2015.7. 5

「罪人の仲間、イエスさま」

イザヤ書54:1〜3  マタイによる福音書11:7〜19

櫻井重宣

 
 今朝は、ただ今耳を傾けたマタイによる福音書11章7節から19節までを学びます。
 イエスさまの道備えをしていたバプテスマのヨハネは、領主ヘロデの結婚をとがめたので、逮捕され、牢屋に入れられました。どうして咎めたかというと、ヘロデが自分の兄弟を離婚させ、その妻ヘロディアと結婚したからです。牢屋に入れられたヨハネはいつ殺されるかわかりません。そうした緊張感の中で、自分は来たらんとする救い主を「この人を見よ」と指さすという使命を神さまから与えられ、聖霊によってナザレのイエスを示され、「この人を見よ」と証ししたのですが、自分はいつ殺されるか分かりません。自分が指さした方は、本当に来たるべきメシアなのだろうか、そうした深刻な思いをもつに至ったのです。そこで、自分の弟子たちをイエスさまのところに送って、そのことを尋ねさせました。深刻な思いというのはもし、自分の指さした人が間違っていたなら、自分の生涯は、働きはマイナス、意味のないものとなってしまうからです。
 そうしたヨハネの問いを携えてやって来たヨハネの弟子たちにイエスさまはこうおっしゃいました。
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らせられている」
 イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、ここには、一人の苦しんでいる人がいると一緒に苦しむ、一人の悲しんでいる人がいると一緒に涙する、一人の病の人がいると心を動かし一緒に痛みを共にする、そういう人がいる、すなわち、天の国が始まっていることをヨハネに報告するようにとおっしゃったのです。

 ヨハネの弟子たちが帰っていきますと、イエスさまは群衆にヨハネについて話し始められました。
 「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。」
 実は、ルカ福音書に、ヨハネのもとにやって来て、ヨハネの悔い改めを迫る説教に心を動かされた人とヨハネのやりとりが記されています。
 群衆が「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねると、ヨハネは「下着を二枚持っている人は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」、と。徴税人が「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねると「規定以上のものを取りたてるな」、と。兵士も「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねると「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」、と。
 いずれも、ヨハネの問いを自分に語られたこととして聞いています。

 けれども、イエスさまがここでおっしゃっているのは、自分への語りかけとして耳を傾けなかった人のことです。
 「風にそよぐ葦か」とは、荒れ野でらくだの毛ごろもを身につけ、質素な生活をしていたヨハネをただ見にいった人のことです。また、対照的にしなやかな服、ぜいたくな服装をした人なら王宮にいる、というのです。
 そして、イエスさまはこう語ります。 
 「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」旧約の預言者マラキが語っているように、ヨハネの使命はイエスさまの先駆者として、イエスさまの道備えをすることでした。
  続けて、「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
 「はっきり言っておく」というのは、イエスさまが大切なことをおっしゃるときの言葉です。「アーメン わたしはあなたに言う」です。女から生まれた者のうちヨハネより偉大な者はいないというのです。ヨハネへの最大限の評価です。けれども、天の国で最も小さな者でも彼よりは偉大だ、というのです。イエスさまが到来したということ、それほどまで大きい、豊かな世界なのです。
 12節にこう記されています。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」
 ヨハネが活動を始めた時から、天の国は力ずくで襲われているというのです。
 実際に、救い主を証ししたヨハネは獄中にあり、まもなく殺されようとしています。イエスさまは、三年後には十字架に架けられます。この世は救い主に、天の国に激しく襲いかかるのです。
 そして13節以下はこうです。「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」
 繰り返し、ヨハネが証しした救い主は到来したのだ、まったく新しい世界の到来したのだというのです。

 最後の16節から19節にこうあります。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」というのは、子どもたちが遊ぼうといっても一緒に遊ぶ人がいないことを歌った歌と思われます。そうした子どもの淋しさ、孤独な思いをヨハネもイエスさまも味わっていることをイエスさまはおっしゃろうとしているようです。
 ときおり紹介しますが、戦後間もない時期に国連の事務総長として世界の平和のため尽力したスウェ―デンのハマーショルドの日記『道しるべ』を見ますと、「孤独」という言葉が繰り返されます。冷戦時代です。世界平和のため尽力しようとすればするほど孤独を覚えるハマーショルドに深い思いをさせられます。 
 ヨハネもイエスさまもそうでした。
 さらに、ここで、わたしたちの心を引き付けるのは、ヨハネそしてイエスさまにつけられたあだなです。
 禁欲的な生活をしているヨハネが言われたことは、「あれは悪霊に取りつかれている」でした。常軌を逸したような生活ぶりに、悪霊に取りつかれていると言われました。イエスさまは、徴税人や罪人と一緒に楽しそうに食事をしていたので、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言われました。
 マタイ福音書の少し前のところに、イエスさまは御自分の家にやってきた徴税人や罪人と言われている人々大勢と楽しそうに食卓を囲んでいると、ファリサイ派の人々は、イエスさまの弟子をつかえて、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問われました。徴税人は、ローマから委託されて税金を徴収するので、ユダヤの人はきらっていました。また、生活の貧しさからパンを一個取ってしまった人を、ユダヤ社会は罪人というレッテルをはりました。
 けれども、あらためて思わされるのは、普通のユダヤ人は自らの潔癖性を守るために徴税人や罪人を食事の席に招いたり、徴税人のところにいって、食卓を共にするようなことはなかったのですが、イエスさまは御自分のところに招いたり、逆に招かれて行き、彼らと楽しそうに食卓を囲みました。それが、「大食漢で大酒飲み」というあだなになったのです。塚本虎二先生「そら、大飯食らいだ、飲兵衛だ、税金取りと罪人の仲間だ」と訳しておられます。
 いかがでしょうか。大飯食らいだ、飲兵衛だ、税金取りと罪人の仲間だ、とあだなされるイエスさまにわたしたちは限りない親しみを覚えます。

 今日から私たちはまた神学生の方をお迎えし、共に教会生活をなしていこうとしていますが、わたしが大きな励ましを受けた先生の一人に左近淑という先生がいました。先年お迎えした左近豊先生は左近淑先生のご子息です。
 左近淑先生は、学長になって二年目の入学式に、こういう説教をされました。
 説教の冒頭、和歌山県出身で画家であり彫刻家の保田龍門を紹介します。
 保田龍門は、東京芸大に入学したのですが、家が貧しいので、昼間は人力車を引き、夜は料理屋の皿洗いをして学業を続けたのですが、卒業制作にかかる段になってモデルを雇うお金にも、絵の具を買うお金にも事欠き、悄然と故卿に戻りました。そんなある日のこと、龍門の母親が、モデルというのはべっぴんじゃなきゃいかんのか、このおばあをモデルに描いてみなさい、と言ったのです。この母親の一言で目が開け、龍門は母をモデルに不眠不休で描き、母親も昼間の労働で疲れきって眠くなると、火鉢に足を突っ込んで眼を覚まし立ち続けました。こうして名作「母の像」が完成しました。完成したのは今から丁度100年前です。墨絵でしょうか、何度見ても感動的な絵です。
 龍門はその後フランスに留学するのですが、その留学先で母親の訃報を聞くのです。そのときの思いを龍門は詩に残しています。

 母上よ、私はあなたの墓標となりたい
 私をあなたの墓標にしてください

 龍門は、自分の絵を通して、彫刻を通して母親がどれだけ自分のために祈り、励ましてくれたか、あの母の祈りなくして今日の自分は存在しないことを生涯証ししたい、そういう思いから、母上よ、私はあなたの墓標となりたい、と記したのです。
 左近先生は、保田龍門の絵と詩を紹介しながら、わたしたちキリスト者は、とくに神学生、伝道者は、「イエスさま、どうぞわたしをあなたの墓標にしてください」という祈りが必要だと語ったのです。自分はイエスさまの墓標だ、自分を見て欲しい。イエスさまがどういう方か分かって頂けると。
 今日の箇所で、イエスさまが、大飯ぐらい、大酒飲み、徴税人、罪人の仲間だとあだなされ、騒ぎたてられています。けれども徴税人のマタイやザアカイは、イエスさまがそうあだなされてまでわたしたちを抱え込んで下さった、新しい歩みへと導いてくださった方なので、イエスさまの墓標にしてくださいと祈っているのではないでしょうか。姦淫を犯し、石を投げつけられそうになった女の人もそうです。汝等のうち罪なきものがまず石を投げうて、とイエスさまがおっしゃったとき、年長者からはじまって一人二人とその場を去り誰もいなくなりました。彼女は石を投げつけられなかったことよりも罪人の仲間といわれることがあっても、自分のために十字架の道を歩んでくださったイエスさまの墓標としてくださいと語ったものと思われます。
 「大飯ぐらい、大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」というあだなには、どんな人も抱え込むイエスさまの愛の大きさ、深さ、豊かさがあります。わたしたちもそうしたイエスさまの墓標にしてくださいと祈り続けたいと願うものです。       

(2015年 7月 5日 主日礼拝説教)