2016.2.07

「僕となった主」

イザヤ書49:1〜6  マタイによる福音書17:1〜13

櫻井重宣

 
 わたしたちは、今、レントの一日一日を過ごしておりますが、今朝はマタイによる福音書17章1節〜13節に耳を傾けつつ、イエスさまの十字架の苦しみに思いを深めたいと願っています。
 今お読み頂いたこの箇所は、山上の変貌と言われる箇所です。祈りのため高い山に登られたイエスさまの姿が、一緒に連れて行った弟子たちの目の前でまばゆいばかりの栄光の姿に変貌したことが記されています。
 わたしたちは、福音書を通してイエスさまの生涯をたどるとき、お生まれになったのは、家畜小屋の飼い葉桶の中でした。お生まれになってすぐエジプトに逃げなければなりませんでした。そして30歳のときから神さまのご用を始めたのですが、その歩みの大半は、「食するひまも うちわすれて しいたげられし ひとをたずね 友なきものの ともとなる」、いうならば枕するところのない歩みでした。そして最後には十字架に架けられて殺されてしまいました。栄光の姿とは全く反対の苦難の歩みでした。
 今日の箇所の冒頭に「六日の後」とありますが、先立つ16章21節以下で、イエスさまは、多くの人から苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを弟子たちに打ち明けたことが記されていましたが、苦難の道を歩むことを弟子たちに打ち明けて6日目に、山の上で栄光の姿に変貌したのです。わたしたちはこの出来事をどのように受けとめたらよいのでしょうか。

 1節と2節にこう記されています。
 「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」
 実は、イエスさまが高い山に登るとき連れて行ったペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は12弟子の中でもイエスさまの側近のような弟子でした。会堂長ヤイロの娘が死んだとき連れていったのはこの三人でした。また、イエスさまが十字架に架けられる前の晩、ゲッセマネで、血の滴るような汗を流しながら祈られましたが、その時も、イエスさまが連れて行ったのはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。この三人の前で、イエスさまの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったのというのです。
 3節にはこう記されています。「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」モーセとエリヤはいずれも旧約を代表する人です。モーセは律法の、エリヤは預言者の代表です。そのモーセとエリヤが栄光の姿に変貌したイエスさまと語り合っていたのです。
 4節をお読みします。「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」
 仮小屋は、ギリシャ語でスケーネーという語です。幕屋、テントを意味する語です。ペトロは、栄光の姿でモーセ、エリヤと語り合うイエスさまに住んで頂きたい、この三人に栄光の姿のままでいて頂きたいと思い、仮小屋を三つ建てましょうと言ったのです。
 ヨハネの黙示録に、ヨハネに示された終りの日、新しい天と新しい地の幻が記されています。
 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 終りの日に神さまが用意される幕屋、スケーネ―に、神さまがわたしたちと一緒に住んでくださり、涙をことごとくぬぐいとってくださり、悲しみも嘆きも労苦もないというのです。
 けれども、終りの日の幕屋は神さまがご用意くださるのですが、ペトロはイエスさまの十字架に先立ってスケーネー、仮小屋を作ろうとしたのです。
 ペトロは、6日前、イエスさまがエルサレムで多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することになっていると打ち明けられた時、イエスさまをわきへお連れして、「イエスさま、とんでもないことです」といさめたのですが、栄光のイエスさまにお会いすると、そのお姿をそのままにしておきたいと思い、小屋、幕屋を建てようとしたのです。
 しかし5節を見ますと、ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。
 この雲の中から聞こえた、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声は、イエスさまが洗礼を受けた時に天から聞こえた声と同じです。
 イエスさまが洗礼を受けたとき、山の上で栄光の姿に変貌したとき、神さまの「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃる声が聞こえたのです。
 わたしたちがマタイによる福音書を学ぶ中で、教えられたことですが、福音書を書き記したマタイは、イエスさまの誕生は、インマヌエル、神我らと共にいます、神さまがわたしたち罪ある者と共に永遠にいることを決意された出来事だと語りました。そして、イエスさまが洗礼を受けられたということは、イエスさまが罪あるわたしたちとどこまでも共にいることを決意されたできごとです。そして、洗礼の時と変貌の時に同じ声が聞こえました。
 ルカ福音書にもこの変貌の記事が記されていますが、ルカ福音書には、イエスさまが、モーセ、エリヤと語り合っていたことは、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」だと記されています。エルサレムで遂げようとしておられる最期のこと、すなわち十字架の苦しみ、殺されること、三日目に復活することを語り合っていたというのです。
 ルカ福音書で「最期」と訳されている語は、「エキソドス」です。脱出、出発、最期、終曲、フィナーレと訳されます。ですから、イエスさまのフィナ―レは栄光の姿だというのです。天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえて来たのは、そこに神さまの御旨、御心が示されたことです。
 すなわち、イエスさまが、罪あるわたしたちと一緒にいることを決意され洗礼を受けたこと、そして、多くの苦しみを受けて殺され、三日目によみがえること、神の子イエスさまがそうした歩みをされることが神さまの御心なのです。

 6節〜9節を見ますと、弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れました。イエスさまは近づいて来られ、彼らに手を触れてこう言われました。「起きなさい。恐れることはない」、と。彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいませんでした。
 ペトロ、ヤコブ、ヨハネが起こされたとき、そこにおられたのは、栄光のイエスさまではなく、いつものイエスさま、僕となったイエスさまでした。

   パウロは、フィリピの教会に宛てた手紙で、当時の教会で歌われていたキリスト賛歌が記されています。当時の教会で歌われていた讃美歌、信仰告白です。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 このキリスト賛歌の表現でいうなら、弟子たちと共にいたのは、へりくだって、十字架の死に至るまで従順であったイエスさまだったのです。
 イエスさまのフィナーレ、再臨は栄光に包まれていますが、途上は僕になったイエスさまです。飼い葉桶にお生まれになり、十字架の死に至るまで従順であったイエスさまです。どんなときにも身を低くされるイエスさまがわたしたちと共におられるのです。

 最初にイザヤ書49章1から6節、主のしもべの歌の第二に耳を傾けました、
 主のしもべの歌の第一で歌われていたことは、主のしもべは、傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす、ということでした。けれども、そうした姿勢で御旨を遂行しようとした主のしもべは、自らの働きに空しさ、徒労を覚えたのです。けれども、神さまは、徒労を覚える主のしもべを国々の光とし、その僕の働きを通して地の果てまで、救い、福音をもたらすというのです。どんなに徒労に思われても、空しさを覚えるようなことがあっても、傷ついた葦を折らない、ほのぐらい灯心を消すことなく主のしもべが御旨を遂行することが神さまの御心であり、どんなに時間がかかってもそれ以外の仕方で御旨を遂行しないというのです。

   実は、この場に居合わせたペトロは、だいぶたってからですが、ペトロの第二の手紙1章でこういうことを語っています。
 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明の明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」
 ペトロは山上の変貌の出来事により、イエスさまがもう一度おいでになるときのことを知らされました。夜が明け、明けの明星が昇るとき、それまで暗闇を歩くのですが、しかし、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という山上の変貌のとき天から聞こえた声は、暗いところに輝くともし火となる、というのです。
  すなわち、イエスさまに従っていこうとすると、困難に、試練に、迫害に直面します。しかし、あの時、天から聞いた言葉は暗闇の中でともし火となり、励まされ、慰められるというのです。すなわち、イエスさまはどんなときにも、身を低くしてわたしたちと共に歩んでくださる方なのです。

   ペトロだけではありません。代々の教会に連なる人々は、苦難のただ中で僕となったイエスさまに励まされ続けているのです。
 ドーシーもそのことを歌っています。ドーシーの『貴い主よ』を紹介します。

 「1 貴い主よ、私の手をとってください。 
 私を導き、立たせてください。
  私は疲れ、弱り果てています。
 嵐と闇夜に打ち勝って、光りへと導いて
 ください。
  (折り返し)
 私の手をとってください、貴い主よ。
 私を心の故郷に導いてください。

 2 私の道が闇にとざされるとき、
 貴い主よ、私の近くにいてください。
  私のいのちが絶えそうになるとき、
 私が叫ぶ声をきいてください。
  私が倒れないように、
 私の手を握っていてください。

 3 暗闇がせまり 夜が近づき 日がとっ
 ぷりと暮れて
  死の川の岸に私がたたずんでいるとき、
 私の足を導き、私の手を握ってください。」
 
      (訳 大塚野百合)

 

(2016年 3月 13日 受難節第5主日礼拝説教)