2015.10.25

「主が救い出し、恵みを与えられた」

出エジプト記18:1〜11  コリントの信徒への手紙一1:4〜9

櫻井重宣

 
 本日は、わたしたちの教会が創立されてから88周年ということを覚えつつ、ただ今お読み頂いた出エジプト記18章に耳を傾けて参りたいと願っています。
 さて、わたしたちはその月の最後の日曜日に出エジプト記の学びをしていますが、これまで心に留めたように、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出するとき、エジプトの王ファラオから何度も妨げられました。それでもようやく脱出できたとき、後ろからエジプトの軍隊が追ってきました。前方は海です。絶体絶命ともいうべき状況でしたが、神さまに命じられてモーセが手を上げて祈ると、海が二つに分かれ、イスラエルの民は海を渡ることができました。イスラエルの人々が渡り終えると海は元どおりになり、エジプトの軍隊は海の中に沈んでしまいました。
 そして、イスラエルの民は、約束の地カナンを目指して荒れ野の旅を始めたのですが、まもなく人々は、水がない、パンがない、肉がないと不平、不満をモーセにぶつけました。モーセは神さまに切々と祈り続けたところ、神さまはそのたびに必要なパンを、水を、肉を与えてくださり、旅を続け、神の山ホレブ、シナイ山のところまでやってきました。
 そして、今日のところにはモーセの家族のことが記されています。思い起こしますと、モーセは、若いとき、同胞を助けようとしてエジプト人を殺したので、ファラオはモーセを殺そうとしました。そのためモーセはミディアンまで逃亡しました。そのミディアンでモーセは祭司エトロの娘ツィポラと結婚し、ゲルショム、エリエゼルという二人の息子を与えられました。
 結婚し、新しい家庭を築いていたモーセに、神さまはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出するように、という使命を与えられました。モーセは何度も自分はできないとお断りしたのですが、神さまはモーセにその使命を託しました。ようやく決断したモーセは、妻ツィポラの父、しゅうとのエトロにエジプトに帰らせてくださいと願い出ますと、エトロは「無事に行きなさい」と励まして送り出してくれました。そして、モーセは妻と子どもたちをろばに乗せ、エジプトに戻りました。
 その後、イスラエルの民をエジプトから脱出させるために、モーセはエジプトの王ファラオとの交渉が始めたのですが、王さまとのやりとりで、エジプト脱出の際予測される危険、困難さを覚え、モーセは妻と息子たちを妻の実家、ミディアンの地に帰したものと思われます。
 エトロ、モーセの妻ツィポラそして二人の息子たちは、モーセが無事にイスラエルの民を率いてエジプトを脱出できるかどうか、ミディアンの地で心配しながら祈っていたのではないでしょうか。

 
 こうしたエトロやツィポラのもとに、エジプトから脱出できたとの知らせが届いたのです。
 先程お読み頂いた18章1節から5節を読みます。こう記されています。
 「モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。モーセのしゅうとエトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、二人の息子を連れて来た。一人は、モーセが、『わたしは異国にいる寄留者だ』と言って、ゲルショムと名付け、もう一人は、『わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた』と言って、エリエゼルと名付けた。モーセのしゅうとエトロは、モーセの息子たちと妻を連れて荒れ野に行き、神の山に宿営しているモーセのところに行った。」
 ミディアンから神の山ホレブ、シナイ山まで数百キロありますが、エトロはツィポラ、ゲルショム、エリエゼルを連れてモーセに会いに来たのです。

 
 少し横道にそれるかもしれませんが、こうした記事は私たちにほっとした思い、親しみを与えます。今から三千数百年前の出来事ですが、モーセが妻、息子たちの命を守ろうとして実家に帰す、実家に戻った妻と息子たちそしてしゅうとはモーセのため、イスラエルの民のため日夜祈る、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、神の山ホレブまで来たというニュースが伝わると数百キロ離れているのですが、いてもたってもいられず会いに行く、のです。

 
 ところで、モーセの宿営に到着したエトロはモーセに、「あなたのしゅうとであるわたし、エトロがあなたの妻と二人の子どもを連れて来た」と伝えますと、モーセは宿営から出て来てしゅうとを迎え、身をかがめて口づけしました。そして、彼らは互いに安否を尋ね合ってから、天幕の中に入りまた。
 天幕の中に入ったモーセは、しゅうとに、主がイスラエルの民を救い出すためにファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したのですが、主が彼らを救い出されたこと、を語り聞かせたのです。
 そうしますとエトロは、主がイスラエルの民をエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで、神さまを賛美しました。
 エトロが賛美した賛美が10節と11節に記されています。
 「主をたたえよ 主はあなたたちをエジプト人の手から ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った 彼らがイスラエルに向かって 高慢にふるまったときにも 主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」
 エトロはミディアンの祭司です。しかし、神さまがなされた業をモーセから聞いたとき、神さまはいかなる苦しみ、試練のただ中にあってもイスラエルの民に誠実であり続けたことを心深く思わされ、神さまを賛美したのです。

 
 実は、イスラエルの民にとって、出エジプトという出来事は、自分たちの民の長い歴史の中で、最も大きな出来事でした。しかも、神さまが救い出し、恵みを与えて下さった出来事であったので、そのことを賛美するようになったのですが、最初にそのことを賛美したのはミディアンの祭司であり、モーセのしゅうとエトロであったのです。


 さて、最初に申し上げたように、本日はわたしどもの教会が創立されてから88周年の記念の礼拝です。
 わたしたちの教会の歴史を語るとき、64年前、礼拝堂を失ってしまったことをどうしても語らざるを得ません。人間の弱さ、破れ、罪としかいいような出来事でした。そして荒れ野の旅に出て、ようやくこの地を与えられ、数年かけてみんなでブロックを積み上げ、ようやくこの礼拝堂を与えられたのです。この出来事は88年の歴史で最もといってよいほど大きな出来事です。
 けれども今日は、88年前創立されたとき、何があったのか、何が原動力となったのか、に思いを深めたいと思います。
 わたしは、教会が創立される4年前、1923年9月1日に発生した関東大震災を指摘できるのではないかと思います。
 わたしたちの教会は茅ヶ崎で最初に創立された教会ですが、平塚教会の長年の祈りがあったことを思います。前史で二つの流れがありましたが、一つは結核療養所の南湖院における日曜学校や家庭集会です。南湖院の創立者の高田畊安さんは若い時、京都の同志社教会で洗礼を受けています。また南湖院に入院していた仙台の宮城学院の前身の宮城女学校の橋本校長や関西学院の小山教授の影響で副院長の高橋誠一さん、美也さんご夫妻が受洗されたので、1914年大正3年の頃から家庭集会、日曜学校が行なわれています。
 もう一つは製糸工場の純水館です.1917年大正6年、小山房全(ふさひろ)さん、喜代野さんご夫妻は小諸から来て製糸工場を作りました。品質のよさでは日本で一、二で、しかも小山喜代野さんは内村鑑三先生の影響を受けた方でした。社長夫妻が身を低くして300人を越える女工さんたちを家族同様に大切にしました。南湖院の高橋誠一さんに女工さんたちの健康管理をして頂きました。そしてこの純水館で工場の子どもたちに平塚教会から婦人伝道師がきて日曜学校が行なわれたのです。
 そして1921年大正10年に、二つの流れ、すなわち南湖院と純水館、人でいうなら南湖院の高橋誠一さんと美也さんご夫妻、純水館の小山房全さん、喜代野さんご夫妻が平塚美普教会の水野牧師のご指導の下、恵泉会が組織されました。茅ヶ崎在住のキリスト信者の団体です。水曜日に礼拝や講演会、日曜日に日曜学校を行うようになりました。教会の一歩手前です。場所は、茅ケ崎町のご好意で、茅ケ崎町青年会館を使用することができたのです。
 こうした時に1923年、大正12年9月1日関東大震災が発生しました。茅ヶ崎も大きな被害を受けました。当時、茅ヶ崎は、市ではなく町でしたが、3426戸あった住宅のうち半数以上の2112戸が全壊し、1207戸が半壊したというのですから、壊れなかったのは107戸だけでした。
 茅ヶ崎に壊滅的な被害をもたらしたこの関東大震災でしたが、南湖院では、地震のため、入院患者さんたちで亡くなった方はいませんでした。それどころか次々と運ばれてくる負傷者を治療し、圧死した人たちの検視に高田院長や医師たちは全力を投じました。けれども純水館は二千八百坪あった工場の建物が倒れ、小山館長の妻喜代野さんは倒壊した建物の下敷きになって亡くなりました。
 そして町役場が倒壊したので、恵泉会が借りていた青年会館を町役場として使用することになったので、礼拝する場所が無くなりました。そこで、高橋誠一さんは礼拝堂を建設したいと願い、現在、茅ヶ崎恵泉教会のあるところに礼拝堂を建て、その献堂式を行ったのは1927年10月30日でした。そして、この日が茅ヶ崎美普教会の誕生となったのです。
 このとき、南湖院に関わりのあった人々だけでなく、壊滅的な被害を受けた純水館の人々が共に集い、共に祈って、この茅ヶ崎教会が創立されたのです。

  
 関東大震災というと思い起こすのは塚本虎二先生のことです。鎌倉でしたでしょうか、塚本先生は倒壊した家の下敷きで奥さんを亡くし、先生と乳飲み子の子どもさん二人が残されました。途方に暮れ、悲しみのただ中で苦しむ塚本先生にあるとき、天から「神は愛なり」と声が聞こえたというのです。神は順境のときだけでなく逆境のときにも愛でいます、という声でした。その声で。塚本先生は立ち上がることができたとおっしゃっています。塚本先生は、毎年、9月1日を迎えるたびに、神は愛でいます、ことに思いを深めておられました。 
 先程、エトロの賛美に思いを深めました。モーセは、神の山ホレブに来るまで幾多の苦しみ、試練があったのですが、エトロはモーセから報告を聞いたとき、主がイスラエルの民を救い出し、恵みを与えられたと告白しました。
 わたしたちの茅ヶ崎教会のスタートは、塚本先生がお聞きになった天からの声、そしてエトロの告白に通じます。

 
 パウロがコリント教会に手紙を書き記したとき、コリント教会はいろいろな問題を抱えていました。教会が一つになれない、教会員同士で裁き合う、倫理的な不祥事等々です。しかし、そうした教会に、パウロは、神は真実である、神は愛である、と書き記すのです。コリントにあるのは神の教会だ、神の真実は微動だにしない、というのがパウロの信仰です。主イエスも最後まであなたがたをしっかり支えてくださる。この神によって、あなたがたは神の子・わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた、というのです。

 
 茅ヶ崎教会と直接的な関わりはないのですが、88年前の明日、1927年10月26日、この茅ケ崎で、詩人八木重吉が30歳の若さで亡くなりました。八木重吉は、結核を患い、南湖院での治療を受けるため茅ケ崎に来ていたのです。
 八木重吉のノ―トに、奥さんの登美子さんでしょうか、本人でしょうか、亡くなる直前、書きとめた詩、言葉があります。

  
 「つきとばされて宙にぶら下がり
   キリストと二人ぎりになったと思っ
  たことは無いか」

  
  「『子ども等にうつったら一体どうする
 つもりだ』
   『私がついているから大丈夫です』
   『お前まで病んだらどうする』
 『神さまはそんな悲惨なことはなさ
 らない
   第一そうなっても神を信じ たおれ
 るまでやります』」

 
 つきとばされて宙にぶら下がることがあってもイエスさまが一緒だ、どんな事態に直面しても神さまの愛は微動だにしない、それが八木重吉さん、登美子さんの信仰でした。

 
 わたしたちの教会が創立される四日前に茅ケ崎で亡くなった八木重吉の祈り、信仰をも受け継いでいかなければならないことを思わされます。  

(2015年10月25日 教会創立88周年記念礼拝説教)