,泣きながら勇気を与えられ、クスリを、スープを差し出すと、少年は飲み始めたのです。その場に居合わせた犬養さんをはじめスタッフの人々は、大切なのは愛であると、深く思わされました。

 秋田の眼科の医者は、子どもたちの眼が輝いていないのは、どんなことがあっても自分を裏切らない、自分の味方となってくれる存在を子どもたちのからだで覚えることができないからではないかということで、眼科に来た子どもたちに点眼のクスリを渡すとき、「抱っこ点眼 〜お母さんへの手紙〜」を渡すことにしました。その手紙にこういうことが記されています。

 1.子どもをだっこして、両眼に目薬をつけてあげてください」

 2.一滴で十分ですが、点眼後はクスリがしみるまで,眼をつむったまま開けないように言い、5分間以上抱くこと。

 3.体位は、なるべく子どもの背を寝かせて、くつろがせる様にする。

 4.そしてお話しをしてあげて下さい。生まれたときのこと、赤ちゃんの時の

こと、話しがつきたら子守歌を歌ってあげてください。できるだけ甘えさ

せるようにしてください。

 5 慣れてきたら、高学年の子の場合、学校のこと・先生のこと・本音とたてまえ・世の中自分の思うようにいかないことがある等、互いに話し合うようにしてください。

 6.子どもと自由に会話しながら、心のつながりを深めてください。そして最後に必ず「どんなことがあってもお母さんは、お父さんは、○○ちゃんの味方だよ」と毎回話してあげてください。

 

 今、毎日のように心痛む出来事や事件が報じられています。とくに、3月に死んだ結愛ちゃんが若い両親からの虐待による死亡であったこと、5歳の結愛ちゃんが「もうゆるしてください」、と書いた手紙があったことが2週間前に明らかになり、多くの人が衝撃を受けています。この事件で、結愛ちゃんだけでなくその両親のことも心痛みます。愛されてきた、そのことを心深く思うことができない今日までの歩みであったのでしょうか。

 

3月の最初の日曜日、わたしたちの教会では100歳の方の誕生を祝って、礼拝後みんなで誕生日の讃美歌を歌った。

「生まれる前から 神さまに守られてきた友だちの 誕生日です。おめでとう。

 生まれて今日まで みんなから愛されてきた友だちの 誕生日です おめでとう」

 子どもたちだけでなく、わたしたち一人ひとりも誕生日を迎えるとき、この讃美歌へ思いを深くしたいと願うものです。

 それだけではなく、これからこの地上を終えるまでの一日一日も神さまは愛し続けてくださる、どんなに弱ってもわたしたちは神さまの慈しみ包まれて最後まで歩み続けることができるのです。そして召された後も神さまの愛に包まれているのです。神さまが愛であるということはそういうことではないでしょうか。

 

 最初に紹介したギュッッラフは、神さまを「ゴクラク」と訳し、愛する、を「カワイガル」と訳しました。お利口なら極楽に行けると考えられていた日本で、ゴクラクがどんな人をもカワイガルということは大きな驚きでした。

今の時代、わたしたちは、「神は愛である」ことに込められる神さまの大きな愛がどの人にも注がれていることを一人でも多くの方に知って頂きたいと切に願っています。

     (2018617日 春の伝道礼拝説教)