2015.10.18

「下から招く神 〜新しく生きるために〜」

ルカによる福音書19章1節〜10節

関田寛雄牧師

 
 「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、 背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておら れたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜ん でイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々 に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』 イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」 (ルカ福音書19:1〜10)


 本日は茅ヶ崎教会の礼拝にお招きいただきまして御言葉の取り次ぎをさせていただけますことは誠に光栄でございます。 こちらの教会の木下先生は私の神学校の大先輩でございました。いつかお訪ねしたいと思っておりましたけれども、先生は召されてしまいました。 この度、木下先生の始められましたこの教会に伺うことができまして感謝いたしております。
  「下から招く神」という題で話をさせていただくのでありますが、わたしの尊敬いたします中森幾之進という東京の山谷の伝道で生涯を終わられた方がおります。
 この先生が書かれました書物に「下へ上るうた」という本がございます。山谷のただ中からイエス様が招いておいでになる。そのイエス様の招きに応えて、「下へ上る」という 伝道の営みを続けるんだということで、下が上なんだと、そういうお考えで山谷伝道で生涯を終わった方でございます。
  この方は、私の父親と神学校が同じでございまして、折々、わたしが川崎で開拓伝道をしております時に、中森先生からよく電話がかかってきました。 「今度、山谷の伝道は山谷の人々でやらなければならない、という思いになったので、山谷に聖書の塾を開いた。『無為化塾』という塾を開いた。ついては君に新約聖書の概説 をやってもらいたい」というお話なのです。「先生のお働きの一部に参加できるのならば結構でございます。喜んで参ります。」(すると先生は)「山谷の状況もあるので交通費は 出ないんだ」。「いや、結構でございます。自前で行きますから」。「謝礼も実は出ないんだ」。「いや結構です。先生のお働きに参加できるのなら光栄でございます」。(すると) 「いや、そう言ってくれると思った、君は。そういう状態だから資金がいるので献金を持って来てくれ」というんです。中森先生に見事にはめられまして二年間、折々の日曜日にお話 にまいりました。本当に中森先生という方は、貧しい中でとにかく山谷の労働者の方々の友として最期まで命を燃やされて天に召されました。そのことを思いながら今日のザアカイの 物語をあらためて学ぶわけでございます。

 エリコの町というのは、エルサレムに次ぐ大きな町でございまして、様々な産業も盛ん、交通も盛んというところでそこに税務署があったわけです。「徴税人」と聖書に書かれてございますが、要するに税金取りなのです。その税金は当時ユダヤを支配しておりましたローマの軍隊の駐在費にあてがわれる。ですからユダヤ人の民衆にとりましては自分たちを押さえつけているローマの軍隊のために資金を集め、税金を取る、これは民族の裏切者だというわけで、ユダヤ人民衆からは徴税人という仕事は蔑まれて、こんな仕事に就く人間は人間ではない。罪人なんだと言われておりました。今日のところに「罪深い人間のところにイエス様は泊まる」とありますが、そういう仕事に就く人は背に腹は代えられないというところで、とにかく食っていかなければならないので、どんなに蔑まれてもいじめられても食っていくためには仕方がない、やむなく就く仕事が徴税人という仕事でした。ですから、なぜザアカイがこういう仕事についたのか、聖書に書いてはありませんが、背が低かったと書いてありますね。背が低かったということは生まれつきかも知れません。病気でそうなったのかもしれません。とにかく彼はなかなか普通の仕事に付けなかった。やむなくこういう仕事に就いたわけでありますけれども、その為には民衆の差別と蔑みの眼差しにいつも晒されるわけです。で、悔しいわけです。なにくそ、なにくそと自分の劣等感を跳ね除けて、とにかく負けないぞ、負けないぞと踏ん張って彼は徴税人という仕事を利用して金持ちになった。弱みを持つ人間からは脅かして税金をたくさん取ったり、余裕のある人からは賂を取ったり、そんなことで彼は税金を取りながら金持ちになった。お金を持つことによって自分の劣等感を乗り越えて、誇りたい、自信持ちたいと思ったのかもしれません。けれどどんなにお金があっても人々から信用されない。一人ぼっちでむしろ差別の眼差しで見つめられている、ということは人間にとって本当に辛いことであります。どんなにお金がありましても、人間扱いされない。人間として認められない。それはどんなにか辛い、悲しいことであります。その為に、ザアカイはますますもって負けないぞという思いで貯めこんたんだろうと思います。
 そこにエリコの町にイエス様がおいでになるということになりまして、みんなイエス様は普通の宗教の先生の教えと一味違う、いろいろと貧しい人の心に近づいたり、体の不自由な方を癒してあげたり、普通の宗教の先生と一味違う、何とかして皆んな見たいというわけで、町の人々はイエス様を見るために通りに出たわけであります。ザアカイも勿論イエス様を見たい。ところが、背が低いものですから前に出ようとしても、「群衆に遮られて」と書いてある。この言葉の中に、いかにザアカイが町中の人々に疎外されていたかが分かります。しかし負けん気のザアカイは「なにくそ」というわけで先回りしてイチジク桑の木に登って、イエス様を見ようとしたわけです。そこにイエス様がおいでになる。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。』・・・・」。ここの所ですね。イエス様が木の下に立っておいでになる。ザアカイが木の上に座っている。
 ところでキリスト教会というところは、イエス・キリストというと、パッと上を意識しますね。どこの教会でも十字架は高い所に立っていますね。イエス・キリストというとパッと上を意識する。ところがここではイエス様が下にいらっしゃる。ザアカイという、町では毛嫌いされている人間がイエス様の上にいるという、こういう構図はなかなか聖書の中には現れてこない構図です。
  昔、もう亡くなられましたけれども、サルバドール・ダリという絵描きさんがおりまして、スペインの出身ですが、この方がキリストの十字架という絵を描いております。その絵はイエス様を上から見下ろす形で書いてあるイエス様の十字架の絵です。なかなか良く分からない不思議な絵を描く人でして、大きな時計がテーブルの角にグニャッと折れ曲がっているような絵とか、大きな目の中に牛とか馬とか色々大きな動物がいっぱい並んでいる大きな目を描いたり、何を描いているんだろうと思われるような、そういう超現実派と言われる絵描きさんですが、キリストの十字架を上から見下ろす形で描いている。ダリさんという方がどういう信仰を持っていたか分かりませんけれども、この絵の中に何か非常に深いこの人のイエス様に対する思いがあったんではないかという気がします。
  先ほど、使徒信条を皆さん唱えました。世界には色々と信仰を言い表す信条というのが世界共通に四つほどあるのですが、その中で「陰府に降り」という一項目はこの使徒信条だけなのです。私たちはこれをもっとも大事にしています。「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、・・・」。イエス様は陰府に降った方なのです。とことんこれ以上下がないという所まで降られたのがイエスさまであります。誰も彼もが罪深く、誰も彼もが死後行かなければならない陰府のどん底にまでイエス様は先に行かれて、そこに神さまの慈しみの支配をはっきりともたらしておいでになる。誰も彼もがこの神さまの恵みから洩れる人は誰一人いない。陰府にまで降ったイエス様はそういう神さまの愛の普遍性と申しましょうか、神の憐みの究極性と申しましょうか、それを表現しているのがこの「使徒信条」であります。
  このザアカイに向かってイエス様は下から何とおっしゃったか。「ザアカイよ。急いで降りて来なさい」。ザアカイは背が低いということのために、人生の苦しみを負っているわけです。そういう条件を課せられている。その条件の中で生きてきたザアカイに対して、「急いで降りて来なさい」ということは、「あなたの背丈を、あなたの重さを生きていきなさい。神さまに創られているあなたの命を生きなさい。」
  なにくそ、なにくそという思いで、高い所に上がって、他の人より上に登ろう、上に登ろうという、そういう思いを捨てて、神さまに創られた命を生きていきなさい。自分の背丈で、自分の重さで、自分の足で大地を踏んで生きていきなさい。下駄をはかけせてもらうこともなく、卑屈に腰をかがめることもなく、創られたままの自分を生きるということ以外に一体何をする必要があるのか。自分の条件を引き受けなさい。それがあなたの人生の始まりなんだ。そういうことをイエス様は仰って下さっているのです。
  さらにイエス様は「今晩、是非あなたの家に泊まりたい」。これは原文によりますと、「あなたの家に泊まらなければならないのだ」という意味です。「泊まりたい」というだけでなく「泊まらなければならない」という意味なのです。エリコの町にイエス様を泊める宿は沢山あるかもしれない、けれども私は「あなたの家」に泊まらなければならないのだ。この、ザアカイに対するイエス様の選び、あなたの所以外に泊まるところはないんだよ。泊まらなければならない。
  ザアカイの家に、誰が今までに泊まりに来たであろうか。忌み嫌われているザアカイのもとに誰がとまりに来たか。ユダヤにおきましてはお宿をするということ、どなたかに泊まってもらうということは、宿主が信頼されているというしるしですから、旅人を迎えて、宿を貸すということは、社会的にも非常に名誉なことなのです。ザアカイのところに誰が泊りに来たか。ところが、他ならぬイエス様がザアカイの所に泊まりたい、泊まらなければならないんだと。ザアカイは急いで降りてきて喜んでイエスを迎えたというのは、その気持ちは良く分かるように思います。
 「このイエス様が我が家に来てくれる。なんてことか!」大変な喜びようで、ザアカイはイエス様をお迎えいたしました。ところが、周囲にいる人たちは、あんな罪深い男の所へイエスという人は泊まるのか。イエスという人は立派な先生かと思ったけれども、あんな奴と同類なんだ。たいしたことはないな。というわけでザアカイのゆえにイエス様まで非難される。ザアカイは悔しいと思ったでしょう。
 イエス様はザアカイの所でどんなもてなしを受けたか聖書には書かれていませんが、ザアカイの差し出す食事なり、飲み物なりをニコニコ笑いながら、美味しい、美味しいと食べたんだろうと思います。そういう、無条件にザアカイの宿に泊まり、もてなしを喜んで受けておいでになる。そのイエス様のお姿に、ザアカイの頑なな、コチコチになった暗い魂が砕かれたのであります。イエス様の無常件に受け入れてくださる、その慈しみによって心が砕かれた。そして、「ザアカイは立ちあがって主に言った」と書かれています。イエス様の憐みに応えて立ち上がるわけであります。ここに新しい命が始まるのです。
 神さまの恵みに応えて立ち上がること。この立ち上がりが大事なのです。神さまの憐み、イエス様の慈しみに応える事、恵みを受けっぱなしにして、神さまの憐みに甘えて立ち上がろうとしない、そういう人もいるんじゃないかと思いますよ。教会に何十年繋がっていても、いつも教会でお客さん的という人はいないだろうか。イエス様の恵みに与りながら、甘えて、立ちあがることのない方々はいないだろうか。反省させられますね。
 ザアカイは立ちあがった。何を言ったかというと、「貧しい人々に我が財産の半分を施します。もし、誰かから騙し取っていたら、四倍にして返します」。
 貧しい人に対する心がザアカイに生まれたわけです。あの冷たい、なにくそなにくそという自己防衛のなかに必死に生きてきたザアカイの中に、愛が生まれたのです。「貧しい人々に施す」そして、「だまし取った者に対しては、四倍にして償う」。正義が生まれたのです。無条件にザアカイを受け入れてくださるイエス様の慈しみによって、ザアカイに生まれたのは倫理であります。隣人に対する責任であります。
 ここに、信仰生活の成就が見られるのです。ですからイエス様は仰いました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。「アブラハムの子」というのはユダヤ人にとって最高に栄誉ある呼びかけなのです。このザアカイが、エリコの町の人間が何と言おうと、このザアカイはアブラハムの子なのだという、たいへん名誉あるイエス様の承認であります。そこにはザアカイが劣等感と頑なな凝り固まった魂が砕かれて、隣人に向かって開かれて、立ちあがって愛と正義に生きるという人間になった。そのことをイエス様は誰よりも喜んで下さっているわけであります。
 無条件なイエス様の愛を受ける、これが信仰であります。私のためのイエス様の愛を全面的に受け入れるということが信仰であります。と同時にその恵みに応えるという側面が出てまいりませんならばその信仰生活は半分なのです。何も無理することはないのです。その人、その人に与えられている器に応じて、自分の器に応じて、自由な思いで「汝の隣人を愛しなさい」というイエス様のお言葉に応えてゆく、その立ち上がりが信仰の成就なのです。そこに向かってザアカイと共に励んでゆきたいと思います。
 「人の子は失われた者を探し出して救うためである」失われた人間、自分自身を失っているような人間、何のために生きているか分からない、何で生まれたのだろうか、悶々としながら堂々巡りのニヒルな思いを持ちながら生きているそういう人間に対して、イエス様はそれをはっきりと見つけ出して、「あなたも生きなさい。あなたも生きていいんだ。全面的にあなたは神様から受け入れられている。何が無くても自分の足で大地を踏んで、生きてゆきなさい。」というのが、この失われたものを救うために来たイエス様の目的であります。

   日本の社会は、端的に申しまして上昇志向にふりまわされています。もっと上に、もっと強く、もっと豊かに。もっと、もっとと言う掛け声の中で戦後の日本は生きてきましたけれども、何のことはない、敗戦のあの時に、何にもなくなってしまった。その時に謙虚な気持ちで、あの戦争の無残な過去を振り返り、深い反省に導かれて、これからは力によるのではなくて、共に生きる世界をつくってゆくのだということで憲法を与えられました。なかでも九条は日本だけが平和になるというのではなく、国際的に平和にしてゆこうという、大事な、大事な賜物を、敗戦によって与えられた。しかしどうでしょう。朝鮮戦争によってある人々はぼろ儲けをした。ベトナム戦争によってある人々はまたぼろ儲けした。豊かになっていった。そういういわば漁夫の利に導かれて日本はだんだん尊大な国になってしまいました。アジアの人々を見下すような国になってしまいました。
 第二次世界大戦中に、中国大陸に対する侵攻、朝鮮半島・台湾の植民地化、そういったことの中で尊大な日本の過去を持ちましたけれども、その反省が徹底していない。きちっとしたお詫びを政府はしていない。ドイツの場合には、同じ敗戦国でありましたけれども、大統領がユダヤ人の墓にぬかずいてナチスの罪を謝罪しています。大東亜戦争に対する対決、謝罪それが日本政府にはございません。そういう時に今の政府はまたもや強い国、勝つ国、一等国目指してこの頃はアメリカにひたすら従うことによって、その抑止力によって日本を維持してゆこうとしていますけれども、どうでしょう、これはイエス様の意向に沿うものであるのかどうか。下から招いていらっしゃるイエス様に応えていきたいとそう思います。
 このことに関連して思い起こすことは、少年時代に読みました芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という、皆さまご存知の物語です。
 カンダタ(?陀多)がありとあらゆる悪いことをして地獄の血の海に落ちてしまう。血の池の真上が極楽の蓮の池である。お釈迦様が散歩しながら池の中を覗くと、カンダタが地獄の血の池でアップアップしている。その時にお釈迦様が、カンダタという男は極悪人だったけれども、一つ良いことをした。森の中で小さな蜘蛛を見つけて踏みつけようと思ったけれど、待て待て、一寸の虫にも五分の魂だ、といわけでその蜘蛛を葉っぱの上に載せてあげた、その命をおもんぱかる一言のためにカンダタを極楽に招いてやろうと蓮の葉っぱに架かっていた蜘蛛の糸をズーと下に下げるわけです。真っ暗な空からキラキラ光る蜘蛛の糸が降りてきた。これに掴まって行くと極楽に行ける。カンダタは飛びつきました。そして登ってゆきます。必死で登ってゆきます。一匹の蜘蛛を助けてやったという功徳の蜘蛛の糸。一生懸命登ってゆきます。己が功徳の蜘蛛の糸。これはまあ芥川さんの仏教理解ですからね。それが全面的に正しい仏教理解とは思いませんけれども、カンダタは昇ってゆきます。ところが、チョッと振り返って見てみると何十人もの血の池の仲間が昇ってくる。自分一人でさえも切れそうなこの蜘蛛の糸を何十人もの人が昇ってくる。カンダタは思わず「この糸は俺の糸だ。誰がお前たちに登って来いと言ったか。降りろ、降りろ。」叫んだその途端に蜘蛛の糸が自分の上からプツンと切れるわけです。もんどりうって血の池に落ちてゆく。昔、小学生全集と言う本がありまして、その中にこの「蜘蛛の糸」もあったんですが、小学生4年生頃でした。痩せさらばえた骨川筋衛門のカンダタがもんどりうって落ちてゆく。目をむき、口を開けて。その恐ろしい絵がありまして、怖くて怖くて、夜中に夢をみまして、うなされた。隣に寝ていた兄が起こしてくれまして目が覚めたのですが、その時に「お釈迦様でも救えない人間ているんだろうか。ヒョッとしたら僕はお釈迦様でも救えない人間なのかもしれない」ということを小学校4年生の頃に思ったことでした。それがきっかけになったんだろうと思いますけれども、こんな商売をするようになっちゃったわけですネ、わたしは。
 落ちていったカンダタに、お釈迦様は悲しそうな顔をされてハスの池の周りをまた散歩を続けられた。極楽は丁度お昼になってポーンと蓮の花が咲きました。と、言うことで物語は終わっています。私はこの物語を読みながら「上に、上に、上に、と登って、その果てに何が起こるか」と・・・。
 蓮舫さんと言う議員さんがおりますネ。あの人は青山学院の法学部の出身ですが、「日本は世界で一番にならなくたって、二等国でいいんじゃないですか」と言いましたけれど、あの人は台湾の出身の方だから日本帝国というものを相対化できたんですよ。そういう発言は。さすがだと思いましたネ。
 ここで、それではイエス様の場合にはどうなるのかと言うことですね。イエス様は己が功徳の蜘蛛の糸を登ってゆくカンダタに対して、イエス様は下から招いていらっしゃる。「カンダタ、急いで降りて来なさい」「降りたらまた地獄じゃありませんか」「あなたわたしを信じているか?」「はい、信じたいと思っております」「それならその糸を離せ」「そんなことをしたらまた地獄に落ちるじゃありませんか」・・・「カンダタ、あなたわたしを信じるか?」「はい、信じたいと思っております」「それならその糸を離せ」「そんなことをしたらまた地獄に落ちるじゃありませんか」と、こう問答が続くわけです。「カンダタよ、本当に私を信じるか」「はい、信じます。」「それならその糸を離せ」「はい!」と言ってその糸を離しますネ。カンダタはもんどりうって落っこちるわけです。ドーンと落っこちたところはですね、陰府に降りていらっしゃったイエス様の手のひらなんですよ。イエス様と共に陰府の世界から天国に復活してゆくという、これは関田版の「蜘蛛の糸」でございましてネ、芥川龍之介さんに断わらなければいけないわけですが。
 そんな風にして、イエス様と言う方は陰府の世界からわたしたちを復活へと導いてくださる。そのためにも日本の国は本当に謙虚に自らの大戦中の罪を認めて、従軍慰安婦の問題をはじめとして、様々な悪事を行っているわけです。本当に悔い改めて9条の示す方向に向かって、共に生きてゆくという、本来日本が歩むべき道筋に向かって歩んでゆきたいと思います。これは個人としても、国としても、下から招いていらっしゃるイエス様の思いに応えてゆくという福音でございます。そのことを聞きながらお互いにそれぞれの道を歩んでゆきたいと思います。

 
 お祈りをいたしましょう。
 憐れみ深い父なる神さま。茅ヶ崎教会の特別なお集まりにお招きいただきまして、ザアカイの物語を通し、あなたの御旨を学ぶことができましたことを感謝申し上げます。誠に罪深く、弱くある私たちでございますが、主イエス様の無常件の慈しみに、どうかこれを感謝して受け止めると共に、イエス様の志に応えて、立ちあがってゆくことができますように。そうして、隣人に対し、大きくはこの国に対し、責任的に生きるキリスト者になってゆくことができますように。主よ、お一人お一人を導き支え、御霊の御力を与えてくださいますようにお願いいたします。なおこの教会が櫻井先生を中心としてこの地域に、地の塩、世の光としての働きを務めることができますようにお導きをお願いいたします。お一人お一人の、信徒の心と体をお守りくださいませ。イエス様のみ名によってお祈りいたします。           アーメン

(2015年 10月 18日 秋の特別伝道礼拝説教)