2017.4.16

「主 の 招 き」

サムエル記上16:1〜13  マタイによる福音書22:1〜14

櫻井重宣

 
 先週の水曜日、3月1日からイエスさまの十字架の苦しみを覚えるレント・受難節に入りました。今日はレントに入って最初の日曜日です。イースターまでの一日一日、十字架を負うイエスさまのみ足の後に従い,イエスさまの十字架の苦しみに思いを深めたいと願っています。そして、そのことを通して,イエスさまの十字架の苦しみがほかならず「わたしのため」であったこと、そこまでしてわたしたちを愛してくださる神さまの大きな愛を心深く覚えたいと願っています。

  マタイによる福音書21章28節から22章14節には,数日後には十字架に架けられることが予測される、そうした緊張感の中でイエスさまがユダヤ社会の指導者たち、すなわち、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人々に語った三つのたとえ話が記されています。「二人の息子のたとえ」、「ぶどう園と農夫のたとえ」、「婚宴のたとえ」です。今朝は22章1節から14節に記されている三つ目の「婚宴のたとえ」を御一緒に学びたいと願っています。
 先ず1節と2節にこう記されています。
 《イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。》
 イエスさまは、天の国すなわち神の国はこういうところだ、神さまはわたしたちにこのように関わってくださるのだ、とおっしゃって話されたのはこういうことです。天の国は、王さまが王子のために催した婚宴に似ている、と言うのです。王さまの大きな喜び、その喜びを共にするために王さまが人を招く,天の国はそういうところだ、とおっしゃるのです。すなわち、神さまの喜びを共にするためにわたしたちが招かれる、それが神さまとわたしたちのかかわりだ、とおっしゃるのです。
 今日の箇所はイエスさまのこの地上における最後の一週間の出来事ですが、実は、ヨハネによる福音書14〜16章にイエスさまの告別の説教が記されています。この告別の説教は,最後の晩餐に引き続き、イエスさまがいなくなるのでは、と不安を覚えている弟子たちに、イエスさまが語った説教です。
 この告別の説教にこういう一節があります。
 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」
 イエスさまは、イエスさまの喜びがあなたがた弟子たちに共有してもらうために十字架に赴くとおっしゃっています。これは,今日の「婚宴のたとえ」と通じ合うものがあります。また、これは最後の一週間の記事ではないのですが、イエスさまが、一匹の迷い出た羊をどこまでも探しに行く羊飼いのお話をされたとき、そのお話の最後に、「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」、とおっしゃっています。
 天における喜びは、迷子の羊が見いだされる、一人の人が神さまのもとに立ち帰ることです。その喜びをわたしたちが共にするため、イエスさまが十字架に赴かれたのです。

  3節にこう記されます。
《王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった 。》
 当時、ユダヤの社会、もう少し言えば中近東ではこうした喜びの宴、晩餐会には、二度招待がなされました。一度目はあらかじめの招待状です。二度目の招待状は、その招待にうかがわせて頂きますと答えた人に、いよいよ用意ができたとき、おいで下さいという招待です。これが人を招くときの礼儀でした。二度目の招待をしないのは、宴会を中止したことを意味し、また、二度目の招待を断ることは、その人との交わりを断ってしまう、それほどのことでした。
 ですから、王子の婚宴に招かれていた人が二度目の招きを断ることは,王さまとの関わりを断つ行為でした。
 4節から6節にこう記されています。
《そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が調いました。牛や肥えた家畜を屠って、 すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」』。しかし、人々はそれを無視し,一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し, 殺してしまった。》
 今日の「婚宴のたとえ」は、三つ目のたとえですが、イエスさまはこの三つのたとえ、いずれにおいても,神さまが天地創造以来のイスラエルの歴史において、繰り返し、繰り返し預言者を送って神さまのもとに立ち帰るよう促しているにもかかわらず、人々は聞き入れようとしなかったことを語るわけですが、わたしたちの心を打つのは,神さまは幾度聞き入れられなくても,繰り返し、繰り返し神さまの喜びを共にしようと招いておられることです。
 けれども、イスラエルの民は、そうした神さまの招きを拒み続けました。
 7〜10節《そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意ができているが,招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。》
 「町の大通り」は、「町の出口」とも訳すことができる語です。町からはみだされていた人々をも招かれたのです。また、「善人も悪人も」とおっしゃっていますが、山上の説教にこういう一節がありました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」、と。神さまは悪人も善人も招く方です。神さまの愛はどの人にも注がれています。
 しかし、このあとの11節〜14節に記されていることをどのように理解したらよいのか,とまどいます。
 《王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」》
 当時の習慣では、こうした招きのとき、招待者が礼服を用意したという。ですから、この人は用意された礼服を着てこなかったので咎められているのです。ここで、王の言葉は厳しいのですが、王はこの礼服を着ていない人に「友よ」と呼びかけています。「友よ」と訳されているのは原語で「ヘタイロス」ですが、福音書記者マタイはこの語を3回用いています。最初は20章13節で朝早くからぶどう園で働いていた労働者が,夕方に雇われ一時間しか働かなかった人と同じ賃金であったことに腹を立てたとき、その腹を立てた人にぶどう園の主人は、「友よ」と呼びかけています。二度目はここです。三度目は,イスカリオテのユダが先導してイエスさまを引き渡そうとして来たとき、イエスさまはユダに「友よ」とおっしゃいました。
 この三人はいずれもイエスさまの心が分かっていません。その人々にイエスさまは、「友よ」と呼びかけておられるのです。この「友よ」という呼びかけはいずれも十字架の死を前にしたときの呼びかけです。あえていうなら、イエスさまは、イエスさまの心を心としない、その人たちを「友よ」と呼びかけ、その人たちに何としてでもイエスさまの心を心として欲しい、そのためには十字架の死をも厭われないのです。
 最初にサムエル記を読んで頂きました。あの箇所に「容姿や背の高さに目を向けるな。・・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉がありました。イエスさまは,御自分の心を心としてもらうために十字架の道を歩まれたのです。

  まもなく東日本大震災が発生して6年目の3月11日を迎えようとしています。今日は礼拝に引き続き、そのために祈祷会を行います。被災地では、今なお仮設住宅での生活を余儀なくされている人々、原発事故のためふるさとに戻れない人々が本当に多くおられます。ここ一年、原発事故のためふるさとを追われた人々がいじめられ、苦しんでおられることが大きな社会問題となっています。
 子どもだけでなく大人もです。71年前、ヒロシマでもケロイドを負った人たちがいじめられ、苦しみました。イエスさまはいじめられ,苦しんでいる人の悲しみ、苦しみをも御自分の痛み、苦しみとして負うだけでなく、いじめる人にも「友よ」と呼びかけ、イエスさまの心を心として欲しいと願っておられるのです。

  森有正さんという思想家、哲学者がいました。今から40数年前ですが、学園紛争で大学が荒れていた時代ですが、日本に数年間留学し、フランスに戻っている若い女性と語り合っていたとき、彼女が独り言のように「第三発目の原子爆弾はまた日本の上に落ちると思います」と語ったことに森さんは大きな衝撃を受け、放心したように大学構内を歩いていました。そのとき、大学構内の木々が日の光を浴びて輝いていることに気づいたというのです。そして、森有正さんはそのとき、世界がどんなに胸をかきむしるような出来事が相次いでいても、根底においては神の慈しみ、光に包まれていることを思わされたというのです。
 イエスさまが、イエスさまの心を心としない人にも「友よ」と呼びかけ、その人のために祈っておられる、わたしたちの世界はそういう世界なのです。神さまの慈しみの光が注がれている世界なのです。

(2017年 3月5日  受難節第一主日礼拝説教)