2017.6. 18

 剣をさやに納めなさい    

イザヤ書11;1〜10  マタイによる福音書26:47〜56

 櫻井重宣

 

新しい年2018年を迎え、今日は最初の日曜日です。こうして皆さんと新年最初の礼拝を守ることができましたことを感謝しています。

 

さてクリスマス礼拝で、イエスさまが十字架に架けられる前の夜、ゲッセマネの園で祈られたことを学びましたが、今日の箇所はいよいよイエスさまが逮捕される場面です。

もう一度47節をお読みします。《イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。》

イエスさまがゲッセマネの園に行き、祈り始めたときは、十二人の弟子が一緒でした。イエス様が、血の滴るような汗を流しながら、「できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っていたときに、十二弟子の一人ユダはその場を抜け出し、あらかじめ祭司長たちと打ち合わせしていたものと思われますが、剣や棒を手にした大勢の群衆を連れてイエスさまを捕まえにやってきました。福音書を書き記したマタイは、このときイエスさまを捕まえにやってきたのは十二弟子の一人ユダであった、しかもイエスさま一人を捕まえるために祭司長たちや長老たちが遣わした大勢の群衆も剣や棒をもってやって来たというのです。イエスさまお一人を捕まえるには、ものものしく、おおげさです。

そしてさらにショックなのは48節と49節です。

《イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。》

当時の習慣では、師と弟子の間では接吻が挨拶のしるしだといわれていますので、ここでユダがイエスさまに接吻したのは特別のことでなかったかもしれません。けれども当時の習慣といっても師弟の関係がなければ、互いに信頼関係がなければ接吻はなされません。それなのに、愛を、信頼を、尊敬を表現する接吻を、ユダはイエスさまを引き渡す合図にしたのです。

こうしたユダにイエスさまはどう対応されたかと言いますと、50節です。

《イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。》

接吻を、イエスさまを引き渡す合図にしたユダに、イエスさまは「友よ!」とおっしゃっています。ユダに対して3年間、誠意を尽くしてこられたイエスさまは、接吻を合図にイエスさまを引き渡そうとしたユダに、イエスさまはなお「友よ!」と呼びかけられています。

「友よ」という語はマタイ福音書で何回か用いられていますが、イエスさまの心を心としない人々に、イエスさまが何とかわたしの思いを知って欲しい、あなたはわたしにとって大切な人だ、という思いでイエスさまが用いるときの言葉です。

パウロは、フィリピの教会に宛てた手紙で、イエスさまは「十字架の死に至るまで従順であられた」と書き記しています。あるいはテモテに宛てた手紙では、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは真実であられる」と書き記していますが、まさにここでイエスさまがユダに「友よ!」とおっしゃったことはそのことです。

明日は成人式です。わたしたちの教会でも明日成人式を迎える若い方のために今日は礼拝に引き続き、その人に神さまの祝福が豊かにあるようにと祈るときをと願っていました。けれどもその方が体調を崩されたので、来週にそのときを持ちたいと願っています。成人式を迎える若い人にお伝えしたいことは、そして新しい年の歩みを始めようとしているわたしたち一人一人が本日のこの礼拝で心に留めたいことは、わたしたちがぐらついたり、イエスさまに誠実でないことがあったとしても、イエスさまはどんなときにもわたしたちに対して誠実であられる、愛でいます、ということです。わたしたちに対する神さまの愛、真実は微動だにしないのです。

 

こうしたときに思いがけないことが起こりました。51節です。

《そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。》

イエスさまは平和を実現する人々は幸いである、とおっしゃり、人に関わるとき、力ではなく、愛をもって関わることの大切さを三年間弟子たちに伝えてきました。武力を否定してきました。しかし、ユダが先頭になってイエスさまを逮捕しようとしてやってきたこともショックでしたが、イエスさまと一緒にいた者の一人、おそらく弟子の一人と思われますが、剣を抜いて、大祭司の手下に打ちかかり、片方の耳を切り落としてしまったのです。その場に居合わせた人も、何よりイエスさまご自身、大きな衝撃でした。イエスさまの弟子の一人がイエスさまを捕まえに来た人の片方の耳を切り落としてしまう、いわば暴力を働いたからです。

福音書を記した人も、このときの出来事をどう受けとめたらよいか、とまどっています。マルコ福音書によれば、暴力を働いたのは、居合わせた人々のある者です。ルカ福音書によればイエスの周りにいたある者、ヨハネ福音書によれば、シモン・ペトロ、手下の名前はマルコスであった、と。そしてルカはこうしたことが起こってしまったとき、イエスさまはその耳に触れていやされたことを記しています。

そして、マタイだけが記しているのですが、イエスさまと一緒にいた者の一人が剣をぬいて、大祭司の手下の片方の耳を切り落としたとき、イエスさまがおっしゃったのは、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」ということでした。剣を明確に否定し、剣をさやに納めることを求めておられます。

そして、続けておっしゃることは、《わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう》と。「十二軍団以上の天使」とありますが、一軍団は6千人ですので、天使の数は7万2千人です。

90周年の式辞において紹介させていただきましたが、宗教改革者のカルヴァンは、神さまは福音を地の果てまでもたらすとき、神さまお一人でなすことも、天使を通してなすこともおできになるが、神さまはそうした方法をおとりにならない。どんなに時間がかかっても、エネルギーを必要としても一人から一人というかたちで福音を地の果てまでもたらそうとされる、ということを書き記しています。本当に慰めに満ちた言葉です。

ここで語られていることはまさにそのことです。剣や棒を手にしてイエスさまを捕まえにきたとき、数万人の天使を遣わして、剣や棒をもって捕まえにやってきた人に対抗しようと思えばできるがそうしたことはしない。イエスさまは、力には力でという方法をおとりにならずに、十字架の道を歩まれるのです。

そして、群衆にこうおっしゃいました。《「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしが毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いていたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった》、というのです。  

弟子たちは一人残らずイエスさまを見捨てて逃げてしまい、イエスさまの三年間の歩みの最後はだれからも助けられず、逮捕され裁判にかけられたのです。

 
 今朝、わたしたちはイエスさまが逮捕されるときのことを、マタイ福音書を通して見てきましたが、あらためて、イエスさまは弟子たちには剣をさやに納めることを求め、また天使を数万人神さまに送って頂き、天使の力を借りて現状を打開することもしませんでした。すなわちイエスさまは飼い葉桶にお生まれになり、だれをも傷つけませんでした。また、こうして逮捕されるときも、剣をさやに納めることを求められました。

 

今から26年前ですが、わたしが秋田の教会で奉仕していたときですが、ジョー・オダネルというカメラマンの写真展を開催しました。オダネルさんはアメリカのホワイトハウス付きのカメラマンでしたが、実は第二次大戦終了直後、日本各地、とくに原爆投下直後のヒロシマ、ナガサキの写真を撮ったのですが、自分でもその後見るのがつらくトランクの中にしまいこんだままでした。けれども戦後40数年たって現像したところ、ヒロシマ、ナガサキの悲惨な状況が写っていて、アメリカで見てもらおうとしたのですが、拒まれ、盛岡で伝道していたラーマズ宣教師に相談したところ、盛岡で開催することができました。大きな反響があり、わたしは秋田でもと願い、開催しました。また、展示会の最後の日は教会でオダネルさんの講演会を行いました。その展示会で最も反響があったのは、原爆投下から数日後、ナガサキで撮った写真でした。10歳くらいの少年が二つか三つの死んだ弟の死体を背負い、直立不動の姿勢で火葬の順番を待つ姿です。秋田の写真展ではこの少年の写真を見るために長い行列ができました。

昨年の暮れ、ローマ法王が全世界の教会関係者にこのオダネルさんが写した写真入りのカードを配布し、法王は「少年は、涙をこらえている。かみしめて血のにじんだ唇に少年の悲しみは表れている」と書き記し、核兵器廃絶を訴えました。

 オダネルさんが写したこの少年、10歳前後と思われますが、おそらく家族が原爆で死んでしまい、たったひとり残された弟も死んでしまい、火葬してもらうため順番を待っていたのでしょうが、その姿がアメリカのカメラマンの心を動かし、この写真を見る多くの人々の心を動かしています。そしてこのお正月には世界中の人の心を動かしています。

 

 今日の聖書の箇所に、三年間、イエスさまと寝食を共にした弟子ユダがイエスさまを逮捕しようとしている人々の先頭にたってイエスさまのところにやってくる、そのとき弟子たちは皆逃げてしまう。けれどもこうしたただ中でイエスさまは、ユダに、「友よ!」とよびかけ、剣を持つ弟子にはさやに納めるよう促し、十字架の道へと進もうとされます。オダネルさんが写した少年は戦争の痛み、悲しみを自分の体で必死に受けとめようとしています。あの少年の姿がイエスさまを証ししているように思えてなりません。

 

 新しい年、2018年、皆さんとご一緒に、地に平和をと祈り続けましょう。

    (201817日 主日礼拝説教)