2016.7. 3

「あなたの兄弟を赦せ」

詩編51:1〜14   マタイによる福音書18:21〜35

櫻井重宣

 
 少しずつマタイ福音書を学び続けていますが、本日は18章21節から35節に思いを深めたいと願っています。
 マタイ福音書の18章をすでに何度か学び、そのたびに紹介していますが、ドイツのシュラッタ―という聖書学者は、この18章全体でマタイは「教会に対する原則」を語っている、すなわち、この18章は、教会はどういうところか、教会に委ねられた使命、果たすべき責任、そうしたことを学ぶことができるというのです。
 18章の前半には、小さな者をつまずかせることは本当に大きな罪だ、その大きな罪を犯した人がどうしてもその罪を認めないとき、教会はその人のため祈らなければならない、その祈りの輪の中心にイエスさまがいつもおられる、教会は罪を犯した人がいる時、その人を裁くのではなく、真剣に祈る、教会はそうした群れだ、どうしても教会の祈りに限界があったら、イエスさまにお委ねしよう、ということが記されていました。
 今日は18章の後半、21節以下を学びます。イエスさまの弟子の一人ペトロがイエスさまのところに来て、こう言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」、と。
 ここで、「兄弟」とありますが、ていねいに翻訳すれば、わたしの兄弟がわたしに対し罪を犯したなら、です。わたしの兄弟、ですから、わたしの信仰の友、教会の仲間がわたしに罪を犯したら、です。 
 ユダヤ教で聖書のときあかしをまとめたタルムードという書がありますが、そこには神さまはわたしたちの罪を二度も三度も赦してくださる、だから、わたしたちも他の人の罪を二度、三度と赦さなければならない、と記されています。ペトロはこのことを知った上で、こうした問いをイエスさまに発したものと思われます。
  このペトロの問いに、イエスさまは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃいました。一回、二回、三回と赦す回数を数えることをやめなさい、徹底して赦しなさい、あなたが信仰の仲間に差し出すのは赦しだ。とイエスさまはおっしゃるのです。
 イエスさまの言葉にとまどいを覚えるペトロに、イエスさまは23節以下に記されていますが、たとえ話をされました。
  このたとえの冒頭でイエスさまは、「天の国は次のようにたとえられる」とおっしゃいます。すなわち、イエスさまは、神さまの国はこういうところだ、神さまはわたしたちにこのように関わって下さる方だ、そのことをこのたとえでお話するというのです。こういうお話です。
  ある王が、家来たちに貸したお金の決済をしようとしたとき、一万タラントンの借金をしている家来が王の前に連れて来られました。ここで家来と訳されている語は、「奴隷」と言う語です。連れて来られた一人の奴隷は、王さまに一万タラントン借金していました。簡単に書いてありますが、とてつもない金額です。一タラントンは6000デナリオンです。一デナリは一日の労働賃金ですので、一年に300日働くとすると20年分の労働賃金です。一日五千円とすると、3000万円です。そうしますと、一万タラントンは3000億円です。連れて来られた奴隷は王さまに3000億円の借金があったというのです。一人の奴隷が王さまに3000億円借金があるということは理解に苦しみますが、先ほど、家来は奴隷という言葉が用いられていることを心に留めました。しかも、イエスさまはこのお話で神さまはわたしたちにどう関わっておられるかをお話ししておられます
  そうしますと、わたしたち人間が神さまの前にどれだけの負い目を持っているかということです。小さな、取るに足りないわたしたちが神さまの前で三千億円もの負い目を持つ人間であることを認識することが大切です。
  マルコ福音書には、病いを抱えていたため、家庭に、地域にいることができず、墓場で生活していた人のことが記されています。イエスさまは、その人が正気になって欲しいことを願って、全力を尽くされたのですが、その人の病がいやされるのと引き換えに豚が二千匹犠牲になりました。ここでも計算しますと、豚一匹は現在4万円前後だそうですが、そうしますと8000万円です。病とはいえ家にも地域にも住むことができず墓場を住みかとしていた男の人が正気になるのに8000万円の損失があったのです。豚飼いたちは8000万円の損失を惜しみますが、イエスさまは一人の人の存在の重みが計り知れないほど大きいことを語ります。今から2000年前、イエスさまは一人の人にそれだけ重みがあることを語ります。そして、今日の箇所では、わたしたちは神さまの前に立つとき、返すことなんかとてもできない三千億円の負い目があるというのです。
  主君は当然のことながら、この家来に、自分も妻も子も、また持ち物を全部売って返済するように命じたのですが、この家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」、としきりに願いました。
  そうしますと、驚いたことにこの家来の主君は、憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしたのです。ここで「憐れに思って」という語は、今までマタイ福音書を学ぶときに、何度か心に留めたことですが、はらわたを揺り動かすという語です。イエスさまが病気の人の前に立ったとき、愛する家族を亡くし途方に暮れていた人の前に立ったとき、あるいはイエスさまのところに来て、助けを、癒しを、慰めを求めている多くの人々の前に立ったとき、イエスさまが、なんてつらい、悲しい、痛ましいことだと、はらわたを揺り動かして、体全体を震わせるようにして憐れむときのしぐさを言い表すときの語です。
  家来がひれ伏して、待ってくださいと願い出たとき、主君はその家来にはらわたを揺り動かし、本当にかわいそうだと思って、一切の条件をつけずに彼を赦したのです。
  天国は、という書き出しですので、神さまはわたしたちが神さまに持つ負い目はそれほど重い、大きいものであるにも関わらず、はらわたを揺り動かしてまで、わたしたちの痛み、つらさに、負い目に共感され、すべて赦してくださったのです。

    けれども、この家来は主君に赦された重みが分かりません。この3000億円の借金を帳消しにしてもらった家来が外に出たとき、自分に100デナリオン借金している仲間に会いました。100デナリオンですので50万円です。3000億円借金を赦してもらったのに、自分は50万円貸していた人を赦せず、牢屋に入れてしまうのです。
  仲間たちは非常に心を痛め、主君にことの次第を告げますと、主君はその家来を呼びつけ、怒って牢役人に引き渡してしまいました。そしてイエスさまは、最後に「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなた方におなじようになさるでしょう」とおっしゃったのです。

  わたしはいつもここでのイエスさまのたとえ話を読むとき、思い起こすのは心理学者ユングが語る聖人のお話です。若いころ、新聞の小さなコラムに紹介されていました。
  あるところに自他ともに聖人と認めている人がいた。神さまはこの聖人があまりにも立派なので、ご褒美をあげたいと願って天使を遣わしました。天使は、聖人に神さまがあなたに御褒美をあげたいとおっしゃっている、どんなものが欲しいか、と。そうしますとその聖人は、自分は神さまから御褒美をもらうような人間でない、と固辞します。天使が神さまにそれを報告しますと、神さまはあの人は、本当に謙遜な人だ、立派だ。余計に御褒美をあげたい、と天使を再度遣わします。何度かやりとりが続いたあと、その聖人と言われる人は、神さまがそこまでおっしゃるなら、かねて自分は自分の心の中を見てみたいと思っていた、それを見せてほしいと願いました。天使はそれを神さまにお伝えしました。神さまは困ってしまう、それだけはやめてほしい、と。けれども、神さまは約束したことなので、その人の魂、心の中をその人に見せたところ、その聖人は発狂してしまいました。自分の心の中があまりにも汚れていたからです。
  ユングの話には、イエスさまがここでおっしゃることと通じ合うものがあります。3000億円の借金がある、それは極端だと思ってしまうのですが、神さまにわたしたちにそれほどの負い目があるのです。ユングは、自分は大丈夫だ、間違ったことをしていないと思っていても、その人の心の中はまっくろだというのです。
 けれども、そうしたわたしたちを神さまは憐れに思って赦してくださるのです。どうでもいい負い目ではありません。神さまは、独り子イエスさまを十字架に架けてまでわたしたちを赦してくださるのです。けれども、赦された重みがなかなか分からないのです。そのため他者に厳しく関わってしまうのです。

  わたしたち日本の教会の歴史に大きな影響を与えた高倉徳太郎という牧師がいます。わたしは、この先生の牧師としての姿勢とくに説教に大きな励ましを与えられていますが、今から80年も前ですが、昭和7年に東京の信濃町教会でなされた説教に深い感銘を与えられています。活字で読んだ説教です。
 以前にもこの説教の一部を紹介したことがありますが、高倉先生はその日の説教でこう語ります。
 「わたしは自らざんげしなければならぬ。講壇からまた書くことにより、信仰について語るとき、ハートに欠けたものがあったのではないか。『自分だけが福音の真理を独占しているように見える。高圧的で、押し売りするかのようだ。傲慢、不遜である』と他から批判を受けた。その通りでなくても、受ける原因は自分にある。ここにおいでの皆さんにわたしは悔いている。信仰を語るとき、ハートについて十分ではなかったことを。本当の感謝、本当の祝福なく、慰めのない福音を語ったことがあったのではないか、と恐れている。兄弟姉妹方が、感謝にみたされなかったなど感じられたならば、わたしの態度の過ちからである。お許しを戴きたい。キリストに対し、教会に対し、友に対し本当に済まない。・・・現実の問題として、私どもの教会の兄弟姉妹の間に本当に主における信頼があるであろうか。本当に十字架の主の前に、他を審かないで自分の罪を赦されたい心があるであろうか。妥協の意味でなしに私どもは、主の十字架の前に自分の罪を悔いるものでありたい。人を赦す、審かないというのではなく、むしろ許されたいのである。もともと私どもは、人を審くことなどできるのだろうか。」
  高倉先生は、今日の聖書の箇所で言うなら、3000億円の負い目を持つわたしであること、そのわたしのためにイエスさまが十字架に架かってくださったことを、福音を語る者が、まずその事実の前に怖れをもっているだろうか、持っていたならもっと謙遜に、その喜びを語るのではないか、と切々と語るのです。
 わたし自身、本当に襟を正される思いです。 
 一昨年の暮れに高倉徳太郎先生の日記が出版されました。この説教を語る前の日、土曜日の日記にこう記しておられた。
  「説教の原稿を書きつつ、十字架の主の前に泣けり、己が罪に。友と教会との罪に於いて己が罪に泣けり。― 人を赦し、人を信じ得ざるは余の罪なり」、と。涙しつつ説教を準備されたことが分かります
 そしてこの日の説教を終えた夜、日曜日の夜こう記しています。
 「本日の説教、余のコンフェッション、告白なり。ただ懺悔あるのみ。十字架を負うことの感謝つきず。十字架は恵みなり。」

   シュラッター先生はこの18章は、「教会に対する原則」だ、というのですが、教会はこうした一万タラントン、3000億円赦されたものの集いだということです。パウロは「われは罪人のかしらなり」と告白しています。だれもが、罪人のかしらと告白する人の群れが教会なのです。
 これから聖餐式を行います。わたしたちの罪を赦すために十字架の死をもいとわなかったイエスさまのわたしたちに対する限りない愛と真実を心深く覚えつつ聖餐に与りましょう。  

 

(2016年 7月 3日 主日礼拝説教)