2016.9. 4

「子どもたちを来させなさい」

イザヤ書11:6〜10 マタイによる福音書19:13〜15

櫻井重宣

 
 8月は旧約の預言者ホセアの言葉に耳を傾けながら,地に平和をと祈り続けましたが、9月になりましたので、マタイによる福音書の学びを再開します。
 本日は、ただ今お読み頂いたマタイによる福音書19章13節から15節を
 学びます。7月に学んだ時、心に留めたことですが、19章の1節と2節にこういうことが記されていました。
  「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた.大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。」
 イエスさまは30歳の時から神さまのご用を始め、3年たつかたたないそうした時に十字架に架けられたのですが、神さまのご用をされた3年間は、エルサレムの人たちからは辺境の地とされたガリラヤ地方での歩みでした。そして最後の一週間エルサレムで過ごされたのですが、そのエルサレムを目指して歩き始めたことが1節と2節に記されているのです。イエスさまはこれまで2度にわたって受難の予告といったらいいのでしょうか、自分はまもなくエルサレムに上り、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することをおっしゃっていますが、そのエルサレムに向かってガリラヤを後にして旅立たれたのです。イエスさまご自身非常に緊張されておられますが、こうしたときにも病気で苦しむ多くの人々をいやしておられます。
 そして十字架の道を歩み出されてすぐ問われたことは家庭の問題、離婚のことでした。先回学んだところです。
 イエスさまは家庭崩壊という苦しみを持つ人たちのためご自分の命を注ぎ出し、十字架の苦しみを味わい尽くされたことを覚えるとき、深い慰めが与えられます。

  13節以下は子どもの祝福のことです。13節をお読みします。
 「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」
 ユダヤの社会では尊敬する教師、ラビのところに安息日の夕方、親たちが子どもたちを連れて来て、神さまの祝福を祈ってもらう、そうした習慣がありました。イエスさまは人々からラビと言われていましたので、旅の途中の町でしたが、親たちがイエスさまに子どもたちの頭に手をおいて祈って頂こうと願って連れて来たものと思われます。
 けれども弟子たちは子どもたちを連れて来た人たちを叱りつけました。どうして叱ったのでしょうか。
 実は、福音書の中で一番はじめに記されたマルコによる福音書には「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た」とあります。マルコ福音書では、「触れる」というのは、病気の人が治りたい一心でイエスさまに触れる、病気の人を癒やされるためにイエスさまが触れる、そうしたかたちで用いられています。そうしますと、ここで連れて来られたのは病気の子どもたち、あるいは生まれつきいろいろな障がいをもっている子どもさんかもしれません。もちろん、安息日の夕方のように子どもたちの健やかな成長を願って連れて来られた子どもさんたちもいたかと思います。その子どもたち、そして子どもたちを連れてきた人たちを弟子たちが叱ったということは、病気の子どもやいろいろな障がいを持つ子ども、それに元気な子どもたちが連れて来られたので、ガヤガヤとした、騒然とするような雰囲気があったのかもしれません。
 これは現代のわたしたちがまさに問われている課題です。今、保育園の待機児童の問題が大きな問題となっていますが、一方で、保育園を作ろうとすると、うるさい、子どもの声は騒音だと言って反対運動が起きます。 
 また、一ヶ月前には相模原で重い障がいのある方19人が、かつてその施設で働いていた青年によって殺されました。その青年は、重い障がい者は周りを不幸にする、死んだ方がよいと言って犯行に及びました。かつてナチスもそうでしたし、わたしたちの国でも、戦争中、障がい者は存在そのものが否定されました。ですから、今日の箇所は今日のわたしたちが真剣に耳を傾けなければならない箇所です。

  マルコ福音書には、弟子たちが子どもたちを叱るのを見て、イエスさまが憤った、とあります。憤るは激しい剣幕で叱った、激怒したという語です。激怒してイエスさまがおっしゃったのが14節です。
 「しかし、イエスは言われた。『子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』」 
 来させなさいというのは、来るままにさせておきなさい、もう少し言うなら、わたしのところに来るよう解き放ちなさい、ということです。子どもたちがイエスさまのところに来るのが、妨げられている、周りの大人の考えで押さえつけられているので、解放してあげなさい、というのです。子どもの苦しみがそのままになっているので、解放してあげなさい、というのです。

   第二次大戦下、子どもたちの心から不安を取り除き、さらに命を助けるために力を尽くした人の一人に小児科の医者であり、教育学者であるコルチャック先生という方がいました。
 コルチャック先生は第一次大戦に軍医として召集されましたが、戦争で孤児となった子どもたちのためホームを創設し、ナチス政権となってからワルシャワのゲットーでユダヤ人の子どもたちに寄り添いました。そのコルチャック先生がレントゲン室で学生たちによく語ったことがあります。
  「よく見て、目に焼き付けて欲しい。子どもは疲れたり、怒ったり、耐えられない思いをしたり、興奮したり、かっかしているとき、いいですか、子どもの心臓はこんなふうに激しく鼓動している」、どんなときにも子どもを不安にさせてはならない、と。1942年コルチャック先生は200人の子どもたちと一緒にガス室に送られました。そのとき、コルチャック先生は、一番小さい子をだっこし、次に小さい子の手を引いて、200人の子どもたちの先頭に立って、ガス室のあるトレブリンカー行きの貨車に乗ったのです。
  イエスさまがここで、子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない、子どもをおびえさせてはいけない、というのは、イエスさまは子どもを不安にさせず、その痛み、悲しみ、苦しみを共にして下さる方だからです。
 また、イエスさまが、天の国はこのような者たちのものである、とおっしゃっている、「このような者たち」というのは、弟子たちに叱られた子どもたちです。とくに病気や障がいを持つ子どもたちです。天の国ではこうした人たちが大切に受け入れられているというのです。そして15節を見ますと、イエスさまは子どもたちに手を置いて祝福されました。一人一人の子どもさんの存在を大切にされたのです。

   静岡の牧之原市にある「やまばと学園」が毎月発行している「やまばと」という機関誌があります。この施設の開設者は長沢巌というわたしたちの先輩の牧師です。長沢巌先生にはみぎわさんという重い知恵遅れのお姉さんがおられました。神学校卒業のとき、長沢巌先生はお母さんとお姉さんと3人で赴任することを願いました。長沢巌先生の任地はなかなか困難でしたが、浜松の教会で伝道師をされた後、榛原教会に招かれました。榛原で歩み始めてまもなく、家族に重い知恵遅れの子どもさんを持つ方々との交わりができ、重い知恵遅れの子どもさんたちの施設「やまばと学園」が誕生しました。今から45年前の1971年でした。それから、成人寮、老人ホーム、授産施設など働きが広がっています。
 数日前に届いた「やまばと」に現在の理事長の長沢道子さんが、7月に起きた相模原の事件に心を痛めた文を記されていました。
 長沢道子さんは、加害の青年が、障がい者は周りを不幸にする、死んだ方がいいと言っていたことを私たちも考えてみる必要があるのではないかといって、やまばと学園創立時の長沢巌牧師の労苦を思い起こしています。
 創立にたずさわった長沢巌先生が「やまばと学園」創設の志を与えられ、募金活動を始めた時、今もお元気で良き働きをされている当時横須賀キリスト教社会館館長の阿部志郎先生を訪ねたとき、阿部先生から知的障がい児施設については、「社会のために役に立たない子どもたちに多大なお金と人手をかけることにどういう意味があるか」という一般の人々の問いに対して答える用意がなければいけないと言われたというのです。長沢巌先生はお姉さんのみぎわさんとのことを通して、親にとっては、その子が役に立つかどうかではなく存在そのものが絶対の価値であり、そのことを神さまの愛を通して示されたとおっしゃっています。
 実は長沢先生は施設を開設して12年後、髄膜摘出手術が不調に終わり、「やまばと学園」のだれよりも重い心身障がい者となり、結婚されてまもない長沢道子さんが先生の働きを受け継ぎ、長沢巌先生は寝たきりの最も重い障がい者となって25年過ごされ、2007年に召されました。この文で、長沢道子さんは、「障がい者は生きていてもしょうがない」という考えは、人間が本質的には弱い存在であることを知らないか、あるいは、知っていてもその事実から無理に目を背けた考えだ。その思想は障碍者の命を否定するだけでなく、やがては、自分の命、すべての人の命を否定することに繋がるでしょう、と記しておられます。

   イエスさまがここで子どもたち一人一人を祝福されたということは、どの人も大切な存在だ、ということです。イエスさまは、そのことをご自分の十字架の死を通して証しされようとしたのです。    

(2016年 9月 4日 主日礼拝説教)