2017.7. 2

どんな時にも、だれに対しても誠実に

                         

エレミヤ書5:1〜9 マタイによる福音書23:13〜39

                          

櫻井重宣

 

今わたしたちが学んでいるマタイによる福音書23章は、イエスさまが数日後には十字架の死が予測される、そうした緊張状態で語られたことが記されています。地上での歩みが限られているイエスさまの目には当時のユダヤ社会、とくに宗教指導者の姿勢にがまんできないものがありました。だからでしょうか、今日の箇所に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者たちは不幸だ」という言葉が何度も繰り返されています。「不幸だ」と訳されている語は、原文では「ウーアイ」です。文語訳では、「禍害なるかな」、口語訳では「わざわいである」でした。ウーアイ ウーアイが繰り返されています。

 実は、福音書を記したマタイは、イエスさまが神さまのご用を始めてまもなく山の上で語った説教を5章から7章に記していますが、その説教の冒頭で、イエスさまが、「幸いなるかな」を8回繰り返しておられます。「幸いなるかな」は、

ギリシャ語でマカリオイというのですが、イエスさまは、山上の説教の冒頭で、マカリオイ、マカリオイ、を8回繰り返されました。

マカリオイ 心の貧しい人々。マカリオイ 悲しむ人々 マカリオイ 柔和な人々 マカリオイ 義に飢え渇く人々、マカリオイ 憐れみ深い人々、マカリオイ 心の清い人々 マカリオイ 平和を実現する人々、マカリオイ 義のために迫害される人々とおっしゃいました。イエスさまが、マカリオイとおっしゃるたびに、幸せとは関係ないと思っていた人が頭を上げる、そうした光景がここにあります。

そのイエスさまが、十字架の死を前にして、こんどはウーアイ、「禍なるかな」と繰り返されるのです。ウーアイと語られている内容は、今日のわたしたちも自分の姿を直視せざるをえません。

 

 第一のウーアイは13節です。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない。」

 わたしたちのことで言うなら、キリスト者ひとりひとり、とくに牧師がえりをたださざるをえない言葉です。

 次は、今わたしたちが手にしている新共同訳聖書には、14節はあとから書き足されたのではないかということで、省かれています。省かれた14節は、マタイによる福音書の最後に記されています。ここも、ウーアイです。

「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きをすることになる。」

 14節を2番目のウーアイとしますと、3番目のウーアイは15節です。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人作ろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」この箇所も、今の時代の教会が問われていることを思わされます。

4番目のウーアイは次の16節から22節です。何にかけて誓うか、を当時の律法学者やファリサイ派の人々は問題にしていたようです。

神殿にかけて誓えばその誓いは無効であるが、神殿の黄金にかけて誓えば果たさなければならない。また、祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効であるが、その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさなければならない、と。

こうした論理、考えは詭弁だ、とイエスさまはおっしゃるのです。

5番目のウーアイは23節です。

「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。」薄荷、いのんど、茴香は香辛料です。こうしたものは十分の一を献げることは求められていませんでしたが、当時の律法学者、ファリサイ派の人々はこうした香辛料をも自分たちは十分の一を献げていることを誇っていました。しかし、律法の中で最も大切な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているというのです。

6番目のウーアイは25節です。「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている。」7番目のウーアイは27節です。「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。外側は人に正しいように見えるが、内側は偽善と不法で満ちている。」

 6番目と7番目のウーアイもわたしたちが厳しく問われます。

8番目のウーアイは2937節です。

非常に厳しい言葉です。読んでみましょう。29節からです「ウーアイ、預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらすべてのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

 ここでイエスさまがおっしゃるアベルの血というのは、神さまがお造りになった最初の人間アダムとエバから生まれたカインとアベルが、神さまへのささげもののことでカインがアベルを殺してしまったことです。人類最初の殺人です。また、バラキアの子ゼカルヤの血とありますが、神殿で神さまの御心を伝えた祭司のゼカルヤが殺されたことが歴代誌に記されていますがそのことです。

 そして、今お読みした最後の36節に、「はっきり言っておく」とありますが、これはときどきご一緒に心に留めている言葉ですが、イエスさまが、是非聞いて欲しい、心に留めて欲しいと思うときおっしゃる「アーメン、わたしはあなたたちに言う」です。イエスさまは、わたしたちは、だれひとり自分は正しい、清い、間違いのない人間だと言えないのだとおっしゃるのです。このことばにわたしたちは本当にえりをたださなければなりません。

 

 さて、山上の説教のとき、イエスさまが、幸いなるかな、マカリオイとおっしゃるたびにあちらこちらでうれしそうに頭をあげていった光景を思い起こすのですが、逆にここではウーアイ、禍なるかな、とおっしゃるたびにみんな下を向かざるをえないのですが、イエスさまは最後のところでこうおっしゃいました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」

 イエスさまが、ウーアイと言わざるをえないあなたたちに、神さまはどのような関わりをされたか、今、されているか、それを知って欲しいということで、イエスさまは渾身の力を振り絞るようにして、「神さまは、めん鳥が雛を羽の下に集めるように何度も集めようとした、しかし、あなたたちは応じようとしなかった」、と。

ひな鳥への母親鳥の優しさはだれでも知るところですが、神さまのわたしたちへの優しさはそういう優しさだと、イエスさまは十字架を前にしておっしゃるのです。

 旧約聖書を見ますと、モーセの遺言の書とされる申命記で、モーセは40年の荒れ野の旅を振り返って、「主は荒れ野で彼を見いだし 獣のほえる不毛の地でこれを見つけ これを囲い、いたわり 御自分のひとみのように守られた。鷲が 

巣を揺り動かし 雛の上を飛びかけり 羽を広げて捕らえ 翼に乗せて運ぶように ただ主のみ、その民を導いた」と語りました。預言者のイザヤは、「翼を広げた鳥のように 万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる」と語り、詩編の詩人は繰り返し「瞳のようにわたしを守り あなたの翼の陰に隠してください」と祈っています。

 

 ですから、今こうして、ウーアイと繰り返しているが、この3年間、わたしはあなたたちをめん鳥が雛を羽の下に何度も集めようとしてきたのだ、そのことを分かって欲しいとおっしゃるのです。ある人は、親鳥が雛をかかえこもうとされる姿とイエスさまが両手を大きく広げて、わたしたちをかかえこもうとされる姿が重なると言いますが、わたしもそう思わされます。

 

 最後に38節と39節「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

 この「主の名によって来られる方に祝福があるように」というのは、詩編の言葉で、メシア、救い主到来を讃美する言葉です。そして、この讃美の言葉は、今日の出来事の数日前、イエスさまがろばの子に乗って入城された時、人々が歓迎したときの叫びです。

 ですから、イエスさまは、ここで、ウーアイと何度も言わざるを得ない人々をも両手を大きく広げて、彼らを愛し、彼らのために祈るとともに、彼らも、主の名によって来られる方に祝福があるように、と言うときが来る、そのとき再び会うことができるとおっしゃるのです。

 

 最初にエレミヤ書5章 預言者エレミヤは、「正義を行い、真実を求める者がひとりでもいるならエルサレムを赦そう」と神さまから言われ、足を棒のようにして探すのですが、一人も見いだすことができない、そうしたエレミヤの苦悩を今日の時代、とくに思わされるのですが、神さまはエレミヤの500年後、イエスさまをこの世界に贈ってくださいました。

 今日の箇所では、イエスさまはウーアイを繰り返されるのですが、ウーアイと言わざるをえない人々を、両手を大きく広げて招き、その人々を赦すために十字架に赴くのです。

 イエスさまは、どんな時にも、だれに対しても誠実で、どんな人をも招く方なのです。ウーアイと語るイエスさまの言葉の根底にあるイエスさまのやさしさ、神さまの愛に思いを深めたいと願うものです。

        (2017年7月2日 主日礼拝説教)