2016.5.22

「わたしの目にあなたは価高い」

イザヤ書43:1−7  ローマの信徒への手紙6:15−18

芳 賀   力

 
 今、私たちが住んでいる世界はどのような世界なのでしょうか。テロリズムの横行や難民問題、中近東のシリアやISをめぐる動向を見ていると、命が粗末に扱われているよ うに思えます。私たちの身近でもむき出しの攻撃性が至るところに顔をのぞかせ、命の尊厳が失われています。動物行動学者C・ローレンツによれば、動物は種の保存のために本能と して攻撃性を持つそうですが、人間はそれが度を超してしまい、同じ種どうしで愚かにも相互殺戮を繰り返し、カインはアベルを殺してしまいます。難民として生き延びたチェリスト、カザルスの言葉が思い起こされます。「邪悪と醜悪がはびこる今こそ、人の心の中にある高貴なものを愛することは大切なことかも知れない」。この確信は母から譲り受けたものです。彼の末の弟が陸軍から召集令状をもらった時、この母はこう言ったそうです。「エンリケ、お前は誰も殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は、殺したり、殺されたりするために生まれたのではありません。行きなさい。この国から離れなさい」。
 ここには、どれほど命が尊いものであるかが、実に力強く示されています。しかし聖書はさらにその先を語ります。神はただ命を創造された神であるのではなく、さらに失われ ゆく命を死と滅びから贖われる方だということです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなた と共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛 し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」(イザヤ43:1−4)。
 これは決して当たり前のことではありません。すぐ前にこうあります。「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ。 イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける」(41:14)。ここで贖われる対象とされているのは実に「虫けらのようなヤコブ」なのです。神に背を向け、その愛と信頼を 裏切り続けてきたから、そう呼ばれても当然でしょう。しかし神は、この虫けらのような民をなおも憐れみ、滅びから贖って、もう一度ご自分のものとされるのです。

  命は大事なものだということを、おそらく私たちはいろいろなところで聞くことでしょう。井上ひさし氏の戯曲に、国家が戦争へとなだれ落ちる暗い時代を描いた 『輝く星座』という作品があります。そこに一人の身ごもった若い女性が出てきます。彼女は、戦争へと突っ走るこの国に生まれてくる子供に未来はないと悲観し、圧迫流産を試み ます。その時、下宿していたコピー・ライターが彼女に語りかけます。「この宇宙には四千億もの太陽が、星があると申します。・・・・そのなかに、この地球のやうに、ほどのよい気 温と豊かな水に恵まれた惑星はいくつあるでせう。たぶんいくつもないでせう。だからこの宇宙に地球のやうな水惑星があること自体が奇蹟なのです。水惑星だからといつてかなら ず生命(せいめい)が発生するとはかぎりません。ところが地球にあるとき小さな生命(いのち)が誕生しました。これも奇蹟です。その小さな生命が数かぎりない試練を経て人間に まで至ったのも奇蹟の連続です。そしてその人間のなかにあなたがゐるといふのも奇蹟です。こうして何億何兆もの奇蹟が積み重つた結果、あなたもわたしもいま、ここにこうして ゐるのです。わたしたちがゐる、いま生きてゐるといふだけでもうそれは奇蹟の中の奇蹟なのです。こうして話をしたり、だれかと恋だの喧嘩だのをすること、それもそのひとつひ とつが奇蹟なのです。人間は奇蹟そのもの。人間の一挙手一投足も奇蹟そのもの。だから人間は生きなければなりません」。
 とても感動的な台詞です。しかし聖書が語る真理はもっと深く、感動的なものです。ただ命は造られたから大事だというのではありません。その命が失われてかけていたの に、一人の方の身代わりによって贖われ、代わりにこの私たちに新しい命が提供されているというのです。私たちは今、それを受け取りなさいと招かれているのです。
 今朝の御言葉に「身代わりとして人を与え」と出てきます。これは、苦難の僕と呼ばれる不思議な預言の歌の間にはさまっている言葉です。そして私たちは、この身代わり となられた方こそ私たちの主イエス・キリストであることを知っています。私たちが罪と死から贖われ、主のものとされるために、神の独り子が十字架にかかってくださったのです。 私たちが生きるにしても死ぬにしても、恐れなく、不安なく、悔いなく、愛し合い、平和のうちに過ごすことができるのは、私たちがこの主のものとされているからなのです。
  そして新約聖書は語ります。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。 あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は・・・・罪から解放され、義に仕えるようになりました」(ローマ6:16−18)。
  罪と死から贖われなければ、私たちは罪と死という主人の奴隷です。自分では気がつかず、知らない間に罪に仕え、まわりに争いをもたらす死と呪いの使者となってしまい ます。しかし幸いなことに、私たちはキリストによって贖われ、方向を転換させられ、神に仕え、人々に平和と命と祝福をもたらす使者とされるのです。私たち自身が、尊い命の源 である方のものとされているので、私たちを通して神の平和と命と祝福の力が働くのです。そのような道を歩む者とされている幸いを思い、改めて神に感謝を捧げ、その御名を誉め 称えたいと思います。祈りましょう。

   【祈り】 全能の父なる御神。私たちの世界は、時折黒雲に覆われているかのように思える様相を呈する時があります。あなたが私たちを、このような暗い闇から引き出してくだ さらなければ、私たちに真の平安はありません。けれどもあなたは御子の尊い命によって私たちを贖い、あなたのものとしてくださいました。どうかこの恵みを受け止め、あなたに よって新しくされた命を、人と争うためにではなく、むしろ人を愛するために用いさせてください。何よりもあなたを愛することができますように。アーメン。  

 

(2016年 5月 22日 伝道師招聘感謝特別礼拝説教)