2015.3.1

「罪人を招くため」

詩編51:3〜14  マタイによる福音書9:9〜13

櫻井重宣

 
 最近、世界中で、そしてわたしたちの身近なところで、人間の命がこうしたかたちで奪われるようなことがあっていいのだろうか、と考えさせられる事件が相次いでいます。とくに川崎の中学生が殺されるという事件は、殺された人も、事件に関わった人も、双方とも青少年です。大人であるわたしたちは、被害者、加害者双方の青年たちの現実に言葉を失うとともに責任を痛感し、つらい日を過ごしています。 
 10日前から、イエスさまの十字架の苦しみを覚えるレントの期間に入っています。十字架の道を歩まれたイエスさまがこうした青年たちのため執り成しておられることを信じ、わたしたちも青年たちのため祈らなければならないことを覚えるものです。

  ただ今、マタイによる福音書9章9節〜13節に耳を傾けました。ここは、原文であるギリシャ語を見ますと、9節そして10節から13節と、二つの出来事として記されています。福音書記者のマルコややルカは一つの出来事として記しています。マタイの伝えようとするメッセージとマルコ、ルカが伝えようとするメッセージに少し違いがあるように思われますが、マルコ、ルカが伝えようとするメッセージにも思いを深めながら、今日の箇所を学んで参りたいと願っています。
 最初の出来事は9節です。こう記されています。
 《イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。》
 ここには、イエスさまに招かれて従った徴税人の名前は、マタイと記されていますが,マルコ福音書やルカ福音書ではレビです。実は、マタイ福音書10章には、イエスさまが選ばれた12人の弟子の名前が記されていますが、12人の一人は「徴税人のマタイ」です。マルコやルカは、ただ「マタイ」です。そして、もう一つ、聖書学的にはいろいろな見解がありますが、古来、このマタイ福音書を書き記したのは、この徴税人マタイであると言われています。そうしますと、福音書記者マタイは、自分がイエスさまに初めてお会いしたとき、イエスさまに招かれ、従っていくことになった出来事をここに記していることになります。

  マタイは徴税人でした。イエスさまの時代、徴税人という職業はユダヤの国では人々から嫌われ、蔑まれていました。今、確定申告の季節で、納めるべき税金の額が多いと、どうしてもそれを計算する税務署の人に文句を言いたくなりますが、ユダヤで、徴税人が嫌われるのはそれだけではありません。当時、ユダヤの国はローマに支配されていました。税金の支払先はローマです。ローマが税金の徴収業務を委ねたのが徴税人でした。ですから、徴税人はローマ政府から税金の取り立てを委託されていた人です。徴税人はユダヤ人ですが。ローマの支配を快く思っていないユダヤ人は徴税人を快く思いません。徴税人はローマ帝国の権威を背景に徴収しようとしますし、徴税人の中には、割り当てられた金額以上のものを徴収し、それを自分のポケットに入れる人もいたようです。ルカ福音書にはザアカイという徴税人の頭のことが記されていますが、ザアカイはイエスさまが自分の家に泊まってくださったとき、とても喜び、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言っています。こうした発言をザアカイがしたということは、定められた以上に多くだましとるような徴税人もいたということです。だからでしょうか、今日のところにも「徴税人や罪人」という表現もありますが、それほどまでに徴税人はユダヤでは人々から嫌われていたのです。
 こうした徴税人のマタイが収税所に座っているのをイエスさまはごらんになって、「わたしに従いなさい」とおっしゃいました。そうしますと、マタイは立ち上がってイエスさまに従いました。ここには、マタイは徴税人という仕事に悩んでいたとか、嫌気がさしていたとかは何も記されていません。イエスさまが、「わたしに従いなさい」とおっしゃると、マタイは立ち上がってイエスさまに従ったのです。 
 ただ、イエスさまに招かれてすぐ従ったのはマタイだけではありません。漁師であったペトロやアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネもそうでした。イエスさまが「わたしについてきなさい」とおっしゃると、網を捨てイエスさまに従いました。彼らにはためらいがなかったのでしょうか。どうして、イエスさまに、従いなさい、ついてきなさい、と言われるとすぐついていったのでしょうか。
 これは、招かれたマタイやペトロ、アンデレに注目するより、招いてくださったのはイエスさまだ、そのイエスさまに注目して欲しいというメッセージがあるのではないかと思います。

  このことは後からまた深めることにして、もう一つの出来事を見てみましょう。10節から13節です。
 《イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》
 どこで食事をしていたかというと、「その家」とあります。口語訳や文語訳は、「家で」となっていました。原文もそうです。誰の家かというと、前後関係からしますと、イエスさまの家です。イエスさまが家で弟子たちと食事をしていますと、そこに徴税人や罪人も大勢やってきて食卓を囲んだというのです。ギリシャ語で、食事をするという語は寝そべるという意味を持つ語です。リラックスして食事をとるからです。ですから食卓を囲むのは本当に親しい人です。イエスさまの家で、イエスさまも弟子たちも、徴税人たちも罪人と言われる人も、だれもがくつろいで楽しそうに食卓を囲んでいたのです。ユダヤ人は徴税人や罪人を食事に招くようなことはしないのですが、イエスさまは招いておられます。
 マタイ福音書では、このあと11章で、私たちの教会の入り口にも掲げていますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」とイエスさまがおっしゃっておられます。イエスさまはわたしたち一人一人を重荷を負う者としてごらんになり、そうしたわたしたちを招いておられます。イエスさまはどんな人も招く方です。あなたはいいが、あなたはダメとおっしゃる方ではありません。これは、マタイが伝えようとする大切なメッセージです。

  実は、マルコ福音書とルカ福音書では、イエスさまに招かれたのはレビで、そのレビの家で徴税人や罪人もイエスさまや弟子たちと一緒に食事をされたことが記されています。イエスさまはレビの家で、レビはもちろんのこと徴税人や罪人と言われる人々と楽しそうに食卓を囲んでいたのです。イエスさまは、レビの家に招かれたとき、うれしいです、とおっしゃり、徴税人や罪人とレッテルを貼られて生きていた人と食事を共にされたのです。
 マルコやルカは、招かれるところにはどこにでもおもむくイエスさまを伝えようとし、マタイは、イエスさまはどんな人であっても招く方だということを伝えようとしています
 こうした光景を見たファリサイ派の律法学者が、どうしてイエスさまは徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言いました。ファリサイ派の人は徴税人や異邦人、罪人を家に招き、食卓を囲むことはありませんし、徴税人の家に行って食卓を共にすることはありません。ファリサイ派の人は、自分たちは律法を守っている、そのことを誇りとしていました。そうしたファリサイ派の人々にとって、イエスさまが徴税人や罪人とくつろぎ、楽しそうに食卓を囲む光景はがまんできなかったのです。
 そうしたファリサイ派の人々に、イエスさまは、医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人だとおっしゃいます。
 秋田時代、教会の青年のお父さんが辺鄙なところで医者をしていました。そのお医者さんをお訪ねしたとき、その方はわたしにこう言われました。ちょうど今ごろの寒い季節でしたが、自分たちは夜中でも病人がでれば、戦後間もない時期は馬ぞりで往診した、患者さんの中には貧しい人もいる、そうした人からお金はもらえない、ただ、病人が出たということだけで、真夜中、雪が降っていてもそりで往診した。そしてそのお医者さんは、わたしに向かって教会の先生も同じでしょう、とおっしゃいました。わたしはそのときのことを思い起こすといつも襟を正される思いです。
 イエスさまは、丈夫な人のところには真夜中、そりで赴くことはありませんが、病人が出たとなれば、夜中でもそりでかけつける、わたしを必要とする病人のところにはどんなことがあっても赴くというのです。

  さらにマタイは、預言者ホセアの預言の言葉を引用して「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とは、どういう意味か、行って学びなさいとおっしゃいました。
 ホセアの預言を引用しているのはマタイだけで、マルコやルカは引用していないので、ここにもマタイのメッセージがあります。
 ホセアは家庭の苦しみを経験した預言者です。ホセアは結婚したのですが、妻は他の男と交わる、ですから、その妻から生まれた子に素直になれません。そうした苦しみを持つホセアは、神さまはわたしたちとの約束関係で、約束に誠実に応答できないわたしたちに、どんなときにも誠実に関わり続けてくださる、愛し続けてくださることを知らされるのです。そして、あらためて、妻に、子どもに愛をもって関わります。
 そうしたことから、自分たちの信仰を誇るためにいけにえをささげることではなく、神さまがどんなときにも愛してくださる方だ、憐れみに富む方だということを知ることが大切なことを示されたのです。
 マタイは、ホセアの言葉を引用し、イエスさまは、どんな人も、たとえ罪人と言われる人も招くためにおいでになったのだ、丈夫な人、正しい人ではなく、病人を、罪人を招くために来たのだ、そのために十字架に架かることがあっても、どの人も招くためにおいでになったのだ、と書き記すのです。そして、そのイエスさまに自分も招かれたというのです。

  わたしがお世話になった熊澤義宣先生は、神学校在学中病気になり、休学せざるをえない経験をされ、神学校の学長になってすぐ、心臓のご病気で、学長職を短い期間で退かざるをえませんでした。そうした体験が根底にあるからでしょうか、イエスさまは上におられて、ここまで来なさいと言って、上からの招く方でない。イエスさまは、低いところにおられる、あえていうならどん底におられる、どん底に立って、イエスさまは、わたしに従ってきなさい、とおっしゃっている、「上への招き」ではない、「下への招き」だとおっしゃっています。絶対安静のときはベッドの下で、わたしを支えてくださったとおっしゃいました。
 その熊澤先生の言葉で、わたしが最も感銘深く思い起こすのは、「崖から落ちそうになったら、必死でしがみつくのではなく、手を離せばいいのです。陰府の底に落ちていっても大丈夫です。一番深いところでイエスさんは受けとめてくださるからです。そういう信仰を持つことが大切です」という言葉です。
 上から飛び降りた人を受けとめることは大変です。受けとめる方が、力を求められます。受けとめようとして傷つくことがあります。イエスさまはわたしたちを下で受けとめるために命を差し出してくださった、それが十字架です。傷つくのは、命を差し出すのはイエスさまです。

  最初に、詩編51に耳を傾けました。大きな罪を犯したダビデの祈りです。ダビデの背きを深い御憐れみをもってぬぐってくださったのは十字架のイエスさまです。
 マタイは、イエスさまに初めてお会いしたとき、イエスさまにひきつけられるようにして、自分がまるごと抱え込まれるような思いで、立ち上がってイエスさまに従ったのですが、後にイエスさまの十字架にまみえ、イエスさまは自分を抱え込むために十字架の死を遂げられたことを知ったのです。
 イエスさまは、どんなときも、身を低くして、下からわたしたちを招いておられるのです。            

        

(2015年 3月 1日 受難節第2主日礼拝説教)