2015.4.5

「復活の主の招き」

ホセア書2:16〜25  ヨハネによる福音書20:19〜29

櫻井重宣

 
 今から、百年以上も昔ですが、ブルームハルトという牧師が、イースター礼拝でこういうことを語りました。「わたしたちはどんなときにも、どんなところでも、誰に対しても希望を持ち続けることができる、それはイエスさまがよみがえられたからだ」、と。今年度、わたしたちの教会は、「希望を証しする教会」という主題を掲げて歩もうとしていますが、希望を証しできるのは、イエスさまがよみがえられたからなのです。

  さて、今わたしたちが耳を傾けたヨハネによる福音書20章には、イエスさまがよみがえられた日の夕べの出来事とそれから一週間後の出来事が記されています。
 イエスさまが逮捕されたのは、木曜日の夜でした。その時、弟子たちはイエスさまを守るどころかみんな逃げてしまいました。金曜日、イエスさまが十字架に架けられた時、イエスさまの母マリアやマグダラのマリアなど何人かの婦人たちは十字架のそばに立っていたのですが、弟子たちはだれもいませんでした。イエスさまが息を引き取られたあと、イエスさまをお墓に葬ったのはアリマタヤのヨセフとニコデモでした。12人の弟子たちのだれ一人、葬りの業に参与していません。
 週の初めの日、日曜日の早朝、まだ暗いうちにマグダラのマリアがイエスさまのお墓に行きました。行って驚いたことに、お墓から石が取りのけられていました。マリアは、いそいでペトロとイエスさまが愛しておられた弟子ヨハネのところへ走って行って伝えますと、二人はお墓に向かって走り出しました。
 ビュルナンという人が描いた「復活の朝、墓へいそぐペテロとヨハネ」という絵があります。二人が必死の形相でイエスさまのお墓へ走っていく様子が描かれています。お墓についた二人が目にしたのは、イエスさまの遺体が包まれていた亜麻布が置いてあるだけで、遺体は見つかりませんでした。二人は何が起こったのかわからないまま帰ったのですが、二人の弟子のあとでお墓についたマリアが、お墓で泣いておりますと、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」声をかける方がいました。最初は園丁だと思ったのですが、その方の「マリアよ」という呼びかけで、マリアは、イエスさまだとわかり、マリアは「ラボニ」「先生」と言いました。
 マリアは弟子たちのところへ行って、「わたしはイエスさまにお会いした」と告げたのですが、このときも弟子たちは何がおこったのか分かりませんでした。
 その日夕方になりますと、弟子たちが一人二人と集まってきたのですが、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。そこへイエスさまがおいでになって、彼らの真ん中にお立ちになってシャローム、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。シャロームというのはユダヤの日常の挨拶の言葉です。
 今も、わたしたちの心が痛むのは、聖書の世界で争いや憎しみ合いが絶えないことです。イエスさまの時代もそうでした。自分たちの国で、周辺の国で、戦いが繰り広げられるので、朝に夕べに、平和をと祈り続けていたユダヤの人々は、シャローム、と挨拶するようになったのです。朝、シャロームと言えば、おはようございます、夜ですと、こんばんは、おやすみなさいです。
 ですから、イエスさまがおいでになって、不安を覚え、おびえ、部屋の中に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちに、イエスさまは、こんばんわ、とおっしゃったのです。そして、イエスさまは、十字架のときの釘跡がついている手とわき腹とをお見せになったのです。これは本当に慰めに満ちた光景です。
 イエスさまはどうしてわたしを見捨てて逃げたのかとか、わたしを三回も知らないと、言ったのかと弟子たちを責める言葉は何一つおっしゃいません。弟子たち一人一人の弱さ、破れを日常的な弱さ、破れとして受けとめ、彼らを包み込むようにして「こんばんは」とおっしゃるのです。そして、弱さ、破れのあるあなたたちを抱えこむために十字架に架かったのだ、この傷跡をみてごらん、とお見せになったのです。そして、もう一度、あなたたちに平和があるようにとおっしゃって、息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。息を吹きかけるというのは、天地創造の記事で、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダマ)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きた者となった」と記されています。神さまが息を吹き入れられると、人は生きた者となったのです。よみがえられたイエスさまは、下を向いている人、後ろ向きになっている人に息を吹きかけ、前を向いて、上を向いて歩もう、大丈夫!とおっしゃって息を吹きかけたのです。そして、あなたがたは、弱さを抱える人、破れを抱える人のため祈り、どの人にも赦しを差し出して欲しいとおっしゃり、聖霊を受けよと、おっしゃったのです。

   24節以下を見ますと、十二弟子の一人で、ディディモ、双子と呼ばれるトマスはその場にいなかったことがわかります。ほかの弟子たちが、「わたしたちは主にお会いした」と言いますと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。トマスは自分の目で見、手で触って確かめて納得する、そういうタイプの人だったのでしょうか。
 よみがえられたイエスさまは、こうしたトマスをそのままにしておかれませんでした。26節に「さて八日の後」とあります。よみがえられたのが週の初めの日、日曜日でしたので、その日から八日目、ですから次の週の初めの日、日曜日です。わたしたちは、今、日曜日に礼拝をささげていますが、ヨハネ福音書が書かれた時代はすでに日曜日に礼拝がささげられていたことを読みとることができます。
 その日、弟子たちはまた家の中におり、こんどはトマスも一緒にいました。この日も戸にはみな鍵がかけてありました。一週間前にイエスさまにお会いしたのですが、一週間たったこの日も、また不安、恐れを覚え、鍵をかけていました。わたしたちもそうです。一週間の歩みを終えて、礼拝に集いますと、一週間の歩みでさらけだした弱さ、破れを思うと、なかなか神さまの前で顔をあげることができないのですが、そうした弟子たち、わたしたちの真ん中にイエスさまはお立ちになって、シャローム、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。
 よみがえられたイエスさまが真ん中にお立ちになって、平和があるようにとおっしゃってくださるのがわたしたちの主の日の礼拝です。
 そして、トマスにイエスさまはこうおっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。そして、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、と。これはトマスを叱責する言葉ではなく、トマスへの招きです。イエスさまの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ信じないというトマスに、イエスさまは釘跡を見ていい、指を釘跡に入れてみていい。手をわき腹に入れてみていい、とおっしゃって、トマスを招くのです。その招きにお応えして、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白するのです。 

  先程、旧約の預言者ホセアの言葉に耳を傾けましたが、ホセアという預言者は自分の家庭の苦しみから神さまの愛を知った人です。夫と妻の関わりは約束に基づく関係ですが、ホセアは自分が結婚した妻が他の男性と関わって子を産むという苦しみに直面します。その苦しみから、神さまと私たちは約束に基づく関係なのですが、神さまはどんなに人間から裏切られてもわたしたち人間との約束関係を破棄されない方であることをあらためて知らされます。そして、苦悩の深みというべきアコルの谷を希望の入り口としてくださることを語るのです。
 神さまは、わたしたちが日常生活で覚える苦しみ、破れに心を砕いて関わり、そのことを通して、私たちに神さまの愛の大きさ、豊かさを示されるのです。

  カール・バルトという神学者、牧師がいます。20世紀の教会に、大きな影響を与えた人です。この世界的に有名な神学者バルトは晩年、刑務所での礼拝を喜んで奉仕しました。バルトが刑務所で今日の箇所をテキストにして語った説教があります。
 閉じ込められたところ、刑務所での生活を余儀なくされている人に、よみがえられた日の夕べ、イエスさまがおいでになったことを語ります。最初においでになったとき、トマスは居合わせなかったが、次の日曜日もイエスさまはおいでになって彼らの真ん中にたって、シャロームとおっしゃった。こんどはトマスもいた。そしてトマスを招かれた。
 二千年後の今日の礼拝で、どうしてそのことが起こらないといえようか。囚われ人たちの小さな復活祭の集い、ここにいる皆さん、働いている人々、礼拝のオルガニスト、そして時々ここを訪ねてくるこの年取った牧師も含め、ここで「よみがえった主にお会いして喜ぶ」ことが起こらないことがあろうか、よみがえられたイエスさまは、ここにいるわたしたちをも招く方なのだ、と。

  最後に、今日の箇所に、「あなたがたに平和があるように」というイエスさまの挨拶が三度、繰り返されています。ギリシャ語の原文をみますと、「平安」と「あなたがたに」の二字だけです。動詞がありません。ボンヘッファーは、「平安、汝らにあり」「平和、汝らにあり」と訳すべきではないかと1940年のイースター礼拝で語っています。1940年のイースターの直前、ボンヘッファーが力をいれていた若い牧師の研修所もナチスのゲシュタポによって閉鎖されてしまいました。そうしたときになお、ボンヘッファーは、よみがえられたイエスさまは、十字架の釘跡のある手を示しながら、今日のわたしたちにも、「平安、汝らにあり」、とおっしゃっておられる、そのことに耳を傾けよう、というのです。よみがえられたイエスさまはこのところでも、釘跡を指し示しながら、平安、汝らにあり、とおっしゃっているのだ、そのことに耳を傾けようというのです。
 このボンヘッファーのイースターの説教を思い起こしたのは、数日前、ケニアで学生148人が過激派の人によって殺されたというニュースを耳にしましたからです。過激派の人々は、イスラム教徒の学生を解放し、キリスト教徒の学生をねらって殺したというのです。
 今日のケニアの教会のイースター礼拝はどのように行われているのでしょうか。戸を閉めて鍵をかけて行なわれているかもしれません。けれども、その礼拝の真ん中によみがえられたイエスさまはお立ちになって、平安、汝らにありとおっしゃっているのではないでしょうか。十字架の死を遂げたイエスさまが、殺された青年たちの痛みを担い、その家族の悲しみを担い、こうした悲しい現実を引き起こした世界の現実を悼み、なお「平安汝らにあり」とおっしゃっていることに、全世界の教会がアーメンといいたいと心から願うものです。       

        

(2015年 4月 5日 主日礼拝説教)