2016.2.07

「神をほめたたえよ」

詩編116:1〜4  マタイによる福音書15:29〜39

櫻井重宣

 
教会の暦では、今週の水曜日が灰の水曜日と言われ、その日からイエスさまの十字架の苦しみを覚えるレント、受難節に入ります。ブラジルからカーニバルのニュースが伝えられていますが、レントの季節を迎えたなら、十字架の道を歩まれたイエスさまの苦しみを覚え心静かに過ごしたい、そのためレントの前にみんなで喜びたい、そうしたことから、レントが始まる数日前にカーニバルが行われるようになりました。
 わたしたちもイースターまでの40日間、十字架を担ぎながらゴルゴタの丘を目指して歩き続けるイエスさまのみ足の後を辿って参りたいと願っています。

  さて、本日はただ今お読み頂いたマタイによる福音書15章29節以下に思いを深めます。冒頭の29節にこう記されています。
 「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座られた。」
 先回学んだ15章21節から28節には、イエスさまがガリラヤ湖から北西の方に70キロ位離れた異邦人の町、ティルスとシドンに行き、娘さんの病気で心を痛めている婦人と出会った記事が記されていました。
 実は先立つ8章に、イエスさまが嵐に直面しながらもようやくガリラヤ湖の向こう岸に渡り、そこで二人の狂暴な人を癒されたことが記されていました。けれども、その町の人々は二人の人が癒されたことよりも豚の損失を惜しんで、イエスさまにここから出て行って欲しいと言ったので、イエスさまは、また舟に乗ってカファルナウムに戻ってきたことが記されていました、ティルスとシドンに行ったときも、娘さんの病気で心を痛める一人の婦人とのやりとりをされ、その人の娘さんを癒されただけでガリラヤ湖のほとりに戻ってこられました。あれだけ労苦したのに、あんなに遠くまで行ったのに一人しか、二人しか癒せなかったという思いはイエスさまにありません。嵐に直面したが向こう岸まで行って二人の人を癒すことができた、70キロ離れたティルス、シドンに行って一人の幼い子どもさんの病気を治し、お母さんに喜んでもらった、そのことをイエスさまは喜んでおられるのです。

  かつて教団議長をされた鈴木正久先生があるときこういうことをおっしゃっておられたことを思い起こします。たぶん相手は、東京大学の隅谷三喜男先生だったと思いますが、隅谷先生のお宅で家庭集会を始めると聞いていたので、お会いしたとき、いかがでしたか、と尋ねたとき、隅谷先生は、本当にうれしい、3人の人が来てくださったとニコニコしておっしゃった。鈴木先生は、隅谷先生のお宅で集会というと10人も20人も集まるかと思っていた。しかし、隅谷先生は3人しかおいでにならなかった、残念だ、とおっしゃらないで、3人来てくれたと喜んでおられた、その姿に鈴木先生は心を動かされたのです。
 明治時代の牧師や宣教師もそうでした。交通機関がまだないとき、40キロもしくは50キロ離れた村に伝道に行く時、自転車か徒歩です。何時間かけていっても集まるのは数人、それでも出かけて行った、という記録がどこの教会にも残っています。明治時代の牧師や宣教師が道を求める一人のために何時間かけても隣の町に赴いたのは、一人の失われた魂を尋ね求めるイエスさまに励まされていたからです。

  さて、ティルスとシドンからガリラヤ湖のほとりに戻ってこられたイエスさまは、山に登って座られました。そうしますと、大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスさまの足もとに横たえました。イエスさまはこれらの人々をいやされました。
 この光景は本当に感動的です。イエスさまが山に登られお座りになったとき、たくさんの人々がやってきましたが、だれ一人、イエスさまのところにひとりでは来ませんでした。ある人は足の不自由な人を、ある人は目の見えない人を、ある人は体の不自由な人を、ある人は口の利けない人を連れてきたのです。どの人もいろいろなことで苦しむ人々を連れてきたのです。そしてイエスさまはそのお一人お一人をいやされました。
 31節にはこう記されています。
 「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」
  病気に苦しんでいた人、生まれつきの苦しみを持っていた人々がイエスさまに癒されたとき、癒された人はもちろんのこと、自分たちの身近にいてその人たちのことに心を痛め、その人たちをイエスさまの連れて来た人もみんなうれしくなり神さまを賛美したのです。ここにイスラエルの神を賛美したと記されています。ですから、ここに集まったのは異邦人たちだったかもしれません。ティルスとシドンまで出かけられたイエスさまに励まされ、多くの異邦人が助けを求めてやってきて、助けを、いやしを与えられ神さまを賛美しています。

   そして、こんどは病気を治してもらった人も病気の人を連れて来た人も、一緒にイエスさまがお話しされることに耳を傾けたり、イエスさまと交わりました。
 32節を読んでみましょう。
 「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくない。途中で疲れきってしまうかもしれない。』」
 ここでイエスさまが「群衆がかわいそうだ」とおっしゃっている言葉は、ときどき紹介するスプランクナという語です。はらわたを揺り動かすという語です。いろいろな病気に苦しむ人、その家族、子どもたち、そして身近にいた苦しむ人や生まれつき障害をもっていた人のことに心を痛め、集まっていた人の中にはお金のある人もいたかもしれませんが、ほとんどが貧しい人たちです。三日間もイエスさまのまわりにいたので、持ってきた食べ物がなくなったものと思われます。この人たちのことをなんとかしなければならない。おなかをすかせたまま解散させられない、と思われたイエスさまは、はらわたを揺り動かし、ほんとうにかわいそうだ、何とかしなければと思われたのです。イエスさまは、そこに集っている大勢の人々を、憐れみを必要とする人々として御覧になっています。
 そうしますと、弟子たちはこう言いました。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
 弟子たちの中には計算の早い人もいました。ほかのときにも、ここには一万人近い人がいる、200デナリオン分のパンでも足りないでしょうと答えています。今なら百万円のパンです。
 イエスさまは、「ここは人里離れたところです。これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンがどこから手に入るでしょうか、と心配する弟子たちに「パンは幾つあるか」と尋ねられました。弟子たちは「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えますと、イエスさまは群衆に地面に座るようにお命じになり、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはイエスさまから渡されたパンを、そして魚を群衆に配りました。
 そこに居合わせた人々は満腹し、それだけではなく残ったパンの屑を集めると七つの籠がいっぱいになりました。食べた人は、女の人と子どもを別にして、男性だけで四千人でした。

  あらためて先回学んだティルスとシドンにイエスさまが赴かれたとき、出会ったカナンの女の人の信仰を思い起こします。この女の人が、主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい、娘が悪霊にひどく苦しめられていますと願ったとき、イエスさまは何もお答えになりませんでした。それだけでなく、弟子たちから追い払われそうになりました。ようやく口を開いたイエスさまがおっしゃった言葉は「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」でした。異邦人を差別するような言葉でしたが、その女の人は、娘を治して欲しい一心で、イエスさまの前にひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と願いでます。この婦人が、繰り返し、「主よ」と願いでているのに、イエスさまは「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃったのです。けれども、この女の人は、食いさがり、「主よ」三度目です。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」とイエスさまに申し出たのです。たしかに、わたしは、小犬と呼ばれてもいい、取るにたりない人間だ、しかし、屑であろうと、小犬も食卓から落ちるパン屑を必要としている、パン屑で結構です。パン屑を下さい、娘を癒してくださいと願い出たのです。

  ガリラヤ湖のほとりの山に登ってやってきた大勢の人たちもそうでした。イエスさまと三日間過ごす中で、自分は神さまの前には本当に小さい人間だ、しかし、こうした小さいわたしたちにもカナンの女の人と同様、見方によってはパン屑かもしれないが、本当になくてならない糧、日毎の糧をくださった、それもわたしたちを満腹させるだけでなく、残ったパン屑は七つの籠いっぱいになった、もっと多くの人に分けてもあまりある程であった、と感動するのです。

  最初に申し上げたように、今週からレントの季節に入ります。残りのパン屑を集めた弟子たちが、この出来事を感銘深く思い起こしたのは、この出来事のあとしばらくして、イエスさまが弟子たちと共にエルサレムに上り、十字架に架けられる前の晩、最後の晩餐を囲んだときのことです。もっと言うならパンを裂いて、これはわたしの体です、杯を取り、感謝の祈りを唱えて彼らに渡して、これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血だ、とおっしゃり、次の日、十字架に架けられ、三日目によみがえられたときです。
 十字架のイエスさまの前に立ったとき、よみがえられたイエスさまにお会いしたとき、だれもが、自分を誇ることができません。神さまの憐れみを必要としている人間だ、と告白せざるをえません。イエスさまはパン屑どころかご自分の命を注ぎ出してくださったのです。

  2月になり、新しい年度の備えの時期を迎えていますが、神さまの憐れみを必要とするわたしたちであること、そのわたしたちを神さまは独り子をたもうほど愛してくださった、その恵みに感謝しながら歩んでいきましょう。
  最後に、いにしえの詩人が祈った詩編116に耳を傾けます。

 「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 
 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 
 苦しみと嘆きを前にして 主の御名をわたしは呼ぶ。
 『どうか主よ、わたしの魂をお救いください。』」
 

 

(2016年 2月 7日)